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「……もう一つ、お願いしても良い?」
「うん」
「詩葉さんのところに行かないで」
恐る恐る口にした私の願い。それを聞いたとき、彼は少しだけ微笑んで頷いた。
「……分かった」
彼の答えを聞いたとき、私の命は、きっとこれで終われる。そう思った。私がずっと求めていた、贖罪の場をついに見つけたのだから。
そうだ、これは贖罪なのだ。私は自分の罪を消し去るために、彼にすべてを捧げる。すべての罪を洗い流すことができれば、きっと私は死ねるだろう。この長く続いた命は、そうして終わるべきだ。もう誰も殺したくないし、誰も傷付けたくない。私の意志などは関係ない。ただ、そうするべきなのだ。
だからこそ、過去のことはすべて断ち切らなければならない。私はあの男に、再び巡り合うため、二百年に近い年月を生きた。すべては、その瞬間のためだった。しかし、自分を大事にしてくれる人間を、愛し続けてくれた人間を、裏切るべきではないのだ。
彼はずっと私を愛してくれていた。十代の頃に出会ったあの日から、私のことを想い続けていたらしい。さらに、二百年という時間を経て、再び現れた私にも、同じ気持ちを差し出してくれた。これだけ幸福なことはない。ずっと、私が求める彼でいてくれたのだ。だから、私は彼と残りの人生を歩むことを選ぶ。
そのためには、あの男との因縁を断ち切らなければならない。会って、永遠の別れを告げよう。いや、そんな必要はあるだろうか。もう関係のない人間ではないか。あの男にとっても、姿形の変わった私は、もう他人でしかない。言葉を交わしたところで、何があるのだ。
そうか。私は何て嫌な人間なのだろう。最後にあの男に会えば、また運命を取り戻せるかもしれない、と考えている。もしかしたら、あの男が私に気付くかもしれない。そしたら、私は失われた自分を、本当の意味で取り戻せるかもしれない。あの男が、私に気付かなかったとしても、悪魔の力を使えば、簡単に従わせることだってできる。どうしてだろう。彼と残りの人生を共にするつもりだったのに、どうしてまた、あの男を自分のものにしようと企んでいるのだ。
そんな葛藤を抱きながら、ついにあの男が現れるはずの場所まで来てしまった。別れを言うだけだ。別れを言って、すぐに立ち去るのだ。きっと、あの男は見知らぬ女に声をかけられて、びっくりするだろう。
もしかしたら、調子に乗って私を呼び止めるかもしれない。もしかしたら、私が何者なのか気付くかもしれない。でも、私はあの男の言葉など耳にしないで、すぐに立ち去るのだ。
そして、約束通り、彼のもとに帰り、彼とこれからの人生を過ごす。そしたら、私は今までと違って、老いることができるかもしれない。彼と一緒に老いて、人生を終えられるのではないか。それこそ、私がやるべきことなのだ。
あの男が現れた。駅の出口から数歩移動すると、こちらを一瞬だけ見た。私に気付いたのだろうか。そんな期待を抱いていたことに、また罪悪感を覚えた。あの男は歩みを止めることなく、目的の場所に向かって行ってしまう。私は腰を上げ、その後を追った。
声をかけ、別れだけを告げ、去る。
声をかけ、別れだけを告げ、去る。
声をかけ、別れだけを告げ、去る。
それだけだ。たったそれだけで、私のこの長い旅は終わる。後は幸せな余生を過ごすだけに違いない。私の旅は…いや、私の恋は終わったのだ。月並みな言葉だが、燃えるような恋だった。自らの体を切り裂き、痛みを抱きながらも、それでも突き進み、欲しいものをその手にしようとした。青春だった。恋愛だった。運命だった。手にしたいと、あれだけ願った。これだけ生きても、忘れてしまっても、人でなくなってしまっても、また巡り合って、また思い出した。それだけ、私は、この男が好きだったのだ。
「拓也」とついに声を出して、呼び止める。
あの男は振り返った。私を見つめる。二百年ぶりに、あの男が私を見た。私は運命を感じてしまう。ならば、あの男はどうだろうか。この瞬間に、運命を感じるのではないか。しかし、そんな私の期待を裏切るような、信じられない一言が返ってきた。
「……すみません。誰でしたっけ?」
「私は……」
私が誰なのか、言ってしまえば良い。言ったところで、信じるだろうか。異常な女に声をかけられた、と怪しまれるだけかもしれない。そうじゃない。別れを告げるのだ。さよなら、と一言残して、この場を去るのだ。
「もしかして」と男は言う。
もしかして、何だろう。私が誰なのか、分かったのだろうか。気付いたのだろうか。運命を感じたのだろうか。
「もしかして、この前ライブに来てくれた…?」
意味が分からなかった。どうして、私に気付かないのだ。気付かないにしても、何か感じ取ることはないのか。もう良い。この男が分からないのなら、分からせてやるだけだ。方法は簡単だ。何度この手を使ったか、もう覚えていないが、今だって当然のようにできる。悪魔の吐息で、この男の意思を奪い、後は口付けを要求するだけ。そうすれば、この男の体内に、悪魔の苗床を植え込むことができる。あとはもう私のものだ。この男は私に愛を注ぐだけの、哀れな苗床になる。ただ、今までの男たちと違うのは、私がこの男を愛していること。この男のすべてを吸い尽くすまで、愛し尽してやろう。それが、私の、この男への復讐なのだ。
「また選択を誤った」
どこからか、声がした。妙な感覚があった。周辺が静止していた。いや、世界中のすべてが、何一つ、僅かにも動いていない。時間が止まっている。すると、今度は風景の所々に亀裂が入る。私を取り囲んだ世界のすべてに皹が入ると、今度は石を投げ付けられたガラスのように、すべてが割れてしまった。そうなってしまうと、私の周りは真っ黒な世界に変化した。この光景をいつだかも目にした気がした。
真っ黒な世界の中、私だけが光を持っているかのように、姿を保っていた。何もかもが黒い異様な世界という、異常に捕らわれた、と思ったが、それで終わらなかった。今度はその黒い空間に別の景色がパズルのように貼り付けられ、再構築されていったのだ。
そして、現れたのはグランドピアノがある部屋だった。私はここがどこなのか知っている。記憶を取り戻した私にとって、トラウマとも言えるようなこの場所を。
「お前がどんな過ちを犯したのか、少しだけ教えてやろう」
声がそう言うと、私の足元にぽっかりと巨大な穴が現れた。私はゆっくりと落下する。どれだけ深い穴なのか分からない。私は長い落下の後、そこに叩き付けられた。痛かった。苦しかった。そして、抜け出せなかった。長い時間、私は暗い穴の底で、ただ蹲るしかなかった。
「助けてあげるよ」
知っている声だった。あの男の声だった。私は顔を上げる。すぐ真上からその声が聞こえた気がした。あの男がこの暗い穴から引っ張り上げてくれるのかもしれない。そんな風に期待したのだ。でも、顔を上げたところで、あの男の姿はなかった。
「助けてあげるよ」
また声がした。それはあの男の声ではない。私はあの男の声がもう一度、私を呼びかけるのを待つ。それ意外の声には反応するつもりは、なかったのだ。それなのに、それからどれだけの時間が経っても、あの男の声はなかった。
無限とも思えるような時間が経過しても、私はただ暗闇の中で蹲っていた。助けが欲しかった。いや、手を差し伸べてくれた人たちは、いたのではなかったか。私が助かろうとしなかっただけなのではないか。
そうだ、私は穴に落ちてしまった。でも、自分から助かろうとしなかったのだ。少女だった私は穴に落ちて、自ら這い上がろうとしなかった。助けてくれるのは、一人の人間だけだと決めつけて、穴の中で蹲っていただけなのだ。助かる方法を考えて、実践して、幸せになろうとすればよかったのではないか。
それに気付くのが、あまりに遅すぎた。なぜなら、私は自らの力で、この穴を這いあがる方法なんて知らないのだから。助けて欲しい。誰か。
子供のように泣きじゃくって、こんなときに、甘えたいときに、いつも助けてくれたのは、彼だったのではないか、と思い出す。
「ピアノが聴きたいよ」
私は一人呟いた。助けて、白川くん。助けて、まこちゃん。私の気持ちだけが、穴の外へと浮上して行く。それは少女の形をしていた。私の一部だけでも、彼のもとへ辿り着いてはくれないか。もしくは彼が、私を見つけてくれないか。きっと彼なら、私を見つけてくれる。きっと彼なら、私だと気付いてくれるはずだ。
会って、ちゃんと謝りたい。贖罪に徹するべきだった。後悔しても遅いだろう。もし、ここから出られるならば、今度こそ、必ず、すべてを、彼のために捧げよう。だから、どうか。どうか、どうか、どうか。
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