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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第五章 白川誠 Ⅱ
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1

「きっと、その人は穴の中に落ちてしまったのだと思う」と茉文(まあや)ちゃんは子供らしからぬ表情で言った。


「穴?」


首を傾げる僕に茉文ちゃんは「そう、穴」と言いながら、両手で輪を作って見せる。僕は彼女の発言に、かなりの驚きを覚えていた。なぜなら、彼女が口にした光景を、僕は既に見ていたからだ。穴に落ちて行く、小夜の姿。偶然の一致…それで片付けられることだろうか、と自問していると、彼女が穴の話を続けた。


「この街には、大きな穴がいくつもあるって噂なの。大きくて、底なしの穴。何人もの人が、落ちてしまって、行方不明になってしまったって。みんな知っていて、怖がっている噂なんだよ」


彼女は十四歳で、中学三年生らしいが、今の時代の子供たちも、このような都市伝説らしき話が、好きらしい。しかし、噂の出所なんて、どれも怪しいものばかりだ。もしかしたら、今の話だって、彼女が作った話なのかもしれない。


「そんなに大きな穴なら、近付く前に気付いて、落ちずに済むと思うけどな」


僕は少し意地悪な気持ちになって、揚げ足を取ってみた。しかし、彼女は動揺する様子はなく、むしろ呆れるように肩をすくめた。


「白川くんは、そんな穴を見たことないの?」


「ない…と思うけど」


僕は穴を見たばかりだったが、見たことはないと答えた。なぜなら、僕がその穴を見たのは、夢の中だからだ。もし、彼女が言う大きな穴が、本当に存在しているのなら、夢の話をしても仕方がない。


「茉文ちゃんは、あるの?」と彼女に聞いてみた。


「あるよ。中を覗いてみれば、白川くんにも、きっと分かると思う」


「分かるって、何を…?」


「穴の恐ろしさ」


そう言って、茉文ちゃんは視線をやや持ち上げ、灰色の空を睨み付けた。その穴の恐ろしさを思い返しているのだろうか。


「どんな風に恐ろしいの? 恐ろしければ近付かなければ良いのに」


「そこが恐ろしいところなの。穴がそこにある。危険だと言うことも分かっている。なのに、どんな形をしていて、どれだけ深いのか、確かめずにいられない。さらに、覗き込んでみると、そこに何かがあるような気がしてしまう。そして、少しずつなら、降りていけるかもしれない、と恐る恐る、慎重に足を降ろしてしまう。妙に好奇心をくすぐられてしまうのね。ここで、降りるのは危ないから、やめておこうって判断できれば良いのだけれど、偶然が重なって割と簡単に下まで降りてしまったら、もう最悪」


「足を踏み外して、落ちてしまう?」


「そう。客観的に見れば、絶対に失敗するだろう、落ちてしまうだろう、って分かることなのだけれど、穴に魅入られてしまったら、もうおしまい。落ちてしまうことへの恐怖より、底に何か素晴らしいものがある、という気持ちに支配されてしまう」


「穴に魅入られてしまうわけだ。それは、恐ろしいね」


「そういうこと。白川くんも、見たことあるでしょう?」


彼女に言われると、何となく僕も実際にそんな穴を見たことがあるような気がした。彼女に見つめられると、さらにそんな思いが強くなる。イメージが薄れつつあった、夢の中で見た穴。それが頭の中ではっきりと形作られていく。中を覗き込めば、小夜がいた。三角座りで、額を膝に乗せ、項垂れているみたいだ。誰かの助けを待っているのか、不幸を嘆いているのか、それは分からない。


助けようと思ったが、彼女がどうやって穴に入り込んだのか、想像も付かないくらい、それは深いものだった。下手に踏み込めば、僕も落ちてしまうし、一緒に脱出することはできないだろう。


「もし誰かが、その穴の中に落ちてしまったら、どうやって助ければ良いと思う?」


茉文ちゃんに僕は聞いてみる。彼女は少し考え込んだのか、視線を宙にさ迷わせた。良い案が思い浮かんだのか、僕を見ると、冷たい笑みを見せる。それは僕を試すかのように、不敵な笑みだった。


「穴を埋めるしかないでしょう。その人が昇ってこられるように」


「危なくないかな? 例えば砂を落として穴を埋めようとしたら、中の人は埋もれてしまう」


「そうじゃないの。むしろ、そんなに簡単なことじゃない。どんなに物を投げ込んだとしても、その穴は決して埋まらないから」


「じゃあ、どうすれば?」


「……自分にとって大切なものを投げ込むの。穴に落としてしまったら、それは二度と帰ってこないけれど、そうでなければ、誰も助けることなんてできない」


何かを手に入れたければ、何かを犠牲にしなければならない。そんな、父の言葉を思い出した。


「茉文ちゃんは、その穴がどこにあるのか、知っているの?」


噂、都市伝説、誰かの冗談。彼女の言う「穴」とは、そんなものかもしれない。しかし、彼女はそれを知っているような気がして、僕は聞いてみた。すると彼女は、また僕を試すような冷たい笑みを見せて言うのだった。


「知っているわ」


小夜がいなくなって、三日目のこと。僕はこの不思議な少女、茉文ちゃんに、こうして出会った。しかし、それより一日早く、僕は彼女のことを見かけていた。このときは、偶然が重なるものだ、という程度にしか考えていなかったが、そうではなかった、と後になって知る。


僕は運命の綻びを見つけたのだった。僕はそれをどうしても壊さなければならない。どんな犠牲を払おうとも、それを壊さなければ、誰も報われないことになる。僕には覚悟があった。何かを手に入れるために、何かを犠牲にする、覚悟があったのだ。

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