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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第五章 白川誠 Ⅱ
57/61

5

目が覚めた。


僕の身に何があったのか、いつ記憶を失ったのか。全くと言って良いほど記憶がない。僕は自分が橋の上に立っていることに気付く。これは、目が覚めたと言うより、意識が飛んでいた、と言う方が正解なのかもしれない。


何が起こったのかは理解できないが、無事に入り口を通過し、あの奇妙な街に辿り着いたらしい。その証拠に、街は霧が濃く、空は一切の感情を失ったように灰色だった。小夜と訪れたときと全く同じだ。


「白川くん」と声が聞こえた。


声の方に振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。


「茉文ちゃん?」と僕は確認するように、その名を口にした。


少女は微笑を浮かべ、ゆっくりと一回だけ頷いた。姿形は先程まで僕と一緒にいた、茉文ちゃんに違いはなかったが、どこか違和感がある。僕が橋の入り口を通過して、どれけの時間が経ったのかは分からないが、目の前にいる茉文ちゃんは、僕が知っている彼女よりも、大人びていて、少女らしい青さのようなものが見られなくなっていた。


「怪我はない?」と彼女は言う。


僕は少し警戒しつつも頷いた。


「じゃあ、行きましょう」


「行くって…どこに?」


彼女はもしかしたら、この異界の案内人なのだろうか。そんな風に感じて僕は尋ねた。しかし、彼女は心外だったらしく、首を横に傾げる。


「白川くんは、目的があって、ここにきたのでしょう?」


「うん。……じゃあ、行こうか」


僕は霧の濃い灰色の街を、知らない女の子と一緒に歩く。歩いていると、すぐに幽霊人間と遭遇した。ここが、彼らの世界であることを思い知らされるように、何体もの幽霊人間が現れるのだった。しかし、こちらの世界では、彼らは積極的に僕らを追いかけてくるようなことはない。ただ、こちらの様子を窺うように、遠巻きに見つめているだけなのだ。


「どうしたんだろう」と僕が呟くと、茉文ちゃんが、くすりと笑った。


「怯えているのよ。相手が自分より強いって、理解できているのでしょう」


「自分より強い…?」


僕は茉文ちゃんを見つめる。彼女から溢れる違和感を見極めようとしたのだ。それでも彼女は動揺した様子がなく、ただ笑顔を浮かべて首を傾げるのだった。


ここは何かがおかしくなった世界だ。この女の子は、茉文ちゃんであってそうでない、別の人間だと思うしかないようだ。それに、幽霊人間から襲われることなく、この街を歩けるのであれば、幸運ではないか。


三十分程、街を歩き回ったが、例の家を見つけることができなかった。あの時も混乱していたし、道を覚える余裕なんてなかったのだから、仕方ないだろう。焦る僕の様子を心配したのか、茉文ちゃんが「どうしたの?」と聞いてきた。


僕はこの少女が信用に足る人物なのか分からないため、自分が小夜を探していると、相談していいものなのか、考えあぐねた。しかし、彼女が僕に危害を加えるものであれば、今瞬間にも実行できるはず。それにも関わらず、ただこうして付き添うだけであれば、やはり彼女はこの世界の案内人なのかもしれない。僕がこの街に辿り着いた時点で、何かが都合よく働いているのだ。運命のような何かが、導いているのだ、と解釈する他ない。


「人を探しているんだ。たぶん、この辺りにいる」


「その人は、白川くんの、恋人?」


「……分からない。でも、僕はその人と一生を共にする覚悟はあるつもだ」


「素敵。どうして、そこまで決意できたの?」


「誰かと一緒にいても、傷付くことが多かったんだ。でも、彼女といれば、そういう気持ちよりも、笑ったり救われたり、ポジティブな感情の方が多かった。この人となら、どこまでも一緒にやっていけると思ったんだ。そのためなら、今の生活をすべて捨ててしまっても構わないって決意できるくらいに」


「私には…そんな経験なかったな」


「……茉文ちゃんは、多くの人に愛されている気がするけれどね」


「そう? 私は誰かに愛されたとしても、それに気付いてあげられなかったのかもしれない」


「それか、愛してくれる人に、目を向けられなかったんじゃないのかな。だから、その人の気持ちを、真剣に受け止めるのが、難しかったのかもしれない」


「そうなのかな。そうなのかも…」


「僕もそうだった。愛してくれる人間の気持ちだけを受け取って、自分は自分の好きなようにしていた気がする」


「……それは悪いことなの? せっかくの一度きりの人生なのに、どうして我慢したり他人の気持ちに合わせないといけないの?」


「そうは言っていないよ。ただ、受け取るだけではいけないってだけだよ。そんな状況になるくらいなら、受け取らないことを選ぶか、等価値のものを与えるべきだ、ってことだと思う」


「ふーん。白川くんは、与えられたから、与えることを選んだの?」


「僕の場合は、少し違う。与えられているものの価値に気付いたし、僕も与えたいと心の底から思ったんだ。嫌な言い方になってしまうけど、利害が一致したのだろうね。でも、単純な言葉で言えば、ただ好きになったってだけのことなんだ」


「……でも、その人は消えてしまった?」


「……うん。結局のところ僕は、彼女にとって暇潰しのような存在でしかないかもしれない。でもさ、僕はどうしても彼女を手に入れたい。そのためなら、僕は…」


「ねぇねぇ、白川くん」と彼女の雰囲気が、また少し変わった。


それどころか、自分の腕を僕の腕に絡め、人懐っこい表情を見せる。


「私は白川くんのこと、好きだよ」


「ありがとう」


僕も笑顔を返した。


「きっと、その人も白川くんが迎えに来てくれるのを待っているよ。白川くんも、そう思うでしょう?」


「うん。そう思っていたけど、少し自信がなくなっていた。僕は彼女を助けたいと思って、良いはずだよね?」


「そうだよ、絶対」


茉文ちゃんは僕から離れると、指を一本立てた。


「ねぇ、その人が消えてしまったときの話を聞かせて。何が起こったのか、考えてあげる」


「分かるの?」


「同じ女だもの。何か分かるかもしれないわ」


僕は頷き、小夜が消えた、その日のことを説明した。すべてを聞き終えると、茉文ちゃんは笑顔を見せながらも、どこか寂し気で、どこか恥じらうような、複雑な表情を見せた。


「きっと、その人は穴の中に落ちてしまったと思う」


本当に子供らしからぬ表情である。だからこそ、僕は彼女が、その穴の場所を知っていると、確信していた。彼女ならば、その場所まで、僕を導くだろう。そして、小夜を助けるチャンスを僕に与えるに違いない。


「茉文ちゃんは、その穴がどこにあるのか、知っているの?」


彼女は微笑むと、僕が思っていた通りのことを言うのだった。


「知っているわ」


「案内してほしい。その場所まで」

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