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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
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4-4

それから、三条はデパートの最上階で、ピアノを弾くことはできなくなってしまった。三条のピアノが、その周辺で噂になってしまったことから、多くの人が集まるようになり、デパート側から営業に支障が出るので控えて欲しい、と言われてしまったのである。


三条は自宅でも大学でもピアノの練習は可能だったため、特に問題はなかったが、小夜にピアノを聴かせてやれないことが、気掛かりだった。


決闘まで一週間を切ったとき、小夜を探していつものデパートに立ち寄ってみると、やはり彼女は楽器屋があるフロアで座っていた。


「あ、そうちゃん。調子はどう?」


「お前…何かやつれてないか?」


「うーん、そうかな? 最近、そうちゃんのピアノ聴けてないからかも」


「何だお前は。俺なしでは生きてはいけない女になってしまったのか?」


「そうかもね」


小夜は笑顔を見せるが、憔悴しているのは明らかだった。


「分かった。少し費用はかかるが、やつに勝つコツを教えてくれた礼に、特別な場所に招待してやろう」


「え、何してくれるのー?」


三条が小夜を連れて向かったのは、小さなスタジオだった。グランドピアノもあり、それは三条が小夜に聴かせてやった、どのピアノよりも立派なものである。小夜はそれを見て感激したのか、小さく声を上げ、目を輝かせていた。


「ここで、特別な演奏を聴かせてやろう。お前が自分の人生は、結果的にラッキーなものだった、と思うほど、特別なやつだ」


「期待しちゃうなぁ」


「期待、か。本当に良い言葉だ」


三条は演奏を始める。小夜のためだけに。彼女との出会いは、三条を一つ成長させた。小夜の心には、大きな杭が刺さっていて、それを抜き取るための手伝ってやるつもりだったが、むしろ救われたのは三条の方だった。その感謝を込め、ここ一ヵ月で積み重ねた研鑽の成果を披露しよう。三条はそう思っていた。


静かに一曲目を引き始める。三条による、研ぎ澄まされた美しい音。小夜も目を閉じ、それに聴き入ろうとしていた。三条は小夜のリラックスした様子を見て、思わず笑顔を零す。もっと、魅せてやる。自分のピアノで、すべての不幸を忘れてしまうような、天国の時間を。三条の熱意にも火が付いた、その瞬間だった。


スタジオの扉がけたたましく叩かれた。小夜も驚いて目を開き、ドアの方を見る。三条は舌打ちをしてから、何事かとドアの方へ向かった。


「どこのどいつが何の用だ!」とドアを開く。


「やっぱり! 三条くんだと思ったよ!」


白川だった。


「ど、どうしてここに…」


「僕も根を詰めて練習をするときは、ここを利用していてね。いざ練習を、と思ったら聴いたことがある音色がしたんだ。そしたら君がいた、というだけのことだ。いや、偶然なんだ。偶然だけど、ラッキーだなぁ。やっと君の演奏を聴ける。あれ、あの人もいるんだね」


白川は小夜に気付き、会釈をする。しかし、小夜の反応は限りなく薄いものだった。


「一回で良いんだ。そしたら、すぐに僕は帰るからさ」


「今すぐ帰れ。今だ、今!」


「そう言わずにさ」


白川は図々しくスタジオの中に入った。


「何なら、もう一度僕のピアノを聴いてもらおうかな。二人から感想をもらいたい」


「ふざけるな。お前のためにくれてやる時間は一秒もない」


ピアノの方へと向かう白川の腕を三条が掴み、言い合いが始まるかと思われた。しかし、そんな二人が黙ってしまう異変が起こる。小夜が倒れたのだ。


「どうした!」


三条はすぐに小夜に駆け寄り、抱き起そうとした。


「あ、ごめん…。何か、意識が遠退いちゃった、かも」


「お前、何かの病気なのか? 薬でも飲むか?」と慌てる三条に、小夜は力なく笑う。


「ちょっと…食べていないだけ」


「それを早く言え。いや、なぜ食べていない? とにかく飯だ。ファミレスくらいなら、腹いっぱいになるまで奢ってやる」


「いや……良いんだよ。ご飯よりさ、ピアノが聴きたいんだ。それが私にとって、一番の特効薬な気がするからさ」


「馬鹿を言うな。ピアノを聴いて腹がいっぱいになるやつがどこにいる? いや、救急車の方が良いかもしれない」


「お願いだよ、そうちゃん。ピアノが良いんだって」


「何を言っているんだ」と言いかけ、三条は異変に気付いた。


小夜の体が部分的に、ノイズが走るかのように歪んでいた。まるで、上手く電波を受信できないテレビ画面のように、彼女の姿がぶれている。異常としか、言いようがなかった。


「な、なんだこれは?」


「分かるでしょ? 病院に運ばれても、私は治せないよ。だから、それよりも…ピアノなんだって」


青白い顔の小夜は、あくまで三条のピアノを望んだ。だが、三条はピアノを弾いただけで、この異常をどうにかできるとは、思えなかった。


「駄目だ。救急車を呼ぶ。おい、お前が救急車を呼べ!」と三条は振り返り、白川に言った。


白川は入り口の辺りで、腕を組んで二人の様子を見ていたらしかった。彼も、この異常な光景を目にしているはずだが、妙に静かな態度である。


「おい、聞いているのか? 救急車だ」


「だから、そうちゃん…ピアノ」


三条の怒号を聞いても、小夜の弱々しい声を聞いても、白川は一歩も動かなかった。


「おい!」


叫ぶように急かす三条を見て、白川は静かに言った。


「ピアノを弾きたまえよ、三条くん」


「……なんだと?」


「ピアノだ。彼女が、それを望んでいる」


三条は小夜を寝かせると、白川に詰め寄り胸倉をつかんだ。


「おふざけが大好きだと言うことは、ここ一ヵ月で良く理解した。しかし、状況を考えろ。退け、俺が電話する」


「……僕は退かないよ。君がピアノを弾くまで、僕はこのドアの前から一歩も動かない」


「それ以上、ふざけたことを言うなら、痛い目に合わせるぞ、クズ野郎」


「殴るのかい? ピアニストの君が、そんなことをしてはいけない」


三条は握りしめた拳の行き場を失い、口惜し気に顔を歪めた。


「良いから、退け! お前はあの女に惚れたのだろう? だとしたら、いち早く病院に連れて行くべきだと思わないのか!」


必死な三条だが、白川の目は冷静だった。嫌なまでに冷静で冷たかった。


「確かに、僕は彼女に好意を抱いているよ。でもね、それ以上に僕は、僕のピアノを完成させることが優先なんだ。何かを犠牲にすることになったとしても、僕にとっては、それが何よりも優先されるんだよ。そのためには、君のピアノを聴いて、その技を盗む必要がある。だけど、君は僕の前ではピアノを弾こうとしない。だから、今しかない、と僕は思ったんだ。君が今、ここでピアノを弾けば彼女は救われると言っている。僕も満足する。君も助けたい相手を助けられる。誰が損をする?」


白川は、ただ自分の欲望を満足させるための行動を、淡々と遂行しようとしている。その意思は何よりも硬いようだった。三条は荒々しく舌打ちする。


「ねぇ、そうちゃん。お願い…最後に、聴かせて」


弱々しい小夜の声に、三条は彼女へ駆け寄る。


「何が最後だ。馬鹿を言うな。病院くらいで……治るだろ、こんなワケの分からない病気くらい」


「病気じゃないんだ。ピアノ…」


小夜は意識が薄れているのか、どんどん言葉に力が失われて行く。


「三条くん、弾けよ。今はピアノを弾くことだけが、君に残された選択肢だ。本気で、彼女を救うためにピアノを弾け。少しでも手を抜いて、彼女を助けられなかったら、僕は君を軽蔑する。人間としても、ピアニストとしても、だ」


「お前のようなゲスに言われたくない! しかし…」


三条はピアノを見る。この異常を癒す力が自分のピアノにあると言うのだろうか。いや、今までだって、三条はピアノを通して奇跡を起こしてきたはず。それは精神を少し癒す程度の効果しかないが……。本当に、本当に…。


「クソ、やってやる!」


三条は混乱していた。もっと冷静に考えれば、この場を円滑に解決する方法だって、あったのかもしれない。ただ、今の三条には、白川が言う通り、ピアノを弾くことだけがすべてを解決するための手段だとしか思えなかった。


ピアノの前に座る。一度深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから指先を鍵盤に置いた。そして、演奏を開始する。白川の前で弾くことは、屈辱でもあったし、嫌悪感もあった。しかし、そんなことを考えてはいられない。今は小夜に起こった異常を修復するため、集中するしかなかった。


小夜の精神が可視化される。彼女の魂は、錆びのようなものに、酷く侵食されていた。これが、彼女を歪めている原因だろうか。三条は迷ったが、それを分解させるためにメロディを奏でた。


すると、反応があった。三条は演奏の強弱を調整し、小夜の精神を侵食するそれを分解していく。だが、加減を間違えると、その錆びのような何か増殖した。三条は微調整を繰り返し、精細さを欠くことがないよう、演奏を続ける。汗が滴るが、それによって集中力を切らすわけにも行かない。まるで、大掛かりな手術だ。そんな演奏が一時間、続いた。



小夜の異常は消え、三条の演奏は終わった。


「見事だったよ、三条くん。だけど、君の技は僕がもらった。悪く思わないでくれ」


白川はそれだけ言い残して、スタジオを去った。まるで、本当に三条が操る奇跡を物にして、それを確かめるために帰るようだった。三条は少し赤みがさしてきた小夜の頬を見て、ただ安心する、彼女の命を救えた。三条にとって、今はそれだけで、十分なことだった。

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