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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
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4-2

女の名前は小夜と言った。


小夜は、なぜだか死ぬつもりらしく、何日も食べ物を口にしていないそうだ。三条は決して金に余裕があるわけではなかったが、小夜に食事を奢ってやろうと提案した。しかし、小夜は頑なに断った。


「ねぇ、その代り…一つお願いしたいなぁ」


小夜は三条を拝むように両手を合わせた。


「明日もピアノを聴かせて! そしたら、もう死ぬとか言わないように、頑張るからさ」


変な女だ、と思った。約束はしない、とキザなことは言ったが、どうも不幸そうにしている女を放って置けない三条は、今日もあのデパートの最上階へ向かうつもりだった。


「三条くん、だよね?」


大学の空き教室にいると、三条は唐突に声をかけられた。三条は集中していたので、肩が持ち上がるほど驚いてしまう。しかし、振り返って声の主を確認すると、さらに驚いた。


「し、白川…」


「初めまして。白川です」


そこに立っていたのは、三条が宿命の敵だと勝手に認定していた、白川望だった。物静かな印象を受ける平凡そうな男だが、才能というオーラをまとったかのような、独特な雰囲気がある。


それにしても「初めまして」という言葉が引っかかるではないか。お互い、何度も顔は合わせているはずだ。話すのは初めてなので、おかしくはないが、それにしても違和感のある挨拶ではないか。これも天才だからこその価値観だろうか、と三条は思った。


「……って、三条くんは今、何をしているの?」


しかし、そんな天才肌の白川ですら、三条の様子を見て戸惑いを隠せないらしい。なぜなら、三条は大きな白い布の前に胡坐をかき、筆を手にしながら唸っていたからだ。


「何って、貴様と俺の決闘を大学中に知らせるため、横断幕を作っているところだ。涼子さんから、決闘について聞いているだろう?」


「聞いているけど…横断幕を作るとは聞いてないよ。一人で作っているの?」


「誰も手伝ってくれないからな」


「そっか…凄いね」


「こんなの、ピアノに比べれば簡単だ」


「そうなんだ。僕にはピアノしかできないから、よく分からないや」


「謙虚なのか傲慢なのか、良く分からない言葉だな。それで、貴様こそ、なぜここにいる? 俺は敵と慣れあうつもりはない」


「あ、うん。島崎さんに、君がここにいるって聞いて」


「……涼子さんなら、俺の居場所を知っているには違いないだろう。彼女は俺に惚れている…はずだからな。それで、お前自身は何の用だ?」


「三条くんのピアノを聴きたくて。弾いてもらえないかな?」


「なぜ今更? 今まで定期発表会で何度も聴いているだろう」


「僕、この前の定期発表会で、初めて君の演奏を聴いたのだけれど」


「は、初めて?」


確かに、二人は並んで授業を受けたり、レッスンを受けたり、ということはなかった。しかし、定期発表会は何度も開催されていたし、常に三条は白川の背後に迫り、プレッシャーを与えているつもりだった。さらに言えば、三条は常に白川の演奏を聴き、いつか超えてやろうと研究していた。だから、当然のように白川も追いつかれまいと、自分の演奏を研究しているとばかり思っていたのだ。しかし、白川にはそんなつもりは、全くないらしい。


「初めてだと?」と三条は怒り爆発を寸前で抑えながら聞いた。


しかし、白川は悪意がない様子で頷く。


「うん。それでね」


次に白川が何を言うかは知らないが、少しでも不快感を覚えるようなことがあるなら、引っ叩いてやろう、と決意していた。


「君の演奏を聴いて、凄く感動したんだ」


「……何だって?」


「僕は今まで、他人の演奏に感銘を受けたことなんてなかったんだけどさ。君の演奏は特別だったよ。だから、君の演奏がどう特別なのか、理解して、盗めるところは盗みたいんだ。だから、お願いだよ。三条くんのピアノを弾かせてくれないかな?」


意外な言葉に、三条は言葉を詰まらせた。馬鹿にするな、と怒鳴るべきか。それとも、理解できるとは流石だな、と手を取り合うべきなのか。迷った結果、三条は腕を組んで顔を逸らした。


「お、お前の前では弾かん」


白川は何も言わなかった。しかし、腹を立てた様子もないが、突然三条の横に座ると、油性ペンを手にして、腕まくりをした。


「お前、何をしているんだ?」


「取り敢えず、横断幕を作るの、手伝うよ」


「なぜ?」


「そうすれば、ピアノを弾かせてくれるだろう?」


「お前、変わったやつだな」


「三条くんは、優しそうだからね。借りを作れば、断れないと思ったんだ」


白川の腹黒い本心を聞いた三条は、手にしていた筆を放り出して立ち上がった。


「どこに行くの?」


「どこでも良いだろう。とにかく、お前のいない場所だ」


三条は、白川に対して、どういう態度を取るべきか迷っていたが、最終的には不快感が勝った。何よりも、この男が自分を少しも敵として認識していないことが、三条のプライドを傷付けたのだ。


三条が作業を放棄し、教室を出ようとすると、白川が何食わぬ顔で後を追ってきた。


「なぜ、ついてくる?」


「もしかして、ピアノを弾きに行くかな、と思って」


「その通りだが、俺はお前の前では弾かない。ついてくるな」


「でも、僕は君のピアノが聴きたいんだ」


「お前の都合など知らん」


「僕も、君の言い分なんて知らないよ」


「……お前」と三条は言い掛けて止まる。


勝手なことだが、白川という男は真面目で遠慮がちな男なのだろう、と勝手に解釈していた。しかし、実際に会話すると、とても面倒で迷惑な男という印象しかない。面倒で迷惑な男…以前、涼子にそう評されたのは、自分自身ではなかっただろうか。三条はそんな記憶を振り払うように、頭を左右に振った。


「俺がお前の前でピアノを弾くとしたら、それは決闘の場である学祭のときだけだ。それまでは、絶対にお前の前では弾かん。分かったら、そのツラを俺の前に出すな。良いな?」


三条はそう言うと、白川の返答を聞かずに、走り出した。まるで、逃げ出すコソ泥のように。三条は今まで、自分が思うままに生きてきた。それは自分のペースを守り続けた、という意味だ。しかし、この白川という男は、自分のペースを乱される気がしてならない。とにかく、距離を取りたかった。

それなのに、振り返れば白川がいる。走って、振り返って、白川の姿を確認して。そんなことを繰り返した。大学内での鬼ごっこは、昼から夕方まで続いた。


三条は大学を脱出した。それでも、白川の追跡を免れることができなかったが、発車寸前の電車に乗り込むことで、何とか撒くことができた。


三条が強引にも白川からの追跡を逃れたかったのは、もちろん迷惑かつ面倒だったこともあるが、そろそろ小夜との約束の時間だったからだ。どうしてだか、自分の人生を放り出そうとしている危なげな女に、ピアノを弾いてやるために、これだけ必死になっている自分自身が、少し不思議だった。


小夜は昨日と同じ場所で座って待っていた。三条の顔を見ると、笑顔で手を振る。三条が少し遅れて現れたにも関わらず、へそを曲げた様子は少しもない。なかなか人懐っこい女だが、それ故に危険なように思えた。


「良く待っていた。今日は昨日よりも、美しく優雅で、エレガントな時間をくれてやろう」


「それは楽しみだなぁ」


笑顔を見せる小夜に、三条は人差し指を立てる。


「お前が死ぬとか何とか考えることが、下らないと思うような素晴らしい演奏だ。この世の天国を、見せてやる」


「そうちゃん、かっこいいねぇ」


三条の下の名前は、蒼汰と言う。まだ二度しか会っていない二人だが、もう幼馴染であるかのような距離感だった。


「当然だ。それでは、軽く一曲」


三条は演奏を始める。昨日は小夜が、自身の感情を整理するよう呼びかける演奏を試みた。彼女の絡まった感情を解くことで、何に苦しみ、何に悲しんでいるのか、理解に導いたのである。それだけで、小夜の気持ちはある程度、軽くなったはずだ。


だから、今日は単純に彼女の喜びや安らぎを揺さぶるような演奏を試みた。ピアノを通し、彼女の精神を可視化する。そして、喜びや安らぎの部分を探り、それを刺激するように演奏したのだ。


一曲終えて、小夜を見ると、彼女は想像通り笑顔で拍手を送る。


「そうちゃん、凄い! 私、何だか楽しい気持ちになったよ」


「お前は俺の演奏を正しく理解するな。普通なら、そこまで感じ取ることはないぞ」


「あー、私も長く生きているから、色々なものに触れてきたんだ。だから、感性っていうものが磨かれているのかもねぇ」


「長く生きている? その若さでそんなことを言っていたら、人生の先輩たちに笑われるぞ?」


「あはははっ。そんな先輩がいるものなら、ぜひ会ってみたいけどねぇ」


「不思議なことを言う女だな、お前は」


「ねぇ、それより、もう一曲お願い!」


「急くな。最初からそのつもりだからな」


「太っ腹だねぇ」


「お前の前でピアノを弾くのは、なかなか気分が良いからな。さっきまでのイライラをここで解消するとしよう」


三条はもう一度、指先を鍵盤へ移動させようとしたが、視界に想定外のものが入り込んだ。白川である。


「すまない、小夜。今日はここまでだ。また、明日にしよう」


「えー、どうして? あと一曲だけお願い! そうちゃんのピアノ聴いていると、私…何か大事なことを思い出せそうな気がするんだよ」


小夜はまた何かを確かめるように、胸元に右手を当てた。


「大丈夫だ。明日、必ず。とにかく今日はやばいんだ。それじゃあな」


「三条くん、探したよ」


遅かった。三条が立ち去ろうとした進路を遮るように、白川が立っていたのである。


「くそ! どうしてここが分かった?」


「島崎さんに聞いたら、君はここに立ち寄ることが多い、って聞いたんだ」


「流石、涼子さんだ。俺のことなら、何でも知っているな」


「涼子さんって誰ー?」と後ろから小夜の声。


「小夜には関係ない」


三条は振り返り、虫を払うように手を仰いだが、白川が彼女の存在に気付いた。


「わぁ、綺麗な人だね。三条くんの恋人?」


「違う。ただの友人だ」


「へぇ……」


「小夜。すまない、また明日だ」


「そんなぁ…」


三条は強引にその場から去った。しかし、白川は彼を逃がしてくれない。ぴったりとくっつくように、並んで横を歩く。白川は、ピアノを弾くよう懇願してくると思ったが、そうではなかった。


「ねぇ、三条くん。さっきの人、紹介してよ」


「なんだ、好みか?」


「うん、そうみたい」


「はぁ?」


意外な反応だった。白川はピアノ以外に興味のないモンスターのような存在だと思っていたが、突然このような人間味のある部分を見せられては、混乱してしまう。


「お前、女に興味があったのか? 交際経験なんて、ないだろう?」


「あるよ」


「何だと? 幼稚園のとき、同じ組だった女の子とか、そう言うのはナシだぞ」


「分かっているよ。割と最近のことだよ。島崎さんと交際していたよ」


「ああ、涼子さんか。なるほどな。……ん?」


「え?」


三条は足を止める。聞き間違いだろうか。白川の発言が、どこか異常で、正しく理解するまでに時間を要した。


「お、お、お前…!」


「昔の話は良いよ。それよりさ」


「それより、じゃない! 涼子さんだと? お前、涼子さんに惚れていたのか!」


「え? 違うよ。彼女がどうしても、って言うから、仕方なくね。でも、僕の方に気持ちがないのに、お付き合いするのも失礼だから、すぐに解消させてもらったけど」


「貴様……」


三条は拳を握りしめる。しかし、彼はピアニストである。その拳を暴力に使うなど、決してあってはならない事だった。代わりに、白川へと人差し指を突き立てる。


「俺は絶対に貴様に勝つ! 覚えておけよ!」


「僕は勝負なんてどうでも良いんだ。それよりも、君のピアノが聴きたい。もしくは、さっきの人を紹介してくれよ」


「どっちも断る!」


その日、三条は白川からの追跡を逃れるまで、長い時間を費やした。くたくたで帰った三条だったが、深夜になっても目が冴えてしまい仕方がなかった。白川への怒りが、溢れるほど浮かび上がり、とても眠れる状態ではなかった。

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