4-3
三条は次の日、大学に着くと真っ先に涼子のもとへ向かった。大学構内の廊下で、彼女が歩いているところを見つけ、早速引き止める。
「涼子さん。俺は貴方に確認しなければならないことがあります」
ただならぬ三条の雰囲気に、二人の傍を通過する学生たちの視線は、自然とそちらに向けられていた。それでも動じぬ三条の第一声は、唐突だった上に(いつものことだが)、鬼のような剣幕だったことから、慣れている涼子すらやや混乱させる。
「はい?」と涼子は長いまつ毛を瞬かせた。
そんな美しい涼子を見れば、いつも三条の心は安らぐはずなのに、白川から聞いた信じがたい話を思い出すと、手が勝手に拳を作ってしまう。
「涼子さんは…白川と交際していた、というのは…本当なのですか?」
そんな言葉を口に出すことすら、三条は認めたくはなかった。しかし、それが事実かどうか、涼子の口から聞かなければ、納得はできない。三条の様子がいつもと違うことを、涼子は理解したのか、最初は困惑していたものの、真剣な眼差しで答えた。
「事実よ。誰に聞いたの?」
認めてしまうと、涼子の中で突っかかった何かが抜けたかのように、重い溜め息が出た。
「じ、事実……。涼子さんの方から、あの男に交際を申し込んだ、というのも…?」
「それも事実ね」
「……あ、ああ」
三条は膝から崩れ落ち、床に手を付いた。傍から見れば、三条が涼子に対し、土下座をしているような状態である。偶然、そこを通りかかった学生たちは、何事かとそちらに目を向けるが、関わるべきではない、といった具合に素通りして行く。
「涼子さんは、今でも、あいつのことを…?」
三条は視線を床に落としたまま聞く。そんな彼を憐れむように見下ろす涼子だったが、質問に対する答えは、辛辣なものだった。
「そうよ。今でも、私は彼と交際したいと思っているわ」
「そ、そんな……」
三条はショックのあまり、土下座の体勢すら保てず、うつ伏せの状態で床に張り付き、その様はただの変人であった。廊下でうつ伏せのまま動かない三条は、明らかに変人だったが、そんな人物を目の前にして毅然と立っている涼子も、周りで見ている人間からしてみると、異様だった。
「勘違いしないでほしいのだけれど」と涼子は言った。
三条は床に溶け込んでしまったかのように動かなかったが、耳は確かにそばてている。
「私は彼を一人の男として恋をしているわけではないわ。ただ、彼の才能に恋をしているだけよ」
それに対し、三条は床でうつ伏せのまま、動かなかった。涼子も、三条を見下ろしたまま、動かない。だが、やがて床から低い音が聞こえてきた。
「ふっふっふっ」
それは、三条の笑い声だった。三条は奇妙な笑い声と共に、地獄から這い上がってきた復讐の戦士であるかのように、ゆらりと立ち上がる。
「そうですかそうですか。それなら話は、簡単だ。俺とやつは、学際での決闘によって、雌雄を決するだけ、ということ。貴方がやつの才能に惹かれている、というのなら、俺はやつより才能に溢れていることを証明すれば良い。…そういうことですね?」
「決闘だとか一騎打ちだとかは、貴方が一人で言っていることだけど…」
「分かりました! それでは、この三条、血反吐が出るまで練習に励みます。すべては、貴方をこの腕に抱くためです。少しお待たせしてしまいますが」
「……まぁ、良いわ。貴方が諦めてくれるきっかけになるかもしれないし。もし、本当に貴方が白川くんに勝つことがあるなら、私は何でも言うこと聞いてあげる」
涼子の大胆な提案に、三条は不敵な笑みを浮かべた。
「覚悟を決めましたか」
「覚悟というほどのものではないわ。だって、結末は分かっているもの」
「そう言っていられるのも、今のうちですよ。一ヵ月後…楽しみだ」
「そうね。せいぜい、頑張って練習して」
涼子は話を切り上げるように手を振って、その場を去った。三条はその背に人差し指を向け、声高々に宣言する。
「一ヵ月後、貴方は本当の意味で恋を知ることになる。待っていてください!」
涼子は背を向けたまま、肩をすくめ、三条から遠ざかって行った。三条も涼子に背を向けて歩き出す。その顔には、笑みなど一つもない。ただ、真剣な眼差しだった。
それから、三条は常にピアノを練習した。ピアノが目の前にないときも、頭の中で鍵盤を叩き、指も動かした。自分の技術をすべて叩きつけるような、躍動感があり情熱的で、どこか攻撃的で危うく思えるような、彼の演奏は鬼気迫るものがあった。ただ、彼は小夜の前だけでは、息抜きとして、彼女のためのピアノを弾く。その甲斐もあってか、小夜の精神状態は安定したように見えた。
その日も、三条はデパートの最上階で小夜のためにピアノを弾いた。いつものように、三条の演奏に拍手を送る小夜だったが、いつもに比べて反応が薄い。三条は自分の演奏に不備があったのだろうか、と少しだけ不安になる。
「俺の演奏に不満でもあったか?」と聞くと小夜は首を横に振った。
「ううん。でも…そうちゃん、最近何かあったの?」
「……どういうことだ?」
「うーん。演奏は確かにいつもみたいに綺麗で楽しくて、それで優しいのだけれど。なんだろうなー、そうちゃんの焦りみたいなものを感じた、かな」
三条は数秒、小夜の顔を見つめたまま、茫然とした表情で目を瞬かせた。そんな滅多に見せない三条の表情に、小夜の方が首を傾げる。数秒、見つめ合った後、三条がふっと笑った。
「お前は本当におかしなやつだ。だが、この世界で一番良い耳をしているようだな」
「おお、褒められた褒められたぁー」
「そうだな。そんなお前だからこそ、俺のたった一つの悩みを打ち明けてやらんでもない」
「あ、人生相談ってやつだねぇ。良いよ、私はこう見えても経験豊富だから」
「俺より少し長く生きている程度で偉そうにするな」
三条は数週間に迫った、白川との決闘について、小夜に説明した。小夜は三条が語り終えると、納得いかないという表情を見せる。
「そうちゃんより、ピアノ上手い人なんているの? 信じられないなぁ」
「俺も信じられないことだが、世間の評価とはそういう、理不尽なモノだ。俺としても、やつに劣っている部分が見当たらないから、行き詰っているのさ」
「なるほどねぇ」
「それで、お前から見て、何かアドバイスはないか?」
「私、素人だよ?」
「だとしても、確かな耳と感性を持っている。それは限りなく信頼している」
「信頼、か。良い言葉だ」と小夜は三条の真似をする。
小夜は人差し指で顎に触れながら、考え込んだようだったが、何か思い当たることが見つかったらしく、口を開こうとした。しかし、それを遮って割り込む声が。
「あ、三条くん。やっぱり、ここだったか」
現れたのは、白川である。三条はあからさまに嫌な顔をするが、彼にとってはどうでも良いことらしく、二人の方へ歩み寄ってきた。
「あ、この前の」と白川は小夜を見て笑顔を見せる。
三条は無意識に、白川の視線を遮るように、小夜の前に立った。
「何の用だ? 何度も言うが、決闘の時まで、お前の前でピアノは弾くことはないぞ」
「まだそんなことを言っているのかい? 困ったなぁ」
白川は三条のことを我が儘な子供のように言うが、誰が見てもお互い様…いや、むしろ白川の方が自分勝手な男であった。
「貴方もピアノ弾けるの?」と聞いたのは小夜だった。
「はい」
「聞いてみたいな」
「あまり人のために弾くのは好きではないのですが…貴方のためなら弾きましょう」
そう言って白川がピアノの前に座る様子を見ながら、小夜は三条に耳打ちする。
「ねぇ、あの子…今、そうちゃんと同じこと言ってたよ?」
「……それを言ってくれるな。自分が嫌いになりそうになる」
白川の演奏は、三条が聴いても完璧と評さずにはいられないものだった。いつ聴いても、何を聴かされても、同じ感想を抱かせる。三条は聴き惚れそうになりながらも、何とか嫉妬の力でそれを食い止めていた。
「どうでしたか?」と白川は演奏を終えて小夜に聞いた。
三条は歯を食い縛り、この男への怒りを抑え、小夜が何を言おうが、気にせずただ己だけを信じれば良い、と心の中で強く言い聞かせた。しかし、小夜の感想は意外なものだった。
「うーん。確かに上手だけど、私はそうちゃんのピアノの方が好きかな」
「……何だって?」と思わず口にしたのは三条である。
「そうですか」と冷静に受け止めたのは、白川だった。
それなりにショックだったのか、笑顔は見せないものの、何度も頷いて小夜の言葉を受け止めようとしているらしかった。
ふん、と三条は蹴散らすように鼻を鳴らした。
「分かっただろう。決戦の日に当たり、お前にも余裕がないということを。理解したのなら、さっさと帰って練習しろ」
「……そうだね。僕も他人から言われたら、納得するしかない。君の言う通り、帰って練習するよ」
白川はその場を立ち去ってしまった。三条が拍子抜けするほど、あっさりと。
「あ、でも…君のピアノを聴かせてほしいという気持ちは、変わらないからね」
それだけ言い残して、白川は今度こそ立ち去った。三条は暫く白川の背中を睨み付けるように見つめていたが、彼の姿が完全に見えなくなると、すぐに小夜の方を見た。
「どういうことだ? 本当にやつの演奏より、俺の方が良かったか?」
「やっぱり、彼がさっき言ってた、宿命の相手って人なの?」
「そう、憎き相手だ。恐らくは前世からの因縁で…いや、それはどうでも良い。さっきの話は、本当なのか?」
「そりゃあ、本当だよー。確かにさっきの彼は、淀みなく美しくて、透き通った水のような演奏だったけどね…そうちゃんのは、もっとたくさんの色があって、優しさに溢れている。誰が聴いても、そうちゃんのピアノの方が良い、って言うと思うけどなぁ…」
「俺もそう思っているのだが…世間の評価とはそういう、理不尽なモノらしい。それか、うちの大学には、耳が腐ったやつしかいないのかもしれないな」
「彼は自分でも、そうちゃんの演奏に劣る、って感じていたみたいだけどね」
小夜の一言を聞いて、三条は白川が残した言葉の意味を理解する。僕も他人から言われたら、納得するしかない。つまりそれは、自分が劣っているかもしれない、という気持ちがあったから、ということなのではないか。
「だとしたら、なぜ俺のピアノは評価されないのだろうか。天才過ぎて誰にも理解されない、というやつか。生まれてくる時代を誤ったな。天才過ぎるが故の不幸、か。非常に残念だ」
「うーん……」
「なんだ、その意味ありげな感じは」
「心当たりがあると言うか、何と言うか…」
「なんだ? 教えてくれ」
「うーん、でも私、素人でしかないしさぁ」
「そうかもしれんが、お前の意見は核心を突くものがある。なんだ、早く言え。どうすれば俺はやつに勝てる?」
「たぶんねぇ、そうちゃんは私の前でしか、他人のためにピアノを弾いていないんだよ」
「……ん?」
「そうちゃんは、聴いている人を意識して、演奏していないでしょ? 初めて会ったとき、そう言っていたのよね。俺は自分のためにしかピアノを弾かないって。あ、さっきの彼も言っていたねぇ」
「……それだけのことか?」
「たぶんだけどね。試してみたら?」
三条は辺りを見回す。デパートの最上階であるこのフロアは、楽器屋の他にも本屋や玩具屋など、比較的にのんびりした雰囲気だが、それなりに様々な目的を持った人たちが右へ左へと歩いている。もし、三条がピアノを通して、彼らの精神を可視化し、それに呼びかけるような演奏をしたら、どうなるのだろうか…。三条はただ自分の演奏を愛していたが故に、そんなことを試してみようとは、一度も思わなかった。
彼はピアノに向き合い、ゆっくりとピアノを演奏し始めた。夕方の忙しない時間に、美しいメロディが漂い始める。人々は言葉にできない何かを感じ、足を止め、音のする方へと誘われた。
今まで、この場所で三条がピアノを弾けば、何人かが足を止めて聴き入ることはあった。しかし、今回のそれは今までとは比べ物にならない。多くの人が、三条のピアノに惹き付けられ、耳を傾け、魅了された。
三条が手を止めると、万雷の拍手が起こる。三条は自分を囲い、笑顔で手を叩く人々を見渡した。その中に埋もれるようにして、立っていた小夜が、笑顔で頷く。三条もただ頷き返した。しかし、これが自分の演奏によるものだ、と理解しようにも、なかなか実感が沸かなかった。




