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決闘の日はやってきた。
三条は大学本館の正面に横断幕を張り、自分と白川の決闘を大々的に宣伝した。勝敗を決めるのは、面白がって集まった学生と教員たちだ。総勢で二百名。シンプルに、彼らがどちらの演奏が優れていたのか、一票ずつ入れて、数の多い方が勝ち、というものだ。
その日の朝、三条は早めに大学へ向かうと、空き教室で目を閉じて、精神統一をしていた。すると、教室に良く知った人物が入ってくる。珍しく涼子の方から、三条に声をかけてきたのだ。
「ねぇ、三条くん。本当にやるの?」
「涼子さん…何を今更。それとも、俺の魅力を受け入れるのが、怖くなったか?」
「……貴方はどうでも良いわ。ただね、私、少し分からなくなって」
「分からない?」
「貴方みたいに、何かを好きになって、情熱をかけられるってこと。貴方は本当に私が好きなのかは知らないけど、それが理由でこんな大きな事やって、それなりにたくさん練習したんでしょう?」
「もちろんだ。すべては、涼子さんを手に入れるためさ」
「……私には、できないな。本当の意味で、誰かを好きになることも、歌を好きになるってことも…一生できない気がする。そう思うと、大切な何かを知らないまま死んでしまう気がして…少し、怖いの」
彼女の身に何があったのか、三条は知らない。しかし、彼女が酷く傷付き、恐れていることは理解できた。だが、そんな彼女を三条は小さく笑う。
「なんで笑うのよ」と言う涼子だが、彼女も少し笑っていた。
自分の悩みを三条が笑ってくれたことを、少し安心したかのように。
「涼子さんらしくない、と思っただけだ。でも、そんならしくない涼子さんも、涼子さんだ」
「私は、弱い自分は嫌いだけど」
「だとしても、俺は好きだな」
「……そう。ありがとう」
微笑んだまま頷くと、三条は小さく息を吐き、涼子に優し気な眼差しを向けた。
「涼子さん。俺たちの音楽は、その時々でメロディが変化する。それは自分の気分だったり、他人からの影響だったり、理由は色々だが、とにかく状況によって変わってしまうものだ。だけど、今自分が奏でたいメロディを思いのままに表現すれば良い」
「それが美しくないメロディだとしたら?」
「それでも、だ」
「どうして? 私は醜いものは、嫌い」
「人は今の自分を知ることで、より素晴らしい音を奏でるよう、努力できる。試行錯誤を繰り返し、いつかは自分の音に辿り着くはずだ。だから、今は今…自分が出せる音を、ただ思いのまま奏でるだけで良い」
「……理解できない」
「今の自分を愛するだけで良いのさ。変化したのなら、そのときの自分を愛せば良い。涼子さんが思っている以上に、人は自由なはずだ」
「自由ねぇ」
「自由をはき違え、無責任な行動をするのは、許されないことだがな」
涼子は「自由」という言葉に納得したのか、三条に背を向けて教室を出て行こうとした。ただ、その前に振り返り、三条に言った。
「三条くん。貴方が勝てる確率は限りなくゼロに等しいけど、今回は少しだけ応援してあげる」
「ふっ、俺に惚れたか。良いだろう、その期待…確かに受け取った」
「馬鹿ね。根拠のない自信に溺れている貴方が可哀想だから、同情しただけよ」
涼子が教室を出て行った。一人になった三条は、苦笑いを浮かべ呟く。
「同情、か。それも、悪くない言葉だな」
決闘の時間まで、あと一時間となった。
二人の決闘は、とても奇妙なものだった。会場の人間の誰もが首を傾げるほどに。なぜなら、三条も白川も、完全に実力を出し切れている様子ではなかったからだ。
先行は三条だった。前半、彼の演奏は誰もが度肝を抜かれるような、凄まじく情熱的で美しく、人の感情の奥底にある原風景を、鮮やかに掻き立てるような、奇跡のピアノだった。しかし、後半は何かが失われた。ミスタッチはなく、軽やかに演奏されてはいたが、とても薄っぺらで中身がない。前半の勢いが嘘だったかのように、つまらない演奏になってしまったのだ。彼の演奏を聴いた、すべての人間が、戸惑いながら拍手をするしかなかった。
それに対し、白川の演奏は、三条と真逆の展開だった。前半は白川の演奏とは思えないほどぎこちなく、深みも厚みも何もない。しかし、後半になると、彼が何かを得たかのように、壮絶な演奏へと変化した。それは三条が前半に見せた奇跡を再現し、さらに技術面が精練されたような印象である。これも、演奏を聴いたすべての人間は戸惑ったものの、やはり、白川の演奏は後半の畳みかけが凄まじく、万雷の拍手で終わった。
結果は、やはり最後に大きな衝撃を残した、白川の勝ちだった。だが、白川は多くの人の称賛を拒否するかのように会場から去ってしまう。三条はただ会場に座り、一歩も動くことはなかった。会場からすべての人が去っても、三条は座ったまま、ピアノを見つめていた。
「ねぇ、三条くん。貴方、頑張ったと思うわ」と誰もいなくなったところで涼子が声をかけてきた。
「ああ、俺は頑張ったよ、涼子さん。だが…天命は俺を突き放したらしい。もう、奇跡は起こせない」
「……どういうこと?」
「もう俺のピアノは死んだ、ということだ」
「やめてよ、貴方らしくない」
「そうだな。ピアノは続けるけど、今までのようには弾けなくなってしまった。それだけだ。超天才から、少し天才に降格されてしまったようなものだろうな。残念ではあるが、何とかやっていけるだろう」
「なにそれ」と涼子は笑う。
三条も微笑みを返すが、いつものような彼の自信が失われていることは明白だった。涼子はそれ以上、かける言葉が見当たらなかった。
「とにかく、元気出してね」
涼子が去ってから、数分もすると、今度は白川がやってきた。
「三条くん、すまない」
唐突の謝罪のようだったが、三条はその意味をはっきりと理解していた。
「……良いさ。神がお前を選んだ。そう思うことにする」
「君の見ていたものが、僕にも見えた。想像していた以上に、素晴らしいものだったよ。僕はこれを使って、さらに高みを目指すつもりだ。でも…君にはもう見えない。そうなんだろう?」
三条は頷き、自虐的に鼻を鳴らして笑った。
「そういうことだ。才能も涼子さんも、お前のものだ」
「……確かに、受け取ったよ。島崎さんは、いらないけどね」
「贅沢なやつだ。それよりも、お前はあいつが欲しかったか?」
「ああ、あの金髪の?」
小夜のことである。白川は首を横に振った。
「いや、いらない。僕は彼女との縁を捨てる。そうしなければ、君から奪ったこの力は失われてしまう気がするんだ」
「ほう」
「何かを犠牲にしなければ、欲しいものは得られはしない。それが、僕のポリシーなんだ」
白川の目は、確かに三条へ向けられている。しかし、彼は三条を見ていない。もっと先の……彼にしか見えない何かを見つめているようだった。そんな白川を見て、三条も諦めるような溜め息を吐く。
「なるほど。大人しそうに見えて、なかなか尖った男だよ、お前は」
「そうかもね」
それ以上、交わす言葉がなかったのか、二人は黙った。三条が腰を上げる。何かと別れる決意ができたかのように。
「だとしたら、俺があの女を迎えに行こう。あいつは誰かの助けが必要だ。きっと、そういう運命だったのさ」
三条は白川を残し歩き出した。そんな三条の背中に、白川は言う。
「見ててくれ、三条くん。いつか僕のピアノが世界中で奏でられる。恋も友情も捨てた僕のピアノは、きっと世界中の人を感動させるだろう。自分勝手な気持ちを押し付けることになるが……それを誇ってほしいと思う」
三条は白川に背を向けたまま、振り返ることもなく言った。
「お前がそう言うなら、それは実現するだろう。気が向いたら、聴いてやるさ」
立ち去ろうとする三条の背を見つめる白川だったが、彼が部屋から出てしまう寸前に、思い止めていた言葉を口にした。
「三条くん。僕を恨むか?」
三条は悩むことなく答える。
「恨みはしない。俺は不幸だとも思っていない。人生は生きていれば、結果的にラッキーだと思うことが多いからな」
それを最後に、二人は二度と出会うことがなかった。
白川は彼が言った通り、世界的なピアニストとして世界中を駆け回った。多くの人に感動を与え、称賛され、富も名誉も手に入れ、休むことなくピアノで人を魅了し続けた。
三条の名は、世に出回ることはなかったが、スタジオミュージシャンとして多くの国内アーティストから頼られる存在となり、それなりに知られた。涼子との仲は、細々と続いたが、特に恋人関係になることはなかった。涼子はやがていくつか年上の学者の男と結婚し、子供も産んだらしい。
三条は誰とも結婚することはなかった。そして、若くしてこの世を去る。死因は過労死と思われるらしいが、詳しくは不明ということだった。
「俺は悪魔に身を捧げた。だから長くは生きられないだろう」
それが三条の口癖だったらしいが、それが現実になるとは、誰も思っていなかった。
三条に憑りついていた悪魔は、今一人で歩いていた。
腹を空かせた悪魔は漂うように歩き回り、どこにでもあるような、小さな公園に立ち寄る。また居場所を失った悪魔は、ただ腰を下ろす場所が欲しかった。公園にある唯一のベンチには、先客がいた。老人が一人、分厚い本に目を落としている。時刻は早朝だが、読書に没頭しているらしい。悪魔はその老人に近付く。この際、誰でも良い。この空腹を凌げるのであれば、老人であっても食べてしまおう。そう思ったのだ。
老人は悪魔の気配に気付き、顔を上げる。目が合って、悪魔は人を誑かす笑顔を浮かべ、挨拶をした。
「おはようございます」
「……おはよう」
老人は手にした本だけでなく、自分のすぐ横に何冊も本を重ねていた。全部読むつもりだろうか。その本はどれも時間やら物理やら、難しいテーマに関するもので、この男は学者なのだろうか、と思った。
「お爺さん、横に座っても良い?」
「私はまだ老人と言われる歳ではないつもりだが…座りたいならどうぞ」
「あら、失礼しました」
悪魔は老人に見える男の横に座る。観察してみると、白髪ではあるが、肌の年齢は若干の若さが残っている。疲労やストレスで、彼はこんなにもくたびれてしまったのかもしれない。
悪魔は辺りを見回し、誰も見ていないことを確認した。今なら、この男の首に喰らいつき、すべてを吸い取ってやることもできるだろう。僅かに体重を移動させ、一瞬で男に喰いかかる体勢を取った。しかし、悪魔はその男に何かしらの違和感があった。穢れがある。彼が薄くまとう穢れ。いや、彼自身が穢れを吐き出しているらしかった。この人は、呪いを生みだしている。きっと、憎しみや後悔で心を腐らしてしまったのだろう。しかし、今の時代でもこのような変化を見せる人間がいるとは思わなかった。
悪魔は何もせず、その場を立ち去ることにした。この男は食べられない、と思ったのだ。穢れがあるからだけではない。なぜか食欲をそそられなかったのだ。悪魔がふらっと立ち上がり、歩き出したが、男は本から目を離すこともなかった。集中すると、何も目に入らなくなるらしい。誰かに似ているな、と悪魔は思った。遠い昔、誰かがそういう性格で、振り回されたような。長く生きた悪魔は、その記憶を掘り起こすことができなかった。
食料を求め、あるいは死に場を求め、悪魔は再び歩き出した。




