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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
47/61

4-1

三条蒼汰は三カ月に一度、大学で行われる、ピアノ演奏会の結果を確認した。そこに、三条の名前がある。三人選ばれる、優秀賞の一人だ。最優秀賞には、憎らしいあの男の名前が……。


白川望。


この演奏会に何度参加しただろうか。参加する度に、大学の掲示板に結果が貼り出され、最優秀賞の文字の下には、白川の名前があった。それに対し、三条は優秀賞ばかり。いつになれば、自分が最優秀賞に輝くのだろうか。周りの人間は、白川がいる以上、誰もそれを手に入れることはできない、と口にするが、三条だけは認めなかった。


自分は誰よりもピアノに向き合い、誰よりもピアノを愛し、誰よりも練習しているはずだ。そして、才能もあるはず。それなのに、一度たりとも白川には勝てなかった。


「やっぱり、白川くんだったわね」


掲示板の前で立ち尽くしていた三条に声をかけたのは、島崎涼子だった。


「悪いけど、卒業発表は白川くんと組ませてもらうから」


涼子はそう言って、三条の前から去ろうとした。


「ちょっと待った!」


三条の声に、涼子は足を止め、視線を少しだけ向けてくれた。


「涼子さん、まだ俺はあいつに負けたつもりはありません。あと一回…チャンスをください!」


「チャンス? 今度はどうやって白川くんに喧嘩を売るの?」


「大学祭があります。そこで、あいつと一騎打ちで勝負する…そして、俺が勝ちます」


「……一騎打ち?」


何もない天を掴むような動作を見せる三条に、涼子は首を傾げたが、すぐに呆れたように溜め息を吐いた。


「まぁ、好きにしたら。白川くんも気長に待ってくれているし。でも、本当にこれで最後ね。私はもう待てない。白川くんみたいな天才と一緒にやるなら、こっちとしても早めに準備をしたいから」


「分かっていますよ。これで最後です。そして、天才という言葉が、誰に相応しいのか…涼子さんも考えを改めるでしょう」


「はいはい」


涼子の背中を見て、三条は改めて誓う。次の決戦に勝つのも、涼子を自分のものにするのも、絶対に自分なのだ、と。そして、視線を掲示板に戻すが、三条の目に映ったのは「最優秀賞 白川望」の文字であった。掲示板を殴りつけようと拳を引いたが、指を痛めるわけにはいかず、それを引っ込めた。



事の発端は、二年の秋…つまり半年も前のことだった。



三条が通う音大では、卒業は論文と発表が必要だった。発表は合同で行うことも可能で、科をまたいで協力し合う学生も多い。良くあるのは、ピアノ科の学生と、声楽科の学生による協力だ。発表は四年の春にあるため、多くの学生は三年になって相手を見つけるか、一人でやるのか決定し、練習を始める。


三条も三年になれば、意中の相手である涼子に声をかけ、共同で卒業発表を行おう、と決めていた……が、ある日のこと、三条は涼子が友人たちと話しているのを聞いてしまったのである。


「私は白川くんを誘うつもり」


涼子の友人たちは、それを聞いて驚きを隠せなかった。それもそのはずである。白川と言えば、この大学の歴史の中でも、最も才能に溢れているピアノ科の学生、と入学時から言われていたからだ。しかし、その友人たちよりも驚いたのが、三条だった。


「待ってください、涼子さん」と思わず声をかけていた。


「な、なに?」


涼子はもちろん、彼女の友人らも三条の鬼気迫る表情にたじろいでいた。


「どうして、白川なんですか? 貴方に、あの男は似合わない! 貴方と一緒に大学という青春時代にピリオドを打つのは、この俺ですよ」


「なんで貴方が勝手に決めているのよ」と涼子は溜め息を吐く。


彼女の友人たちも苦笑いを浮かべているが、三条が変質者として扱われないのは、こういったやり取りが年中行われていたからだ。三条は昔から、涼子に惚れていて、何度も絡んでは、あしらわれているのだ。


「百歩譲って、俺である必要はないかもしれない。しかし、白川である必要もないでしょう」


三条は自分のピアノが白川に劣っているとは、少しも思っていなかった。恐らく、この大学でそう考えられるのは、三条だけだろう。


「何を言っているの? あの圧倒的な才能…どうせやるなら、彼と一緒にやりたいわ」


「圧倒的な才能? つまり、涼子さんは能力が高い相手であれば、良いということですね?」


「もちろん」


「分かりました。では、話は簡単です。俺が白川よりも才能がある、と証明すれば良いわけだ。楽勝楽勝」


「何を言っているの、貴方」


「次の定期発表会…俺が最優秀賞を手にします。それが一番シンプルで分かりやすい証明です。いかがですか?」


「……それで納得してくれるなら、どうぞ」


「約束ですよ」


三条は人差し指を意味なく立てて、意気込みを表してみたが、涼子とその友人たちは既に彼に背を向けて、その場を去っていた。


結果から言えば、二年の冬の定期発表会で、最優秀賞を取ったのは、誰の予想も裏切ることなく、白川であった。三条は「もう一度チャンスを」と涼子にしつこく頼み込み、それでは三年の春の定期発表会で…ということになったわけだが、結果はやはり惨敗、というわけである。しかし、三条は諦めてはいない。白川との差はほんの僅かである、と彼は信じていた。次の一騎打ちまでに死ぬ気で練習すれば、きっと勝てるはず。彼はその日も一心不乱に鍵盤を叩き続けた。




むしゃくしゃする。大学から家に帰る途中、三条は気持ちが収まらず、近所にあるデパートの最上階へと向かった。お目当ては、ディスプレイされ、試し弾きができるピアノたちだ。大学で練習を中断して帰ったが、掴んだ感覚を忘れてしまいそうな気がして、ピアノを弾きたくて堪らなかったのだ。そこで、家に帰る途中で唯一ピアノを弾けるポイントである、このデパートまでやってきた。


しかし、いざピアノの前に座ると、どうもやる気が起きない。何度も指先で鍵盤に触れてみたが、その気にはなれなかった。仕方なく溜め息を吐いて立ち上がろうとしたときだった。


「なんだ、弾かないんだ」と声がした。


声の方を見ると、奇抜な見た目の女がいた。少し離れたベンチから、三条のことをずっと見ていたらしい。女は、眩しいくらいの金髪だが、服はぼろぼろで、まるで浮浪者の一歩手前だ。美しい女であることは一目で分かるが、身だしなみが最悪だった。


「なんだ、貴様は」


妙な女ではあるが、三条は彼女の声に反応した。


「別になんでもないよん。ただ、ピアノ弾いてくれるかな、って期待していただけ」


「期待、か。良い言葉だ。だが、悪いな。今日は気分が乗らない。またの機会にでも、聴かせてやろう」


「残念だなぁ。死ぬ前に、一回は聴いておきたかったんだけどなぁ」


女の口から出た、死と言う不穏な言葉に三条は眉を顰めた。


「死ぬ前とは、どういうことだ? 病気か?」


「そうじゃないよ。…あ、そんなものかな。もう、どうでも良くなっちゃってね。そろそろ、死んでも良いかな、って思ってたの」


「死ぬなんて、滅多なことがなければ口にするものじゃない。そう思っても、人生とは生きていたら、結果的にラッキーだ、と思えることの方が多いのだからな」


「私も、そのつもりだったんだけどねぇ」


女は溜め息を吐く。三条よりは年上のようではあるが、まだ若い女だ。それにも関わらず、これだけの倦怠感で溢れているとは、どれだけの人生だったのだろうか、と三条は少しだけ考えた。


「まぁ、そういうこともあるな」と三条は女の苦労に対して結論を出すように言った。


「そうだねぇ」と女も関心がないように同意した。


「しかし、もう一度言うが」と三条は人差し指を立てる。


女はぼんやりとその指先を見つめた。三条は妙に自信ありげな微笑みを見せて言う。


「人の人生は、生きていたら結果的にラッキーだ、と思えることが多い。お前に、今日がその日だ、ということを教えてやろう」


三条はピアノに向き直り、指先を鍵盤に置いた。


「弾いてくれるの?」


女は目を丸くする。三条は再び人差し指を立てた。


「一回だけだ。その代り、俺の演奏を聴いたら、本当に死ぬかどうか、考え直してみろ。まぁ、それどころか…人生観が変わってしまうだろうがな」


「……ふーん。面白そう。期待しちゃうなぁ」


「期待、か。良い言葉だ」


三条は立てた人差し指を、今度は女の方へ向けた。


「それにしても、お前は本当にラッキーだ。俺は基本、他人のためにピアノは弾かない。俺は俺の欲望を満たすためにしかピアノを弾かないからな」


呆気にとられ、口を開けたままの女を無視して、三条は今度こそ指先を鍵盤に置いた。そして、演奏が始まった。


三条の演奏は、彼が言った通り、目の前だけでなく、近くをたまたま歩いていた人々にとっても、非常にラッキーなものだった。通りがかりで、偶然聴いたにしては、あまりに美しい演奏だったからだ。誰もが足を止め、三条の演奏を聴き入ったし、心が浮き上がってしまったかのように、表情を緩ませた。誰も、この男がピアノの技術で敗北を味わったばかりだとは、思いもしないだろう。


一方、三条は傍らに座る女のためだけに、ピアノを弾いた。三条はピアノを弾くとき、人の精神を視覚化することができる。女の荒れた心を三条は視ていた。そして、その心をピアノで修復することも、彼にはできた。心の欠けた部分に、ピアノが織りなすメロディを当てはめるような作業を彼は行っていたのだ。彼は他人のためにピアノを弾いたのは、本当に久しぶりだった。


ピアノを弾き終え、女を見る。彼女は涙を流し、何も言葉にできないようだった。


「俺の演奏の価値が分かったか? ラッキーだったな」


「……私、音楽のこと、知っているわけじゃないけれど、貴方の演奏が人に寄り添ったものだっていうことは、分かった」


女は涙ながらにそんなことを言った。それに対し、三条は自分の演奏の意図を理解した人間と、初めて出会い、少し驚きを覚える。


「ほう、俺の演奏を理解するとは、なかなか良い耳をしているな」


「……昔、貴方と同じような演奏をする人に会った気がする。どれくらい昔だったか、覚えていないけれど」


「ふん。だとしたら、そいつはプロに間違いない。いや、プロの中でも一流のピアニストで、有名なやつだろうな。名前も覚えていないのか?」


三条の質問に、女は頭を抱えた。そして、思い出すことに苦痛を感じているかのように小さく唸ったあと、肩を落として言うのだった。


「……分からない。本当に昔のことなんだと思う。でも、とても大事なことだった気がするのにな」


女は何かを確かめるように、右手を胸元に当てた。だが、三条には、それがどういう意味の動作なのか、理解はできなかった。

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