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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
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2-2

それから、半年の間、詩葉は小夜へと変化して行った。それは異様とも言えるものだった。一人の女が、別の女に変化して行く様。それは鬼気迫るものだった。小夜は男に抱かれる、その度に毒でも喰らうようにして、自らの人格を変質させていくのである。この女が、本来の小夜と言う女に対し、どんな憎しみや恨みを抱いていたかは、知る由もない。しかし、男に抱かれることで、その女へ復讐しようという、醜い女の意地が見て取れた。


小夜は喋り方、笑い方、怒り方、何から何まで復讐心によって別物へと変化させたのだ。しかし、彼女が憎い女へと近付こうとすることで、この遊郭で絶大な人気を獲得し、食いっぱぐれのない生活を送っていることは、何とも皮肉な話だ。自分よりも憎い女が正しかった、と突き付けられるような気持ちにはならないだろうか。


「お兄さーん。今夜は私と楽しみませんかぁ?」


それでも、小夜は今日も、得意となった甘えるような声で、男たちを誘惑する。時折、千代は小夜の横顔を伺った。絵に描いたような、平たい笑みを浮かべる小夜は、もう壊れているのではないか、と千代には思えてしまう。


「びっくりしませんか、そんなことあるなんて」


千代は常連である宗高に、小夜の話をした。宗高は表情が乏しく武骨な印象がある男だが、このときは穏やかに微笑んでいるように見えた。


「何がおかしいのですか?」と千代は拗ねたような声色を出しながら宗高へすり寄る。


何度も肌を触れ合った仲であるにも関わらず、距離が近いと居心地が悪いのか、宗高は指先で頬をかいてから、こんなことを言った。


「あ、いや…珍しいな、と思いまして」


「珍しい?」


「はい。千代さんって、いつも落ち着いている人なので、そこまで感情的に、他人のことを話すことがなかったから。珍しいな、と」


「ああ……そうですか」


確かに、自分は小夜に関することになると、感情的になっているかもしれない。千代は遊女になってから、本来の自分を捨てて、千代と言う人物になり切っている。しかし、千代は本来の千代のことをすべて知っているわけではない。だから、どうしても部分的に自分が空っぽになってしまうことがある。千代を演じようとしても、千代らしい反応がどういうものなのか、分からないときがあるのだ。


千代はそんな自分を少しだけ自虐的に笑った。宗高はそんな千代の思いなど知る由もなく、ただ首を傾げた。


「宗高様は、私のことを良く知っているのですね」


「ま、まぁ…私は、千代さんのことを…好いていますから」


「……そう、ですか」


それは十分に承知のことだ。しかし千代にとって、宗高は客の一人でしかない。そのつもりだ。そのつもりだが、その日に限っては、少し頬を染める彼のことが、いつもと違って見えた。千代は笑う。


「そんなこと言って、宗高様も小夜ちゃんのお客様になってしまうのじゃないかしら」


からかうと、宗高は少し前のめりになって否定した。


「そんなことはありません。私は、千代さんだけを…思っています」


「……あら、嬉しい。信じたいわぁ」


「……信じてください」


宗高は真剣な顔色をして、姿勢を正し、改まった口調で言った。


「実は、私は貴方を身請けしたいと考えています」


「え?」


「身請けです」


つまり、宗高は遊郭から千代を買い取るつもりらしい。


「本気?」と千代は目を丸くする。


宗高はやはり真剣な顔で頷く。


「でも…そんなお金」


「財産を全部使うことになっても、貴方を身請けしたい。その…叶ったとしても、当分は貧乏暮らしをさせてしまうかもしれませんが」


「……びっくりしました」


「駄目ですか?」


「……分かりません。突然のことで、信じられません」


「信じてください」


それから数日、千代は宗高のことばかり考えた。きっと自分は、この遊郭で擦り切れるまで働いて、どこかの下働きとして売られ、一人でひっそりと死んでいくのだろう、と思っていた。それが男に愛されて過ごすかもしれない、と想像してみても、やはり信じられないものがある。


「千代さん、どうしたのー?」と小夜に声をかけられる。


やはり、小夜には詩葉という人間の面影はない。あのときの怯えた気配は一切なく、甘えた声で男を誑かす女でしかなかった。


「顔色が悪いよん。もしかして、食べてないのかな?」


千代は千代という面を被り、笑顔を見せた。


「食べてるよ。小夜ちゃんこそ、最近も食べてないでしょ? 逆にどうして元気なのよ」


小夜は本当に少量を食べるようになったが、人が活動するには十分な量とは決して言えない。それでも、彼女はあの頃とは比べものにならないほど活力に満ちている。まるで、自分たちが知らない特別な栄養でも摂取しているかのようだ。さらに、妙に色気が増しているようにも思える。その色気は千代が見る限りでは、男を堕落させる…いや、不幸にさせる何かがあるような気がした。


「よく分かりませんけど、元気なんです。私、この仕事が合っているかも」


「へぇ。ここにきたばかりの小夜ちゃんと同じ人とは思えないねぇ」


「何を言っているの、千代さん。小夜は最初から小夜で、最初からこんな風だったんだから」


「そうだったかなぁ。男の扱いにも、かなり慣れたように見えるけど」


「慣れたとか、そういうのじゃないよ。何だかね、私分かってしまったの」


「分かったって、何を?」


「男の人は、思ったより簡単に私を好きになるんだってこと」


小夜は笑顔を見せる。しかし、人懐っこい口調とは裏腹に、どこか妖しい表情だった。人をかどわかすアヤカシのようである。こういう顔をするとき、小夜は決まって胸元に手を置いた。どうやら、首から何かを下げているらしい。それを指先で触れながら、小夜は続ける。


「男の人に好かれると、何だかとても幸せな気持ちになるんだよ。よく分かっちゃった。だから、私は、この仕事…合っているんだなって」


「だったら、良いけど。今度は働き過ぎないようにね」


「はーい。じゃあ、表に出てきまーす」


小夜はそう言って、千代の前から姿を消した。それと入れ替わるように、噂好きの史美が部屋に入ってくる。彼女はすれ違う瞬間、小夜の顔を横目で伺っているようだった。きっと、小夜に関する噂を持ってきたのだろう、と千代は理解した。小夜が十分に離れたことを確認すると、史美は言った。


「ねぇ、千代ちゃん。聞いた?」


「聞いたって、何を?」


「小夜ちゃんの噂よ」


「さぁ?」


「もう、千代ちゃんが一番仲が良いのに、何で知らないのよ」


「仲が良い?」


千代はその言葉に違和感を覚えたが、史美からすれば、それはどうでも良い事らしく、噂とやらについて話し始めた。


「小夜ちゃん、やっぱり少し怪しいのよ」


「怪しいって? お金でもくすねているの?」


「それだったら、まだ可愛いものよ。何だかね、小夜ちゃんのこと気に入ったお客が、二人も死んでいるの」


「死んでいる? 小夜ちゃんを取り合って、喧嘩とか?」


「違う違う。ほら、小夜ちゃんが来たばかりのとき、新平さんが死んだの、覚えているでしょ? それと似たような状況なんだってさ」


「へぇ」


「偶然だと思った? 偶然にしては、おかしいでしょう? 新平さんを含めれば三人なんだから。そんなに奇妙なことが、続くわけないんだから」


「小夜ちゃんが殺している、って言いたいの?」


「そういうわけじゃないよ。でもね、何か恐ろしいことに関わっているのは、間違いないと思うの」


「そうかなぁ」


「きっとそうよ」


千代は言葉の上では否定的であったが、実際のところはそうではなかった。小夜と言う女に、不吉な何かを感じつつあったのだ。

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