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夢を見た。小夜の夢だ。
彼女は暗闇の中に立っていた。その足元では、僅かだが広範囲に発光が見られる。それは、半径二メートルはあるだろう、大きな穴だ。彼女はその穴を無表情で見下ろしている。
僕は小夜に話しかけようとしたが、声が出なかったし、体を動かすこともできなかった。僕はただの固定カメラみたいに、彼女の姿をじっと見つめることしかできなかったのだ。
小夜は目の前の大きな穴を暫く見つめていたが、突然、何の前触れもなく、そこへ身を投げてしまう。僕はすぐにでも駆け寄り、彼女の無事を確かめたかったが、やはり体が動かない。いや、きっと僕の体は、そこに存在しないのだ。
小夜が危険な目に合っているかもしれないのに、何もできず、焦りと悔しさで狂いそうになった。もう彼女を救えない状態に陥っていたら、僕はどうすれば良いのだろうか。そんな不安で頭がいっぱいになった頃、僕の視界に変化があった。
穴の中から、少女が浮かび上がってきたのだ。小夜ではない、見知らぬ少女だ。直立の姿勢のまま、重力に逆らって浮き上がってきたのである。
そして、彼女は優雅に地へ足を付けた。そして、彼女は歩き出す。僕の視点がある方へと。だが、彼女の左腕から、何かが垂れ下がっていることに気付いた。赤いリボンだ。彼女の左腕に結びついたそれは、穴の奥底までつながっているのか、延々と伸びていた。そのリボンはかなり長いらしく、彼女は自由に歩き出す。そして、僕がいる位置を通り過ぎ、後方へと消えてしまった。
そこで僕は目覚めた。時計を見ると、朝の六時だった。夢の中に出てきた女の子の顔が、妙にはっきりと頭に残っていた。どこかで会ったことがあるかも、と記憶の中を探ってみたが、それらしい人物はいなかった。
それは、小夜がいなくなって、二日目の朝だった。
その日も、僕は小夜を探すために出掛けることにした。昨日は家を中心にして、周辺を歩き回ったが、手掛かりすら掴めなかった。そもそも、僕は小夜の過去を知らないし、僕と彼女の関係以外、どんな人生を歩んだのか、全く知らない。だから、彼女が姿を消してしまったら、どこを探せば良いのか見当も付かず、手掛かりを掴むことすら、殆ど不可能なのだ。
だからと言って、僕は彼女を探さないわけにはいかない。彼女がいなければ、僕は命を落としてしまうし、何よりも…僕は彼女に言わなければならないことがあるのだ。
見当は付いていなかったが、情報が少ないために、僕の選択肢は絞られていた。一つは彼女と出会った、僕が通う大学の付近を探すこと。僕たちは、そこで出会ったのだから、彼女にとって縁のある場所が、近くにあるかもしれないし、その辺りで彼女は隠れているかもしれない。しかし、その可能性は低いだろう、と僕は思っていた。
もう一つの選択肢としては、僕と彼女が以前迷い込んだ不思議な街の、不思議な家だ。そこで彼女は、文字通り消失したことがあった。あれはとても奇妙な出来事だったし、存在自体が奇妙な小夜にとっても、異常な事態だったらしい。彼女はあの体験の後、こんなことを言っていた。
「私はまたあそこに導かれてしまう気がする」
そして、それが起こったとき、戻れなくなるかもしれないと懸念していた。もしかしたら、また何らかの異常が起こって、彼女はあの家に引き込まれてしまったのではないか、と僕は推測したのだ。一方の選択肢と比べて、こちらの方が可能性が高いと考える理由としては、彼女の性格にあった。彼女は、自分が僕の命を握っていることを十分過ぎるほど理解していて、それにも関わらず、突然いなくなるような人間ではない。急に姿を消す、ということは、とても不自然なのだ。
だとしたら、彼女に不測の事態が起こった、と考えた方が良いだろう。小夜はその気になれば、とんでもない怪力を発揮するし、ちょっとやそっとの怪我で動けなくなることもない。そんな小夜を不測の事態に追いやるとしたら、彼女以上の奇妙な現象としか言えないのだから。そして、彼女よりも奇妙な現象が、いくつもあるとは思えない。だとしたら、候補として挙げられるのは、あの家だけなのだ。
僕はあの家を見つけた街へと向かった。
閑静な住宅街、という言葉をそのまま再現したような、結婚して子供もいるとしたら、こんな場所に住みたいと言える街並みだ。平日の昼間なので、子供もいないし、せいぜい犬の散歩をしている老人とすれ違う程度にしか人を見ない。
僕は取り敢えず、あの日歩いた道を辿ることにした。まずは、陰陽師と会うために小夜と一緒に訪れた、あの神社へ向かった。神社も暇らしく、人気がない。あのときの陰陽師らしき人物も、見当たらなかった。神社の裏に森があることに気付いた。小夜と一緒にきたときは、気にも留めなかったが、なかなか怪しく、決して一人で入ろうとは思えない雰囲気がある。しかし、妖怪やら妖精やらが飛び出してくることもなく、僕はその場を後にした。
あの日、神社を去った後は、どうしただろうか、と考える。確か話しながら適当に街を歩いたはずだ。他愛もない話をしたり、時には黙ったままだったりしながら、当てもなく。そう考えると、僕は小夜の前では、かなり自然体でいたのだろう。唯一の肉親である、父の前ですら緊張している僕が、落ち着いて一緒にいられる人間がいたと思うと、不思議なことだ。
曖昧な記憶を頼りに、あの日歩いた道を再現しようとした。すると、途中で橋を見かける。橋の下に流れる川は、決して大きいものではないが、まるで街を二つに分けているような印象があった。
そう言えば、と思い当たる。あの日も、この橋を渡ったのではないか。この橋を渡ったら、突然に霧が濃くなり、別世界にでも迷い込んだように、街の気配が変わったような……。
だとしたら、と僕は緊張しつつ、橋を渡る覚悟を決める。この橋を越えたら、またあの奇妙な街へ入り込むはず。そこには、亡霊のような影がいたし、小夜を捕らえる不気味な力もあった。何の特徴も特技もない僕が、そんな場所で無事でいられるだろうか。だが、小夜がいるとしたら、この先だ。恐ろしい場所ではあるが、唯一の希望でもある。
僕は拳を握り、さらになぜか息を止めて、橋を一気に渡り切った。しかし、いや…当然と言うべきか、何も起こらなかった。橋の向こう側の街を散策するが、やはりあのときのような、変わった風景は現れない。一時間ほど歩き回って、僕は一つの結論を出す。あれは小夜と一緒だったからこそ、現れた世界ではないか。僕のような凡人では、別世界への扉など、逆立ちしても開けられるものではないのだろう。それでも、僕はあの家が見つかるかもしれないと、さらに一時間歩き回ったが、それらしいものは、決して発見できなかった。
三日目の朝、僕はやはり大学の周辺を探すか迷ったが、最終的に昨日と同じ、あの街の周辺を探すことにした。
昨日と変わった様子はなく、街は平和そのもので、異常らしきものは一つもない。やはり、僕たちの世界はどこまでも続いていて、いつになっても現実と戦わなければならないのだろう、と思わせられた。
しかし、そうも言ってられない。なぜなら、僕の体は昨日よりも熱が上がっていて、体を動かすことがかなり苦痛だったから。これでは現実と戦うどころか、明日の身も危ないだろう。
体を引きずるようにしながら、既に一時間は街を徘徊した。もちろん、何も収穫がないまま、昨日と同じ橋の前に辿り着く。この場所も昨日と変わった様子はなく、不穏な空気はない。ただ、慎ましい小川を跨ぎ、こちら側とあちら側を明確にしているだけであった。これでは、橋を渡ったところで、何かが変化するとは思えない。状況は変わらず、体調は悪化するばかりで、溜め息が漏れそうになった。やはり、何も変わらない。変えられないのだ、と。
僕は仕方なく駅の方へ向かう。しかし、途中で強い眩暈を感じて、小夜と一緒に行った神社で休むことにした。頭痛も感じ、立っているのが難しく、鳥居の下にあった小さな石段に座り込み、落ち着くのを待つしかない。痛みが退く気配がなく、このままでは本当に死んでしまう、と実感せずにはいられなかった。
大きく深呼吸して、顔を上げると、少し離れたところに人影があり、こちらの様子を窺っていることに気付く。不自然にならないよう、それがどんな人物か、視界の隅で確認してみた。しかし、妙な違和感があり、僕はその人物をしっかりと確認する。その違和感は間違いではなかった。
それは、人間ではなく、人の形をした黒い塊だったのだ。小夜と見た、あいつだ。僕はついに、あの異様な街へ辿り着く手掛かりを得たのだ。そんな確信はあったものの、あの不気味な存在に対する恐怖心が強かった。
一度、距離を取ろうと僕は立ち上がったが、足が上手く動かず失敗する。すると、やつは僕を逃がすまい、と思ったのだろう。ゆっくりだが、こちらに向かってきた。僕は自分に冷静になるよう言い聞かせながら、今度こそ立ち上がる。激しい頭痛を感じながらも、その場から離れようと走った。
やつは最初こそゆっくりだったが、小走り程度のスピードでこちらに追いかけてくる。しかし、決して速いというほどではない。僕は神社の敷地の裏から、外に出ようと思った。そこから、駅の方へ、人の多い方へ、一度逃げようと考えたのだ。しかし、それは叶わなかった。裏の出口には、別の黒い人間がいたのである。僕は別の出口を探した。
気付けば、神社の敷地の中には、あの人の形をした黒い塊が、五人ほど増えていた。別の出口はない。あるとしたら、神社の裏にある林だった。どうも嫌な予感がして、入りたくはないが、あの不気味なやつらに捕まるよりは、マシかもしれない。
「こっち!」
僕が決断に迷い、立ち往生していると、どこからか声が聞こえた。声の方を見ると、神社を囲う石の塀が一部、緑色のフェンスになっていることに気付く。フェンスは大した高さではない。僕はそちらに駆け寄り、必死によじ登ってフェンスを越えた。
「こっちよ、ついてきて!」
先程の声の主は、中学生か高校生くらいの女の子だった。僕の手を掴むと、引っ張るように走り出す。僕は彼女に従って、ただ走ることにした。
数分後、僕はどこにでもあるような、小さな公園にいた。息を切らすほど走り、今にも倒れてしまいそうだ。
「危なかったね、お兄さん」と僕を助けてくれた少女が言った。
「ありがとう。君のおかげで、変なやつらに捕まらずに、済んだ」
そう言いながら、僕は顔を上げ、恩人の顔を確認した。
「き、君は…」
そして、驚きで声を詰まらせる。その少女は知った顔だったのだ。しかし、それは顔見知りというわけではない。こちらが一方的に知っているだけなのだから。
そうだ、彼女は夢の中で見た少女だ。彼女は僕の夢の中で、小夜と入れ替わるように現れた。そんな少女が、小夜を探しているタイミングで、突如として現れる。これが何かの縁だと思わずにはいられなかった。
「私? 私は茉文って言うの。この辺が地元なんだ」
動揺した僕の言葉は、彼女には名前を求められたように感じたらしく、丁寧に名乗ってくれた。
「あ、僕は…白川誠。その辺を歩いていただけの、大学生」
「その辺を歩いていた…? それだけで幽霊人間に追われていたの?」
「幽霊人間?」
「そう、さっきの黒いやつら」
「うん。やっぱり、追われていたのかな。近付いてきたから、危険だと思って、取り敢えず逃げようとしたんだ」
茉文ちゃんは僕の言葉に思うことがあるのか、神妙な面持ちで何やら呟きだした。
「茉文ちゃんは、どうしてあいつらを知っているの?」
「この辺には、たくさんいるの、あいつら。少し感覚が鋭い人なら、高確率で見えるらしいよ」
「たくさんいる…?」
「そう、集まりやすい場所なんだって。お父さんは、この街は魔境だ、って言ってたかな」
「やっぱり…特殊な場所なんだ」
「白川くんも、そういうの、見える人なんだね」
僕は首を傾げ、特に否定も肯定もしなかった。僕は今まで、霊的な体験をしたことはない。しかし、ピアノを弾くことで、人に見えないものが見える。それは「見える人」に入るのだろうか。
「だとしたら、危ないからこの街には寄らない方が良いよ。今日は帰ったら? 駅までの道、分かる?」
茉文ちゃんは心配して、僕を帰そうとしていた。しかし、僕は帰るわけにはいかない。彼女は、小夜を見つけるための手掛かりに違いないからだ。このまま別れてしまったら、次に会える保証はないだろう。
「茉文ちゃんは、何をしていたの? 平日だし…学校に行っている時間じゃないの?」
「ああ…」と彼女は聞かれたくないところだったのか、僅かに顔を曇らせる。
「事情があったのかな?」
「ちょっとね。人探しをしているの」
「誰を?」
奇しくも人探しをしている、という目的が一致している。これは、やはり何かに導かれていると考える他ない。
「お父さん。何日か帰っていないの」
「出張とか、そういうことではなくて?」
「うん。たぶん、車輪男にやられた、と私は思っている」
「車輪男?」
「それも、さっきの幽霊人間みたいなものなの。車輪男にやられるとね、目的の場所に辿り着けない呪いをかけられるの。さらに、時間の感覚も狂わされてしまうから、いつまでもいつまでも、漂うことになってしまう。だとしたら、お父さんはどこかで迷っているだろうから、私の方から見つけてあげないと」
茉文ちゃんは得意げな笑顔を見せる。
「でも、幽霊人間に見つかったら危なくないかな。それでも、一人でお父さんを探すの?」
「仕方ないわ。探す人、私しかいないのだから」
「……だとしたら、一緒に探すのを手伝っても良いかな?」
「今危ない目にあったばかりなのに? どうして?」
「助けてくれたお礼をしたくて。駄目かな?」
茉文ちゃんは返答に困っていたようだが「分かった」と言ってくれた。
「実は、白川くんみたいな、見える人が手伝ってくれると、凄い助かる」
「良かった。頑張るよ」
彼女の見せてくれた微笑みに、僕も笑顔を返す。幽霊人間や車輪男という存在が、どれだけ危険かは分からない。しかし、怖気づくわけにはいかなかった。茉文ちゃんを守りながら、必ず小夜を見つけてみせる。僕はそう思った。
そんな決意により気合が入ったのか、僕は頭痛が和らいでいることに気付く。このまま進めば、僕は小夜に会えるような気がした。




