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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
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2-3

千代と小夜が久しぶりに、並んで張見世に出た日のこと。その日、雨が降ったせいもあり、客が異常に少なかった。


「お腹が空いたなぁ」と小夜が言った。


「小夜ちゃん、それはそうよ。いつもご飯、少ししか食べないんだから」


「うーん。そうじゃないんですよー」


千代は小夜が何を言いたいのか分からず、首を傾げる。


「早くお客さんこないかなぁ。誰でも良いのになぁ」


「誰でもは嫌よ。優しい人が良いわ」


千代が呆れたように言うと、小夜は屈託のない様子で笑った。本当に、小夜は変わった、と改めて思う。小夜になり切れば、これだけ仕事に抵抗がなくなるとは。本当にこの女の復讐心と心底にある意地は、震えあがりそうになるほど、執念深い。


また、例の噂についても考えた。小夜の客が死んだ、という話だ。小夜がその死に関わっている、ということは、遊郭の中でも多くの人が噂しているらしい。この噂は、遊女たちにとって暇つぶしでしかないだろう、と千代は思った。なぜなら、小夜は、人を殺すような人間には見えないからだ。遊女たちにとっては、彼女が人殺しだなんて、本心から思っていることではないだろう。しかし、これは表面上のことだ。この女の裏側には、人を殺してしまうくらい、暗いものを抱えている、と千代には思えた。それは、遊女たちが楽しむ噂よりも、恐ろしいものかもしれない。それは千代だけが感じていることだ。


「そう? 私は誰でも良いなぁ」と小夜は言う。


「駄目よ。お仕事だから、体を許すことは仕方のないことだけれど、気持ちだけは、誰にでも許したら駄目だわ」


千代はこのときの気持ちを本気で語ったわけではない。いや、心の中でそういう感情が少なからずあったのは確かだ。それでも、ただの会話の中で漏らした、何気ない話でしかなかった。しかし、小夜はそういう風に受け取りはしなかった。


「ふーん」と、小夜はどこか嘲るように返事をした。


そして、濡れた刃のような冷たい瞳で、千代を覗き込む。


「ねぇ、千代さんって、もしかして…こんな仕事をしていても、自分の中には、何か綺麗なものが残されている、とでも思っている?」


その目は、まるで人を喰う怪異であるかのように、不気味で底が知れない。千代が言葉を失うほど、不気味に輝いている。


「わ、私は…」と千代は恐ろしさに言葉に詰まらせた。しかし、小夜は千代を無視して続ける。


「そんなもの、私にはないなぁー。もう、生きるためなら、何だって仕方ないや。食べれるときに食べて、お腹が空かないようにするの。そのためなら、他人がどうなってしまっても、仕方ないよね。だって、私は悪くないもの。悪いのは、私を悪者にしようとする、周りの人たちだから」


やはり、この女は正気ではない、と千代は確信する。目を爛々と輝かす彼女は、胸元に隠れている首飾りを、着物の上から触っている。それは、自分の心の在処を確かめるようでもあった。千代の恐怖を知ってか知らぬか、小夜は続ける。


「千代さんは、もしかして、自分を支えてくれる何かが残っているのかなぁ。だとしたら、羨ましいなぁ…私も、そんなものが欲しいなぁ」


もし自分に、と千代は思った。もし自分に心を支えてくれる何があるとしたら、この女は本当に、それを喰ってしまうかもしれない。ただの羨ましさから、妬ましさから…千代の持つ特別な何かを、躊躇なく喰らってしまうのだ。


「そんなもの、私にはないわ…」


恐怖の中、辛うじてそう答えたが、小夜は興味なさそうに「ふーん」とだけ言って、張見世の外に目をやる。千代は少しほっとしたが、後味の悪い沈黙が残ってしまった。


「あ、千代さん。お客さんよ」


少し経ってから、小夜が言った。まるで、先程までのやり取りなど、なかったかのように、明るく人懐っこい声だった。小夜の言う通り、客らしき男がこちらへ歩いてくる。雨の中、傘をさした男は大柄で、千代が良く知っている人物だった。宗高である。


千代は宗高の姿を見て、少し安心したことに気付いた。そして、なぜ自分が宗高を見て安心したのか、と疑問に思う。ただ単に、小夜から流れる嫌な空気から解放されたことに、安心したのだろう、と自分を納得させた。


「千代さん。来ました」と宗高は笑う。


「宗高様、お久しぶりですね」


「あれ、千代さんのお客さんなんですかぁー?」


二人の結ばれた視線の間に、割って入るように小夜が宗高に近付いた。千代はそれを止めない。止める必要もない、と思った。


「は、はい。今日も千代さんと会いたくて…」


「えー、そうなんですか。でも、たまには違う相手も良いかもしれませんよ。どうですか、私は。ねぇ、千代さん。たまには、良いですよね?」


千代は笑うだけで、何も言わない。宗高が、自分以外の女に興味がないことを知っているからだ。宗高も苦笑いを浮かべ、小夜の態度に困惑している様子だった。小夜は格子の間から手を伸ばし、宗高の裾を指先で摘まみ、引き寄せた。小夜も立ち上がり、格子を挟んで宗高に接近した。それは、小夜の額が宗高の顔に触れそうなほどである。


「ねぇー、良いでしょう? たまには、私と…どうですかぁ?」


そういう仕事なのだから、必死になって男に取り入ろうとするのは正しい。ただ、別の女の常連を取ろうとするのは、あまりに品の欠ける行為ではないか。黙っていたが、宗高も困っているようだったので、そろそろ止めに入ろうと、千代は腰を浮かせようとした。しかし、次の瞬間、宗高が信じられないことを言った。


「そうですね、たまには…」


「本当? 嬉しいなぁー。ね、千代さんも良いでしょう?」


「……え? う、うん」


その後、宗高は本当に小夜を連れて、奥へと消えてしまった。千代は何が起こったのか、暫くの間、理解ができなかった。宗高が他の遊女を選んではいけない理由などない。千代にとっても、それを咎める理由はない。なぜなら、千代にとって、宗高は客の一人でしかないのだから。例え、身請けの話をされたとしても、ただの客でしかないはずなのに…。千代は茫然自失しながら、なぜ微かに狼狽える自分がいるのか、不思議に感じていた。


それから、客はやはり来なかった。時間が過ぎて行く。宗高はどうしているのか、と考えていた。


「おい、千代」


背後から声をかけてきたのは、この遊郭を管理する楼主だった。


「どうしました?」


「お願いがあるんだ。最近、小夜の噂…聞いているだろう?」


「はい。その…お客様が死ぬ、っていう」


楼主は頷く。


「小夜が殺しているわけではないと思うが…念のため、何か起こっていないか、知っておきたい。それで、小夜が相手している客、お前も一緒に相手してやってくれ」


「二人で、ということですか?」


「そうだ。あの客には、懇意にしてもらっているから、そのお返しだと言っておけ」


「……はい。分かりました」


楼主からの依頼は、良い気はしなかった。しかし、千代は自分が不快に思うはずがない、と言い聞かせ、小夜と宗高のいる部屋に向かった。


部屋の前、話し声が聞こえる。小夜の甘い声に、宗高は悪い印象を受けていないようだった。それは再び、千代に得体の知れない感情を沸き立たせる。


千代は襖に手をかけながら、それを開けず、ただ立ち尽くしていた。二人の話し声が止まる。会話が終わり、肌を確かめ合っているのかもしれない。千代は襖を開けて、止めようかと思った。止めるのも、仕事としては、おかしい行為だ。それに、そんなことをしてしまったら、千代は認めるべきではない何かを認めてしまったことになる、と感じていた。


それでも、中で何が起こっているのか、確認せずにはいられなかった。ゆっくりと、襖を開き、僅かな隙間から何が起こっているのか、覗き込んだ。


宗高が小夜の着物に手を忍ばせ、中を確かめていた。その手つきは、彼女の体を必死に貪るかのようだ。千代と過ごした時間の中では、決して見せなかった、彼の高揚がそこにある。千代は慄きながらも、その光景をただ見つめていた。信じがたく、否定したくても、そこから目を逸らせなかったのだ。


すると、小夜の視線がこちらに向いていることに気付いた。偶然、こっちを見ているわけではない。千代がそこにいると気付いて、こっちを見ているのだ。


その証拠に、小夜は笑った。無意識とは言え、自らを支える存在の、宗高を奪われて、何もできずに、ただ見ているだけの千代を、笑ったのだ。


小夜は千代にとって宗高がどんな存在なのか、理解をしていながら、彼を誘惑した。それに対して嫌悪の感情が沸き起こるのは当然だが、千代は宗高に対して失望感を抱いた。身請けの話までしておいて、小夜に一言かけられただけで自分を裏切ったのだから。


その事実は、酷く千代の心を傷付けた。しかし、千代は知らない。小夜の言葉は、男の欲情を掻き立て、従わせる力があるということを。


宗高が小夜を押し倒した。そして、唇と唇が重なる。小夜も宗高も…お互いを激しく求めるように、唇を重ね合う。しかし、すぐに異変があった。宗高が突然、力を失ったように、倒れたのである。急なことだった。苦しみも見せなければ、苦痛を訴える様子もなかった。何の前触れもなく、力が抜けたように、倒れてしまったのである。


小夜が客を殺している。千代はその噂をすぐに連想した。今、目の前で…それが事実であることを、千代は知ってしまった。


「な、なにを…?」と千代は声を出してしまった。


小夜は伸し掛かる宗高を剥がすように押し退け、身を起こした。唾液にまみれた口元を拭いながら、動かなくなった宗高の背を見つめる。


「小夜ちゃん…?」


事実を確認しなければならない。千代は襖を開けて、小夜に呼びかけた。小夜は顔を上げるが、この状況をどう思っているのか、無表情だった。ただ、そのときの小夜は、明らかに異常であった。目が光り輝くように、深紅に染まっていたのである。そして、呟くように言った。


「食べ過ぎちゃったみたい。こうなるなんて…知らなかった」


「食べた…宗高様を?」


震える千代の問いに、小夜は頷く。


「でも、知らなかったのよ。まさか、死ぬなんて…思わなかったから。本当だよ?」


千代はこの状況を耐えられなかった。一歩、二歩と後退ると、小夜に背を向けて走り出す。そして、楼主の元に駆け付けて、大声で訴えた。


「人殺しです! あの女は、人殺しの、化物です!」




小夜は逃げ出しているかと思われたが、楼主が男を連れてやってきても、宗高の傍でただ座っているだけだった。小夜は囚われ、楼主たちによって処罰されることになったらしい。


次の日には既に、小夜の姿は遊郭から消えていた。噂好きの史美が言うには、決して表に出ない方法で、小夜は消されたそうだ。でも、そんなことが可能だろうか、と千代は考える。


なぜなら、小夜は明らかに人間ではなかったからだ。だから、彼女は今でも生きているに違いない。またどこかで、誰かにとって大切な存在を奪っているに違いないだろう。そして、奪われてしまった人たちは、知らぬ間に自らの魂が欠けてしまったことに気付き、茫然とすることになるだろう。今の千代が、そうであるように。

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