5
彼女はまた保護者を失い、宛もなく漂っていた。自我を失った亡霊のように。
何も考えず、ただ漂った。何かの拍子で動く、壊れた玩具のように。でも、ふと思考が動くこともあった。その度に思うのは、今度こそ死のう、ということだった。ただ、この悪魔の体は、簡単に死ぬことはない。どんなに体を傷付けてみても、痛みと恐怖が勝り、死に至る前に、その覚悟を放棄してしまうのだ。
だとしたら、もう食べずに、緩やかな死を待つしかない。分かっていても、それが難しくて、こうして生き続けてしまったのだが。
死にたい。そう思い続けて長く生きるのは、闇の中へと沈み続けるようなものだった。とにかく落ちて、息が苦しくなり、恐怖が降り積もっていくが、最後の一瞬だけは決して訪れない。それが永遠と続くことは、後悔と罪悪感、未来への不安に押し潰されそうになることだった。
「あれ、この音……」
そんな日を送っていると、彼女はいつか聴いたようなメロディに誘われた。ピアノの音だ。これは、つい最近までの保護者が奏でていたものに近かったが、また違う懐かしさがある。自分が失ってしまった、本来の人格が、それを求めているようだった。そして、それは何かを弔うように、誰かを愛するように、悲しくも優しい音だ。まるで、今の自分と呼び合っているようではないか。もしかしたら、自分を救ってくれる何かなのかもしれない。
彼女が辿り着いたのは、大学のようだった。音の方へと歩き、一つの建物に入る。探しているうちに、その建物の屋上に出てしまった。ここではない、と引き返そうとすると、音は止まってしまう。音を奏でていた本人を見失うわけにはいかない。彼女は屋上の柵から身を乗り出して、その人物を探した。
すると、その人物が建物から出てくるところを目撃した。彼に違いなかった。なぜか、遠目からでもその人物の歩き方や姿勢など、そういった曖昧な雰囲気だけでも、理解できたのだ。
「しら……」と口が勝手に動いた。
自分は何を言おうとしたのだろうか。思い出そうとしても、無理だった。さらに、体は前のめりになった。柵が老朽化していたのかもしれない。彼女は屋上から落ちてしまった。頭に激痛が走り、激しい出血を感じる。しかし、これくらいの痛みは慣れていた。痛いことには痛いが。すぐ傍で、誰かが慌てふためく気配がする。彼女は立ち上がろうとすると、その誰かが言った。
「無理に立たないでください! 動かない方が良いらしいですよ、こういうときは!」
「……え~? 大丈夫だよ、これくらい。痛いけど」
顔を上げる。彼だった。どこかで見覚えのある彼。そして、きっとこの人は優しい。なぜか、それが理解できる。よかった、また会えたんだ。自分でも分からないが、そんな風に思えた。
こうして、彼女は白川誠と出会った。いや、再会したのだった。
彼女が失われた本来の人格を取り戻した瞬間は、誠のピアノを改めて聴いた瞬間だった。誠はピアノを使って、小夜の精神に介入した。それはかつて三条というピアニストが持っていた、奇跡の才能であり、白川望によって奪われ、そしてその子である誠にも引き継がれたものだった。もちろん、そんなことは彼女は知らないし、誠も知らない。とにかく、その奇跡は彼女の失われた人格を蘇らせてしまったのである。
楠木詩葉。それが忘れていた自分だった。そして、楠木詩葉はこの時代に、もう一人いた。それも自分自身だ。そして、今誰よりも大事な存在である、白川誠を傷付け、苦しめている。自分は巡りに巡って、またこの男を苦しめているのだ。
だが、もう一つ重要なことを想い出してしまった。自分にとって…いや、楠木詩葉という人間にとって、最も重要なことだ。児玉拓也である。
今の自分ではあれば、あの男を自由にできる。彼がどんな夢を抱いていても、彼がどんな女性像を求めていたとしても、たった一言囁くだけで、あの男を自分の思いのままにできるはず。しかし、今の自分にとって、あの男はそれだけ重要な存在だろうか、と考えると決してそうではない。
ただ、あの男を手に入れることができれば、過去の失敗や後悔、手放さなければいけなかった様々な感情たちが報われるのではないか。救われるのではないか。あのときの自分は、正しい未来へとつながる道に立っていたのだ、と胸を張って言えるのだ。
だとしたら…もし、あの男を手に入れるのだとしたら、白川誠はどうすると言うのだ。今の彼女にとっては、二百年を超える月日を経て、彼の想いに報いるつもりだった。恩や愛情、優しさを返せるチャンスとも言えた。それでも、そんな感情は、児玉拓也という目的のためであれば、自分は捨ててしまえるのかもしれない。
そんな愚かな考えをする自分が、恐ろしい。また、そう思いながら、行動に移すことばかり考える自分に嫌悪感を抱いた。彼女は記憶を取り戻してから、そんなことばかりを考えていた。
「まだ、怒っている…よね?」
それなのに、誠は自分の気持ちを慮って、そんな風に声をかけてきた。
「怒ってないよ」
気持ちが重たかった。何年経っても、普通の人間より学ぶ時間があったはずなのに、何も変わっていない自分。本当に最低な気分だった。
ここ数日、詩葉からの連絡がなかった誠は、常に不安げな表情をしていた。彼はこんなにも自分の一挙一動に対して、敏感に反応していたのだ、と今になって知る。気付くのに、どれだけの年月が経っていたのか、もう数えることもできない。
そろそろ自分は誠にメッセージを返すタイミングのはずだ。実はこのときまで、拓也との関係は、まだ別れる別れないと揉めていた。だが、最終的に拓也が放った「お前といると息苦しいんだよ」という言葉に、彼女は白川を選んでみようと思ったのだ。しかし、それは拓也に対する、当て付けでしかなかった、ということも今になって思い出す。
誠が帰ったタイミングで尋ねてみた。
「詩葉さん、返信があった?」
「えっ、な、なんで……」
誠の動揺が分かる。図星らしい。
「まこちゃんが帰ってきたときの、足音で分かった」
「ウソ……」
ウソだ。ただ知っていただけのことだ。
「まこちゃんは分かりやすいんだよ、本当に。それで、詩葉さん、なんだって?」
「う、うん。今度、ご飯一緒に行こうって」
「ふーん。もう日付も決まったの?」
「うん。今週の金曜日」
三日後、誠と詩葉に何が起こるのか、もちろん知っていた。そして、拓也が何をするのかも知っている。彼はまだどっちつかずの態度で、詩葉の家にやってきたのだ。誠を追うようにして、詩葉の家に向かえば、拓也と巡り合うことは可能だ。
一目…見てみたい。その日も、次の日も、彼女はそんなことばかりを考えてしまった。
だが、踏み止まる自分もいた。今更、あの男に会って、どうするというのだ。過去のプライドを今取り戻したところで。今は誠に尽くすと、決めたのではないか。昔と違って、自分が誠の元を去れば、それは彼の死を意味する。そんな自分勝手で、裏切るようなことは、二度としたくない。
「それは本当か?」
突然、声が聞こえた。背後に気配を感じ、振り向くと、そこには黒い塊が立っている。これは穢れだ、とすぐに理解した。呪いを持った何者かが、たくさんの恨みや憎しみを重ね、このような姿になったものだ。
「私にずっと憑り付いていたのは、貴方なの?」
見覚えがあったのだ。問いかけると、それは笑ったようだった。
「そうだ。お前が子供の頃から、ずっと憑いている。いくつも時間を超えて、何度もお前に憑り付いてきた」
子供の頃、自宅で見た黒い影…あれと同一の存在だ、と確信する。そんなころから、自分はこれに呪われていたのだ。だから、何をしても失敗ばかりだったのか。こいつがすべて邪魔をしていたのだ。
「もう誰も裏切らないというのは、本当か?」
「そんなの…決まっているじゃない。もう誰も、傷付けたくない」
「……何かの兆候なのか。ここ数回は自分の行いを顧みるような傾向にあるな。信じても良いのだろうか」
不気味な見た目に反し、黒い塊は冷静に何かを分析するように呟いた。
「良いだろう。だとしたら、白川誠の呪いを解いてやる」
「え?」
「あの男は、お前がいなくても、問題ない体にしてやる」
「何を…言っているの?」
「信じられないかもしれないが、私にとっては簡単なことだ。しかし、急に彼が元の体に戻っては、お前が困るだろう。一日猶予をやる。その間に、しっかりあの男から栄養を摂取しておけ」
そう言い残して、黒い塊は消えてしまった。彼女は考える。本当に、誠の体は正常になるのだろうか。正体不明の存在が発した言葉を信じるのだろうか。しかし、彼女の考えはどんどん都合の良い方に、と傾いて行く。
「ねぇ、一生のお願いなんだけどさー」と誠が帰ると彼女は切り出した。
「な、なに?」
「あのさー」
言い掛けて、喉が詰まる。誠が普通の体に戻ったとして…自分はどうするのだろう。また死にたいと願いながら漂う日々に戻るのだろうか。それとも、新しく寄生する相手を探すのか。新しい相手と言えば…児玉拓也ではないか。
そうすれば、楠木詩葉の目的…児玉拓也と離れ離れになり、運命的な再会を果たすことが、実現する。でも、そうしてしまったら、また違う何かを自分は裏切ってしまうのではないか。
引き止めて欲しい、と思った。でも、もし彼が何も言わないのなら、それは自分が意思を通すことに対し、誰かが許してくれたことにはならないか。彼のピアノが聴きたかった。そうすれば、自制心を取り戻せるような気がする。でも、ここにはピアノはない。彼は引き止めてくれはしない。
言葉を待って首を傾げる誠に、彼女は微笑んだ。
「明日は学校お休みしてさー、詩葉さんとの約束の時間まで、まこちゃんのこと好きなだけ食べさせてよー。今夜から、ずっと」
誠は渋る様子を見せたが、最終的には了承してくれた。しっかりと体力を付けて、新しい旅立ちの準備をしなければならない。誠はなぜか他の男よりも体力があるし、余分に取っても問題がない。それは、彼が楠木詩葉という存在に対して、強い免疫を持っていたからなのだが、それは誰もが知ることのない事実だった。
明日、彼が家を出たら、自分も家を出よう。微睡の中に落ちて行く彼に、彼女は問いかけた。
「ねぇ、まこちゃん。私がいなくなったらどうする?」
「え?」
「私が、いなくなったら、どうする?」
「死んじゃうよ、そんなの」
意外な言葉が返ってきた。いや、寝ぼけてそんなことを言っているのかもしれない。もしかしたら、彼の知る楠木詩葉と勘違いしているのだろうか。誠の腹部の辺りに手を置いてみた。毒をまき散らす悪魔の植物が、限りなく小さくなっている。消滅してしまいそうなほどに。やはり、あの黒い塊が言っていたことは、本当らしい。これなら、誠のもとを去っても、彼は死にはしないだろう。だとすれば、誰も不幸にはならないのかもしれない。
「私がいなくなれば、きっとまこちゃんは喜ぶよね。まこちゃんなら、きっと良い人と巡り合うだろうし、私が傍にいる必要もない。だから、きっと、大丈夫だよね」
誠に言っているようだったが、ただ自分に言い聞かせていた。きっといつか、彼は幸福になる。そうすれば、自分のことも忘れるだろう。この後、彼は楠木詩葉に拒否されることになるが、きっと大丈夫だ。誠からの返事はなかった。完全に眠ってしまったらしい。
「長い間、苦しめちゃったね。ごめんね、白川くん」
彼の寝顔に、詩葉は呟いた。
白川を見送り、十分ほど間を置いてから部屋を出る。ずっと昔のことだったが、一度思い出すと、自分が住んでいた駅や道順について、間違うことはなかった。
到着すれば、あとは駅前で待機するだけである。拓也が来る。どれだけ、この瞬間を待っただろうか。長い時間を経て、再会し、自分たちの運命を再確認する。いや、姿形が変わった自分だ。きっと、拓也は気付かないだろう。だとしても、悪魔のように囁くだけ。男を誘惑する力を使うまでだ。苗床にさえしてしまえば、何でも言うことは聞かせられる。二度と、あの女に会わせないことも可能だ。やっと、私が勝ったのだ。理解されたのだ。認められたのだ。一番になったのだ。
そう言えば、誠は初めて会ったとき、自分の顔に見覚えがあるようだった。そんなことを思い出したが、彼女の高揚がそれを忘れさせてしまう。それでも、押し込めた気持ちが、自分を引き止めようとする。それを必死に振り切り、自分が何のために生きていたのか、と何度も覚悟を重ねた。
二つの感情に押しつぶされそうな時間を過ごし、やっと拓也が現れる。当然のことだが、変わった様子はない。どこから出てくるのか分からない自信に溢れ、背筋は伸び、夜なのに派手なサングラスをしている。
だが、その姿に思わず、笑みが零れそうになった。滑稽だけど、愛おしい。なぜなら、骨格のラインは美しく、肌も透けるようで、サングラスの奥には見るものを貫くような強い瞳があることを知っているのだから。ベンチから腰を浮かし、立ち上がる。迷いを振り切って、拓也へと歩き出した。一度も伝えたことはなかったかもしれない。今度こそ、愛していると、伝えてみよう。彼女は決意した。
そのとき、妙な違和感があった。今まで目にしていた風景が僅かに震えているように見えたのだ。地震ではない。自分が揺れているわけでもなかった。違和感を確かめるために、周りを見渡すが、特に異常を感知している人間はいないらしい。しかし、さらなる異常が起こった。風景に亀裂が入って行く。夜空やコンビニ、歩く人々。それらが空間そのものと一緒に切り裂かれたかと思うと、すべてが停止した。
何が起こったのかは分からない。が、この異常の中でも、自分には手を取らなくてならない人間がいる。彼女は踏み出そうとしたが、動けなかった。足に痺れを感じたとか、誰かに拘束されているとか、そういうものではない。まるで、一時停止した映像の中に、自分自身も固定されているような気分だった。
「お前はこれで何度目だろうか」と声がする。
すると、亀裂の入った景色が分裂し、剥がれ落ちるようにして消失して行った。世界が崩れて行く。それでも、手を伸ばそうとする彼女を笑うように、声が続いた。
「お前は、この男と結ばれることはない。もう二度と、巡り合うこともないよ」
彼女はそれでも手を伸ばそうとする。やっと…何年も巡りに巡って、再び出会おうとしているのだ。それなのに、どうして邪魔をするのか。そう主張したくても、声すらでない。景色はすべて剥がれ落ち、真っ暗な空間へと変化した。そうかと思えば、新たな景色が貼り付けられるように再構築されていった。
視界が自由になった。ここは…と辺りを見回すと、どこかの家の中らしかった。広い部屋にグランドピアノが一つ。他に何もなかったが、知った風景だった。その重たい風景と空気は、かつても訪れたことがあると確信させた。そうだ。誠と二人で迷い込んだ、あの奇妙な家だ。
違う。それだけではない。もっと以前、遥か昔に訪ねていた。いや…ここで暮らしていた。そうだ、あの家だ。母と父と三人で暮らした、あの家ではないか。このグランドピアノは、歌好きの母のために父が買い、練習していたものだ。
「どうして…」と声が出た。
何が起こったのか、理解できなかった。
「お前は呪われているんだよ。決して運命通りには行かない、そういう呪いだ」
「どうして、私なの…?」
「お前が憎しみと呪いを撒き散らす人間だからだ。ずっと、生きて…分かっただろう?」
言い返すことはできなかった。実際に多くの人を傷付け、恨み恨まれ、憎み憎まれた。呪いを撒き散らす存在と言うのは、決して間違っていない。
「お前のせいで、白川誠も死ぬ」
「どうして? あの時、呪いを解くって! 実際にあの植物も小さくなっていたのに!」
「それはお前が彼を裏切らなかった場合の話だ」
「……そんな」
「暫く、この家で反省するが良い。そして、いつか魂の底まで反省して、やり直せる日が来ることを願うのだな」
そう声が言うと、ピアノの前に巨大な穴が突然現れた。それは、底なしの穴なのか、真っ暗でどこまでも続くかのようだ。
「それまでは、この中で反省すると良い」
彼女の視界がゆっくりと浮遊する。それは、巨大な穴の真上まで移動したかと思うと、またゆっくりと落下して行く。穴の中に、落とされているのだ、と彼女は悟る。穴の下がどうなっているかは分からない。しかし、きっと恐ろしいまでに暗くて、孤独な場所であることに違いない。
拓也…と呟きたくても、声が出なかった。しかも、気付けば手も足もない。全く自由が利かなくなっていた。自分の体はどうなってしまったのだろうか。きっと、もう拓也には会えない。ここまで来たのに、会えない。あの男は自分を助けに来てはくれないのだから。変わり果てた自分のことなど、知る由もないのだから。
闇の中へと、体が沈んで行く。視界は僅かに、穴の淵を円形として捉えていたが、それは次第に小さくなり、点としても認識できなくなってしまった。
視界は真っ暗で、地上と言えるような場所からは、かなり離れてしまったが、なぜかピアノの存在が感じられた。ピアノを見て思い出すのは、やはり誠のことだ。彼のピアノが聴きたい。でも、そんなことを言う資格は、今度こそなくなってしまったのだろう。
それから、彼女は何もない意識だけが暗闇に浮かぶだけの存在。自分が生きているのか、死んでいるのかも、分からなくなるほど、自分の存在があやふやになりそうだった。時間の流れを忘れてしまうほど、ただそこに意識だけが存在していた。
「そろそろ、時間だ」と声がする。
久々に聞くその声は、自分をここに閉じ込めた張本人に違いない。それでも、何か変化があり、感情が揺れ動くことだけでも、喜びを感じられた。
何が起こるのだろう、と疑問に思う暇なく、体は別の場所に移動していた。どこかの、駅のホームらしく、空は良く晴れていた。
そこに、どこかで見たことある姿があるような気がした。あれは楠木詩葉だ。リストの愛の夢が聴こえてくる。だとしたら、今日が何の日か、今から何が起こるのか、予想が付いた。
楠木詩葉の背後に、忍び寄る人物。やはり、そうだ。その人物は詩葉が振り返ると同時に、僅かに接触した。詩葉は混乱した様子で、何歩か後退りした。彼女がホームから落ちると、もう一人の人物は走ってその場を去った。
「これから何が起こるか、分かるか?」と声は言う。
分からない、と答えたかったが、やはり声は出ない。それでも、意思が通じたのか、嘲るような笑い声が返ってきた。
「お前はな、あそこで倒れている女が、過去に飛ぶためのエネルギーとして使われるのだ。二百年も呪いを溜め込んだのだ。それくらいはできるのさ」
つまり、自分はエネルギーそのものになってしまったために、体がなくなってしまった、ということだ。ホームの方へ移動させられると、腹部から血を出して倒れている詩葉を確認できた。
「詩葉」と何者かが声をかけた。
彼女は、ホームから見下ろしているこちらに目をやった。
「記憶に鍵をかけておいたのに、思い出したみたいだね。自分を愛してくれた存在のことを」
そういうことか、と理解する。あのとき、誠の存在を思い出せず、ただ拓也のことばかりを考えていたのは、記憶が操作されていたからなのだ。
「た、たすけ…」と詩葉が手を伸ばす。
「良いだろう。助けてやる。でもね、もう一度やり直して、本当に反省しているのか、試させてもらうよ。もう一回だ。もう一回。この言葉を何度言ったのか、忘れてしまったけれど…あえてもう一度言うよ。もう一回、やり直すんだ。今度こそ、間違えないようにね」
これは…何度目なのだろうか。彼女は差し出されるように、ホームの下へと降ろされた。詩葉が手を伸ばし、彼女に触れる。光で溢れ、視界が白く染まった。
もう一度、会えることならば…と彼女は思う。きっと、また記憶はリセットされてしまうかもしれない。それでも、もう一度会えたなら、正直に言おう。ピアノを聴かせてほしい、と。あのピアノを聴けるのなら、今度こそ自分は変われるはずだ、と自分に誓う。しかし、そんな誓いも薄れてしまうような、眩い光が彼女を覆うのであった。
こうして、楠木詩葉は再び時間を跳躍した。これが何度目になるのか分からない。彼女が正しい選択をするための繰り返しが、また始まろうとしていた。




