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「ねぇ、一生のお願いなんだけどさー」
小夜が消えてしまった日の前日のこと、彼女は後ろから僕に腕を絡め、そんなことを言ったのだ。
「な、なに?」と僕は警戒する。
それは以前も小夜に一生のお願いをされたような気がしたからだ。
そのときは、ろくでもないことだったはず。ただ、このときは黙り込んだ彼女が不安を隠すように笑ったようだった。なぜか、僕の記憶が混乱する。
実際、彼女は何も言い出さず、沈黙が流れた。やはり、以前に同じようなことがあった気がした。その感覚は僕に警告するかのようだ。彼女の話にしっかり耳を傾けなければ後悔する、と。
僕はついこの前、ピアノを通して小夜の心を見たばかりだった。彼女の魂は驚くほどに疲れていたことを知っている。彼女がどれだけの時間、孤独と戦ったのかは知らない。それにも関わらず、彼女は他人に優しくできる人間なのだ。僕は彼女に何度も救われていたではないか。そんな彼女が、ただ傷付くばかりという状態を、僕は許すべきではないと思った。
「小夜…言いたいことがあるなら、正直に言ってほしい。僕は君のためなら、何かを失う覚悟だってあるよ」
小夜は僕の言葉が意外だったのか、目を見開いたまま、動かなくなってしまった。しかし、その瞳が少しずつ涙で溢れて行く。そして、一滴の雫が彼女の頬を伝った。
「ピアノが聴きたい。まこちゃんの、ピアノが聴きたいよ」
ピアノが聴きたい。僕は何度その言葉を聞いてきただろうか。ただ、本質的な意味で、僕のピアノを理解してくれたのは、小夜だけだった。だとしたら、彼女のその言葉は、僕にとって特別なものではないか。
「明日、朝一番に大学へ一緒に行こう。誰も使わないような音楽室があるんだ。そこで、小夜が飽きるまで弾き続けるよ」
「本当?」
「本当」
「……もう一つ、お願いしても良い?」
「うん」
「詩葉さんのところに行かないで」
「……分かった」
僕の心境にどんな変化があったのか、自分でも上手く説明ができない。でも、あえて説明するとしたら、きっと本当に自分を求めてくれているのは誰なのか、理解できたのだと思う。そして、それは自分自身が本当に愛情を注ぐべき相手を理解できた瞬間でもあった。
次の日、僕は小夜のためにピアノを弾き続けた。彼女は何時間も黙って聴いていた。本当に飽きることなく延々と。小夜はリストの愛の夢を何度もリクエストした。僕は何度でもそれを弾いた。
最終的には、音楽室を使う学生たちがやってきたから、僕たちはそこを去らなくてはならなかった。大学を出て、駅まで歩く途中、小夜は言う。
「実はね、私…ずっと忘れられない人がいたの。ずっと昔から。私が人間で、まだ十代の頃から」
「ずっと? 百年も二百年も思い続けるって、凄いことだね」
「まこちゃんは、たった五年で詩葉さんから私に乗り換えたもんね」と小夜はからかうように笑った。
「嫌なことを言うなよ」
「ごめん。でもね、私もそろそろ、その人にお別れを言おうと思う。もしかしたら、帰ってきても、泣いたり笑えなかったりするかもしれないけど、まこちゃんは許してくれる?」
「うん。もし、小夜に元気がなかったら、ピアノを弾くよ。お腹が空いているなら、いっぱい食べさせる。だから、安心して別れを告げてくると良いよ」
「……まこちゃん。本当に大好きだよ」
そう言って、小夜は僕にキスを求めた。僕は自然とそれに答える。僕は小夜が言う、忘れられない相手は、遠い昔に死んでしまった人だと思っていた。きっと、この近くにお墓でもあるのかもしれない。そんな風に思ったのだ。だから、小夜は出かけたら、すぐに戻ってくるだろう、と解釈していた。しかし、彼女は帰ってこなかった。
僕に愛想を付かしてしまったのだろうか。それとも、忘れられない相手とは、存在する人だったのだろうか。小夜は本当に僕を捨ててしまったのだろうか。だとしたら、僕の人生に何が残るのだろう。僕は誰のために、ピアノを弾くのだろうか。
目を覚ます。意識が消える瞬間、もしかしたら、死んでしまったのではないか、と思ったが、どうやら生きているらしい。
体中が痛い。どうやら固いコンクリートの上で、眠っていたようだ。しかし、頭は心地の良い感触で、痛みがなかった。
「やっと、起きたね」とすぐ上で声が聞こえた。
朦朧としていた視界のピントが合い始める。僕の顔のすぐ近くに、少女の顔があった。
「茉文ちゃん」
「うん」
彼女の顔は少し赤らんでいた。その顔がとても可愛らしいと思った頃、僕の意識がはっきりとし出して、自分がどういう状況なのか理解する。僕は彼女の膝の上で眠っていたのだ。僕はすぐに身を起こした。
「ご、ごめん…。何か急に頭が痛くなって!」
「うん。大丈夫」
彼女は顔を背けた。何だかみっともないところを見せてしまったし、嫌な思いをさせてしまっただろう。
「あの……大丈夫? 救急車、呼ぼうか迷ったんだけど」と茉文ちゃんは顔を背けたまま言った。
「だ、大丈夫。今は平気みたい」
本当に頭痛や熱っぽさが消えていた。なぜだろうか。小夜に毒を吸い出してもらった後、というほどではないが、ある程度、体が軽くなり、頭痛も収まっている。
「良かった。ねぇ、白川くん…もう夜になっているよ」
「本当だ」
僕はどれだけ気を失っていたのだろうか。茉文ちゃんはやっと僕に顔を見せてくれると、笑顔で言った。
「帰らないと。一緒に駅まで行こう」
「そうだね」
僕たちは、二人で駅の方へ向かった。
「ねぇ、白川くん。凄い言いにくいことなのだけれど、話しても良い?」
「そんなデリケートな話の聞き手が、僕でも良いなら、喜んで聞くよ」
「……私さ、自分がこうだと思ったら、あまり退けない質なんだよね。欲しいと思ったら、手に入れるまで全力を尽くすし、見つからなかったらしつこく探す。だから、お父さんのことも探し続けるし、欲しいものがあったら、全力で手に入れようと、思う。私は頑張っても良いんだよね?」
「それはもちろん、そうするべきだと思うよ」
「私ね…白川くんのこと、好きになっちゃった」
「……え?」
「さっき、白川くんが寝ている間、キスしちゃったんだ」
驚きのあまり声が出ない。彼女も恥ずかしそうに微笑む。
「それで、気付いちゃったの。私、この人のこと、好きになっちゃったんだ、って」
「いや、それは…勘違いじゃないかな?」
「どうして? こんなに私はドキドキしてて、それは私しか分からないことなんだから、白川くんには否定できることじゃないでしょ?」
「そ、そうかもしれないけど…」
そんな会話をしながら、僕は妙な違和感に気付く。僕の体には、毒が回り切っていた。それを吸い出して、体調を回復させられるのは、小夜だけのはず。でも、僕の体が軽くなったのは、目の前にいる、茉文ちゃんの仕業と考えられないだろうか。そういえば、彼女と出会ってから、何度か接触する機会があった。その度に、僕は少し体が楽になったのではないか。
「ねぇ、歳の差が気になるなら、すぐに大人になる。それまで待ってよ。そしたらさ、白川くんは目を覚ます度に、少しずつ可愛い彼女ができる日が近付いているって実感できるじゃない。毎朝そんな風に考えられたら、生きるのが楽しくなるんじゃないかな」
それは確かに良い提案かもしれない。もし、僕の体の維持を茉文ちゃんができるとしたら、明るい未来を想像できるのかもしれない。小夜を犠牲にすれば、僕は新しい未来を掴むことができるのだろうか。
「どう? 返事は今すぐじゃなくて良いけど、嫌な思いをしていないかだけ、教えてもらえないかな?」
「……嫌じゃないよ」
「じゃあ!」と彼女の顔が明るくなった。
「でも」と僕は彼女の言葉を遮った。
喜びが広がった彼女の表情が曇ってしまう。それは僕にとっても痛ましいことだった。
「僕は好きな人がいるんだ。その人を迎えるためには、僕は誰かの気持ちに応えるなんてことは、できない」
僕がそう答えたとき、経験したことのない生ぬるい風が吹いた。茉文ちゃんもそれを感じたのか、不快感と恐怖心を抱いた表情に変わる。二人で殆ど同時に風が吹いた方を見た。
そこは、あの橋があった。しかし、ただ橋があるだけではなかった。橋の手前で空間が渦を巻くように歪んでいたのだ。まるで、別の世界への入り口のように。
「あった」と僕は思わず口にしていた。
「え?」
茉文ちゃんはそんな僕に不穏な空気を感じ取ったらしく、首を傾げた。
「白川くん、見付けたって…あれのこと?」
「うん。探していたんだ、入り口を。行かないと」
「行くって…どう見ても、おかしい場所だよ? 絶対に危ないよ。あんなところに入ったら、戻ってこれなくなるかもしれないよ?」
「そうかもしれない。でも、行かなきゃ」
歩み出す僕を引き止めるように、茉文ちゃんが袖を掴んだ。
「駄目だよ。行かない方が良いってば。白川くんが何を探していて、何と戦っているのかは分からないけど、今なら逃げられる。普通の生活に戻れるよ。あそこに入ってしまったら、そういうものが一生失われてしまう気がする。だから、絶対に駄目だよ」
彼女の言う通りなのだろう。ここで戻れば、僕は本当に茉文ちゃんと、もっと親しくなる未来があるかもしれない。体だって元通りになるのかもしれない。そしたら、普通の生活を取り戻せるだろう。悪魔に精力を貢ぎ続ける生活なんて忘れて、普通のサラリーマンになって、妻のために働く、という生活。いや、父のようなピアニスト。そんな想像もしなかった、幸せな未来が訪れることも……。
でも、そんなものは僕が求めているものではないのだ。そんな未来を手放してでも、僕にも欲しいものがあるのだ。父が言ったように、何かを犠牲にしても手に入れたいものが。
「君は帰って。僕は一人で行くから」
僕は彼女の手を引き剥がすと、橋の前に出現した渦の中へと向かった。
「待って! せめて一緒に行くから。お願い、待って!」
背中に茉文ちゃんの言葉を浴びるが、僕はそれを無視した。ここで、止まるわけにはいかない。僕は踏み出す。小夜を助けるために。そして、僕は入り口を潜るのだった。




