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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第一章 白川誠
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5

「まこちゃん、おかえりー」


いつも通り授業を終え、いつもの電車に乗って、いつもの道で家に帰れば、悪魔なんて非日常的な存在は、そこから消えているのではないか。そんな風に思ったが、小夜はやはりいた。


「まこちゃーん。お腹空いたよー」と小夜は僕にしがみ付いてきた。


まるで、主人の帰りを待っていたペットのようである。


「ちょっと、くっ付かないでもらえるかな」


「なんでー? 童貞のまこちゃんには刺激が強いから?」


「そ、そうじゃなくて!」


その通りなのだが、なぜ僕が童貞だと分かるのだ。いや、この生活を見れば分かるか。僕はまとわりつく小夜を何とか引き剥がし「そこに座って」とベッドを指定した。


「なになに? 図書館で悪魔について調べる、とか言ってたけど、もしかして私のことも色々理解できたのかな」


「うん…。色々な本に書いてあることが正しければ…小夜、サキュバスって悪魔なんだよね?」


「あー、そんな風に言われたこともあったかな。吸血鬼って呼ぶ人もいれば、人魚って呼ぶ人もいたなぁ」


小夜は過去、精力を奪った男たちでも思い出したのか、遠い目をしていた。吸血鬼、人魚、というワードから僕が連想したのは、図書館で悪魔について調べたときに、何度も目にした「長命種」という言葉だ。そんな風に呼ばれる、ということは、彼女の長寿っぷりを目にした人がいたのだろう。


「それでさ、小夜が本当にそれなら、栄養を摂取するために、僕はその…小夜と…なんていうか、あれをする、のかな?」


「エッチなこと?」


「そ、そう。それをするってことなんだよね?」


「そうだね。人間との生殖行為が私にとっては、一番効率が良い食事方法だよ」


「他に、栄養摂取の方法はないの?」


「うーん、後はキスだけど、あまり効率が良くないんだよね。あと、肌の接触でも栄養を吸い上げることもできるだよ。だから、私はできれば毎日、一緒に寝たいんだけどね……」


「じゃあ必ずしも、そういうことはしなくて良いの?」


「うーん。肌の接触については、得られる栄養って、ほんと少しなんだよね」


「要はお腹いっぱいになれないってことだよね。それくらい我慢できないの?」


「まこちゃんは一日のご飯が飴玉一個って言われたら、どれくらい我慢できるの?」


「そのレベルなんだ…」


「そういうこと。満足できるのはキスからかなぁ。一応、お腹はいっぱいになるんだけど、これは代わりにまこちゃんが凄い負担になるの。加減を間違えると、死んじゃうしねー」


改めて衝撃的なことを言われ、僕は血の気が引くのを感じた。既に二回もキスをしたけど、もし小夜の空腹がとてもつもなく、より多くを欲していたとしたら、僕は死ぬまでエネルギーを吸われていたのかもしれない。


「だから効率が悪いんだ。私の満腹感に比べて、相手の消耗が激しすぎるから。だから、一番良いのは生殖行為。これなら、私が満腹になっても、まこちゃんが死ぬ可能性は低いよ。たぶんね」


小夜は僕の手首を握ると、自分の方へと引き寄せる。僕はなぜか力が入らず、彼女に逆らえなかった。そして、小夜は「だ・か・ら」と一文字ずつ区切って言うと、お互いの位置を入れ替えるように素早くターンをすると、僕をベッドに押し倒す。


そして、僕に伸し掛かる彼女は、人を食べて生きる悪魔だと実感してしまうほどに、脅威的であり魅惑的だった。なぜだろう、頭がうまく動かず、このまま小夜に好きにさせてしまいたい、とすら思った。何かが変だ。僕はここまで、だらしない人間だっただろうか。瞳が僅かに赤くなった小夜が言う。


「気付いた? 私の匂いはねー、男性の思考能力を鈍らせる効果があるんだよー。動物が獲物を食す前に、毒を入れて動けなくするのに似ているよね。そんな毒の匂いを吸ったまこちゃんは、私のお願いに、逆らえなかったりするんだよね」


「あ、ああ……」


小夜の言葉に納得する。彼女から僅かに香る体臭は僕の鼻孔をくすぐり、思考力も抵抗力も奪っていることを実感していた。


「可愛いね、まこちゃんは。大人しくなっちゃってさ。根が素直で良い子なんだろうね。可愛いから、ちょっとつまみ食いでキスしちゃおうかなー」


キスか、と僕はぼんやりする頭の中で思った。別に減るものじゃないし、一回くらい…いや、もう三回目か。でも、小夜がそれで満足できるのなら、してあげても良いかな、と考えてしまう。


「でも、まこちゃんがまた倒れちゃっても困るし、やっぱりお互いが一番気持ちの良い方法が良いよね~」


そう言って、小夜は僕の太股に手を這わせた。思わず、声が漏れてしまった。嗚呼、僕はこのまま、良く知らない女性を相手に、童貞を奪われてしまうのだ、と心の中で叫ぶ。この状況なら仕方がない。このまま、彼女に身を委ねてしまおう。


しかし、そこで僕の頭の中に、詩葉さんの笑顔が浮かんだ。僕は彼女に……。


「ま、待った!」


「……どうしたの?」


「な、なし! そんなことは、僕はしない!」


「え?」


僕は自分の上にいる小夜を手で押し上げた。彼女にとって思いもよらぬ抵抗だったのか、目を丸くしながらも、大人しく僕から離れる。瞳も黒く、もとに戻っていた。僕は身を起こし、ベッドに腰をかけるような姿勢になった。


「違うんだ、小夜。僕は話したいことがあったんだ」


「話したいこと?」


小夜は首を傾げながら、僕の横に座る。


「うん。あのね、小夜は僕とこれから同棲するって宣言してたけどさ」


「そうだよ、一生続く愛の生活が始まるんだよ」


「だから、その生活なんだけど、僕は断りたいんだ。小夜とは生活できない」


「……どうして?」


「僕は……好きな人がいるんだ。だから、好きな人でもない女の人と、そういうことをするっていうのは、おかしいって言うか、変って言うか、間違っているって言うかさ。だから、栄養が必要なのは分かるけど、他の人に頼んでほしいんだ」


「……」


小夜は茫然と僕の顔を見つめていた。僕は横目でそれを見ながら、小夜が次に何を言うのか、やや恐れた。しかし、僕が考えていたものとは、違う反応が返ってきた。


「ふふっ」と笑ったのである。


「な、なに?」


どういう意図で彼女が笑ったのが確認したのだが、返答どころか、声を上げて笑い出したのである。


「そんなに笑うことだった…?」


「おかしいよ、あははっ!」


しばらく、小夜は笑っているだけで、何も言葉にできないようだった。僕は小夜の発作が止まるまで、ひたすら待った。


「ふー、こんなに笑ったの、五十年ぶりかも」


「ご、五十年…」


「ごめんごめん、こんなに笑うつもりはなかったんだけど」


そんなところに僕は驚いたわけではなかったのだが、なぜ笑ったのかも気にならないわけでもなかった。


「まこちゃんがそんな純情だとは思わなかったよ。こんな年頃になってまで、そんな気持ちで生きている男の子がいるとは思わなった」


「そんなことないよ。僕以外にも、こういう考え方の男だっているよ」


「あははっ、そうかもね。それにしてもさ」と彼女は言う。


微笑みを見せながら、何度かその表情を浮かべたように、少し寂し気な顔をするのだ。


「それにしても、私に誘われて、断る人は初めてだったかも」


「そ、そうなんだ」


彼女が有している、魅了という悪魔としての能力が、どれだけの力を持っているのかは知らないが、それなりに男性の判断力や抵抗力を奪うものだったことは違いないらしい。どんな男たちが彼女に誘惑されてきたのかは知らないが、どうやら僕の意思の力と詩葉さんへの想いは、他に劣ることのない強いものだったのだ。


「でもさ、まこちゃん。まだ決断するのは早いよ?」


「何で?」


「説明してもさ、なかなか信じられないかもしれないから、また体験してもらうしかないね。とにかく、まこちゃんはもう私なしでは生きていられない体なんだよ、残念ながらね」


「え、どういうこと?」


「二、三日もすれば分かるよ。まこちゃんが理解してくれるまで、私もまこちゃんを食べるの我慢するしさ」


そんなことを言わずに説明してくれれば良いのに、とも思うのだが、確かに言葉で説明されるよりも、実際に体験した方が、悪魔と言う非現実的な存在との関わりは、理解しやすいのかもしれない。


「だからさ、二、三日は猶予期間をちょうだいよ。もし、それでもまこちゃんが出ていけって言うなら、私も別の生き方を検討してみるからさ」


確かに、今から急に出て行け、というのも酷い話だし、それくらいの猶予くらいあっても良いかもしれない。


「わかった。じゃあ、数日はこの生活を続けよう。でも、ちゃんと次の行先を考えておいてくれよ。少しくらいなら、僕も融通は利かせるからさ」


「まこちゃんって優しいー!」


唐突に抱き着いてくる小夜。あの香りが鼻孔から僕の脳へと進行する。


「た、タイム!」


僕は素早く小夜を引き剥がし、距離を取った。


「ほんと、まこちゃんは不思議だねー。私の匂いが効きにくい体質なんてさ。普通の人に比べて、キスをしても体力が残るみたいだし。悪魔に対して免疫でもあるのかなぁ」


小夜は人差し指を口元にあて、物欲しそうな怪しい瞳を向ける。


「ま、どっちにしても、まこちゃんは私のものだから良いんだけど」


「違うって。もうそういう方向で考えないで、早く次の住処を考える努力をしてほしいな」


「いいからいいから。じゃあ、暇つぶしにさ、まこちゃんが好きって言ってた女の子の話でもしようよ。どんな子なのか、気になるなぁー。私にとっては恋敵とも言える存在なわけだし」


「小夜がそんな風に思っているとは思えないけど……」


「良いから良いから。とにかく教えてよー」


「あまり話したくないけど…」


しかし、僕は少し話したい、という気持ちがないことはなかった。なぜなら、僕がどれくらい詩葉さんのことを好きなのか、誰かに語ったことはなかった。そんな話をできる友達もいないわけだし。だから、その気持ちを外部に吐き出したい、という気持ちがないわけではないのだ。


小夜のしつこい追及に、僕は渋々と言った様子を見せながら、詩葉さんについて話すことにした。そんな僕を見て、小夜は嬉しそうに笑顔を見せて言うのだった。


「いいね~。こういうの、修学旅行の夜みたい、って言うんだよねー」

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