6
その家まで、数分も経たないうちに、辿り付いてしまった。もしかしたら、最初から茉文ちゃんは僕をここへ導くつもりだったのかもしれない。
僕はあの家を前にして、息を飲んだ。なぜなら、以前に増して不気味さが漂っていたからである。あのときは、何となく不気味で、近寄りたくない、と思う程度のものだったが、今回は違う。そこに魔が潜んでいると、一目で分かるほど、禍々しい何かがあるのだった。
「ここよ」と茉文ちゃんが言う。
「うん。ありがとう。この場所を探していた」
「穴はどこにあるのか、分かる?」
「うん。二階の奥の部屋。ピアノがあるところだ」
「……私はここで待っている」
「その方が良いの?」
僕の質問に、彼女は頷いた。僕も頷き返し、玄関の方へ向かう。玄関のドアノブに手をかける前に、振り返って茉文ちゃんの姿を確認すると、彼女は薄く笑顔を浮かべて立っているだけだったが、少し離れたところで、多くの幽霊人間がこちらの様子を窺っていた。まるで、僕の目的を邪魔するかのように。そして、茉文ちゃんはそんな彼らに睨みを利かす門番のようでもあった。
玄関を開けると、温い空気が中から外へと流れる。やはり、尋常ではない気配が充満していた。
土足のまま、家の中に上がる。一歩進む毎に、足が竦みそうになるくらい、凄まじい恐怖に撫でつけられるようだった。階段を上がる。ピアノがある、あの部屋に近付けば近付くほど、呼吸が苦しくなった。重苦しい空気も濃くなっているようだ。
一番奥の部屋のドアを開ける。この部屋に関しては、前回訪れたときとは、大きく違った。広い部屋の中央にグランドピアノがあることは変わらないが、その手前に半径二メートル程の大きな穴がある。夢で見た穴と全く同じだ。僕は慎重に近付き、穴の中を覗き込んだ。真っ黒な空間が、どこまでも続いている。
「白川誠か」
突然、背後から声があり、僕は心臓が跳ねあがった。下手をすれば、足を滑らせて、穴に落ちてしまうところだった。振り返ると、そこには人型の黒い物体が、漂っていた。頭部らしき場所には、青い光が二つ輝いてるため、それが目のような役割だと分かる。幽霊人間に似ているが、何かが違うと感じた。彼らはもっと虚ろで、意思がなく、ただ怒りがあって襲い掛かってくるようだった。だが、目の前にいる存在は、明らかな意思を持ち、思慮さえある印象だ。
「あの女を助けに来たのか」
声からすると、男のようだ。
「……そうです」
僕は答えながら、穴に突き落とされることがないよう、立ち位置を変える。だが、彼はそのような暴挙に出る様子はないらしく、青く光る二つの目で、僕の動きを追っていた。
「ここまで、お前が辿り着いたのは、二度目だったな」と彼は言う。
「はい。前回も、貴方が小夜を隠したのですね」
「前回? そうだ。前回も、前々回も…結果的に何度も私がここに、あの女を封じ込めたことになるな」
部分的に話が噛み合っていない気がした。それとも、僕が知らない前々回が、かつてあったのだろうか。
「どうやって、あの女を助ける?」と彼は自分のペースで話を続けた。
「貴方は小夜をどうするつもりですか?」
「どうするつもりかは、既に忘れてしまった。ただ、あの女が…心を入れ替えるのを待っている。それだけだ」
彼も小夜と同じように、長い年月を過ごしているのだろうか。自分の目的を忘れてしまうくらい、長い年月を。
「でも、私はもう疲れてしまった」
そう言った男の姿が、僅かに小さくなったように感じられた。彼が長い間、何をしていたのか、知る由はないが、多大な労力を費やしてきたのかもしれない。彼は自らの長い日々を語る。
「何度も何度も、あの女が変わるよう、繰り返しても、結果は変わらなかった。何度やっても、あの女は不幸になる道を選んだ。自分で決めた、運命というものを選んだのだ。本当は、そんなものなんて、存在しないのに。ただ、一人の女が意固地になっていただけのことなんだ。何度繰り返しても、あの女は愚かな道を選択する。私は失望していた。そんな中、何度か意外な行動を見せたのか、お前だった」
彼の目が、確かに僕の方へ向けられた。
「お前のピアノは、あの女を癒す力があった。それは、あの女の気持ちを一時的に変えることもあった。いくらか選択肢に影響を与えもした。それでも、あの女の運命は変わらなかった。一度も変わることはなかったんだ。しかし、そこには足りない要素があった。あの女の意思を変えるための、要素が足りなかった。今回のお前は、それが分かっているはずだ」
僕は頷く。
「お前に、あの女の運命を託したい。そのピアノを使って、私とあの女の魂を…救ってはくれないか」
「僕は、貴方がその障害になるとばかり思っていました」
「最初から、そんなつもりはない」
彼は小さく溜め息を吐いたようだった。そして、部屋の隅に移動する。僕にピアノを弾け、という意味なのだろう。
僕はその意思を汲み取るように、ピアノの方へ移動して、椅子へ腰を下ろした。もう一度、彼の様子を窺う。彼は最初からそこにあったオブジェのように、全く動かなかった。
僕は鍵盤に手を置く。彼女を助けるために、彼女の運命を変えるために、僕が今から何をするべきなのか。いや、彼女の意思を変えるためには、何をするべきなのか。僕は分かっているつもりだが、具体的にどうすべきかまでは、分かっていない。とにかく、今はただ、ピアノを弾くしかない。
僕は鍵盤と指先の間に、宇宙を感じた。そして、演奏を開始する。リストの愛の夢第三番。僕が今まで、何度も演奏してきた曲だ。
ピアノを通して、僕だけの世界が広がる。そこでは、僕は万能の力を持っていた。目の前にある底なしの穴。それがどこまで深いものか理解し、小夜の存在が確かにあることも把握できた。彼女は穴の奥底で蹲って、顔を伏せていた。意識はないらしい。どうやら、心を閉ざし、その奥底で意識を眠らせているらしい。まずは、彼女の意識に触れられるか、試してみることにした。




