2-1
「ねぇ、千代ちゃん。新しい子の話、聞いた?」
窓の外に広がる青空を眺めていた千代は、背後から声をかけられて振り向く。噂好きの史美だった。
「新しい子?」と千代は首を傾げる。
「そうよ。また新平さんが連れてきた子がいるよの」
「……そう」
新平は千代たちが働く遊郭では、有名な男だ。なぜなら、この遊郭の女たちの中でも、新平の誘いによって、遊女として働くようになった女は少なくないからだ。
「その子が、どうしたの?」
千代は興味があるわけではなかったが、史美が話したいようだったので、耳を傾けてやった。史美は「それがね」と言いながら、千代のすぐ横に座る。
「新平さんが死んでしまったって話、知っている?」
「え、本当?」
「そうなの、本当。それが、その新しい子がやったんじゃないか、って噂になっているの」
「噂? それなら、どうしてお奉行様のところへ連れて行かないの?」
「ただの噂でしかないからよ」
首を傾げる千代に、史美は得意げに人差し指を立てる。
「証拠がないの。新平さんね、自分の家で倒れていたらしいのだけれど、刃物で刺されたわけでもないし、首を絞められたわけでもないし、病気でもないみたいなの。どうして死んじゃったか、分からないのよ。それでね、その子が新平さんを恨んで毒を盛ったって噂になっているのよ」
「へぇ」
有り得なくもない話だ、と千代は思う。なぜなら、新平は女を騙して遊郭に放り込むような男だからだ。新平は旅芸人を名乗って各地を旅する。旅先で身寄りがなさそうな女を見つけると、一緒にならないか、と誘ってその地から連れ出し、遊郭に売ってしまう、というやり口を繰り返していた。いつか恨みを買って、殺されてもおかしくないとは思っていたのだ。
「へぇ、って千代ちゃん。貴方、怖くないの?」と史美は目を丸くする。
「どうして?」と千代も目を丸くした。
「どうして、って…人を殺したかもしれないのに、一緒にお仕事するかもしれないのよ?」
「別に…平気じゃないかしら。だって、私はその子から恨まれるようなことはしていないし」
「これから恨まれるかもしれないじゃない。だって、その子の面倒見るの、たぶん千代ちゃんよ?」
「え?」
そう言われて、順番的にも次に新人の面倒は見るのは、確かに自分かもしれない、と思った。
「まぁ……でも、きっと命を取られるようなことは、ないでしょう」
からからと笑う千代だが、史美は腕を組んで首を横に振る。
「千代ちゃん、そんなにのんびりしてちゃ駄目よ。私の予想だと、その子はとても危険よ。たぶん、嵐を呼ぶに違いないから」
「嵐かぁ…」
千代が生きる遊郭と言う世界では、確かに痴情のもつれから揉め事も多い。しかし、千代にとっては、この狭い世界で起こる日常でしかない。嵐と言うような大事は、きっと死ぬまで起こらないだろう、と彼女は思っていた。しかし、史美の予言は良く当たると有名だった。そして、今回も史美の予見は当たることになる。
噂の新人は、史美が言った通り、千代が面倒を見ることになった。女は詩葉と言うらしい。新平に裏切られて、遊郭という世界に放り込まれたのがこたえているのか、表情は暗かった。千代が明るく声をかけても反応は薄いし、食事も一切口を付けない。三日続けてそんな調子なので、千代はどうしたものかと悩んでいた。
「宗高様は、どう思いますかー?」
千代は常連の宗高に、困った新人のことを相談してみた。
「どう思う、と言われましても…」
宗高はそう言って腕を組み、考え込む。いくら待っても、低く唸るだけで、答えは出ない。
「良いんですよ、そんなに考えてもらわなくても」
千代が笑うと、宗高は苦笑いを浮かべ「すみません」と言うのだった。
宗高は体の大きい侍だ。それなのに気が小さく、優しいところがあり、そして口下手だった。初めて遊郭にやってきたのも、仲間に付き合ってやってきただけで、女とは縁がない。だからこそ、そのとき出会った千代のことを甚く気に入り、頻繁に通うようになった。
千代の方も、宗高は嫌いではなかった。嫌いではなかったが、少し窮屈にも感じている。自分のような人間が、宗高のような真面目な男に気に入られる理由は分からないし、できるだけ彼が望む自分でいよう、と思うのは、千代にとって酷く疲れるものでもあったのだ。
「とにかく、宗高様もその子が並んだときは、是非選んでやってくださいな」
詩葉に仕事を覚えさせたい、という気持ちと、宗高の期待が重たいという気持ちがあって、そんなことを言った。しかし、宗高は眉間に皺を寄せて首を横に振る。
「……いえ、私は千代さん以外に、興味はありませんので」
「あら、嬉しい」
半分は本音だ。だが、もう半分は、やはり窮屈と言う気持ちだった。
次の日、やはり食事を口にしない詩葉に、千代は流石に呆れてしまった。
「ねぇ、詩ちゃん。こんなところに突然放り込まれて、気落ちするのは分かるけど、食べないと死んでしまうのよ?」
「はい、分かっています…。分かっているのですが、どうしても口の中に入らなくて」
どうやら、本人もどうしようもできない状況らしい。無理にでも口の中に入れることもあるようだが、戻してしまうようだ。
「困ったねぇ」と千代は肩を落とした。
「すみません…」
詩葉はそれなりに今の自分を不甲斐ないと思っているらしく、頭を下げた。そんな詩葉を見ると、千代は何とか元気にしてやれないか、と考えてしまう。
「じゃあ…頑張って張見世に出て、お客さんを待ってみようか。いっぱい働けば、ご飯だって食べれるかもしれないよ」
「お客さん、ですか…」
抵抗があるらしい。つい最近まで、普通の娘をしていのだ。当然のことだろう。しかし、ここで生きる以上は、そうやって働いて、飯を食べるしかない。取り敢えず、張見世に出てみることにした。
格子の中に座り、覗き込んでくる男たちに愛想を振り撒いた。しかし、詩葉は顔を伏せて、男たちの興味を引くことができないらしい。それどころか、見る見るうちに顔色が悪くなっていった。張見世で腹の中のものを戻されたら、たまったものではない。仕方なく、裏に下がることにした。
「すみません…やっぱり、怖くて」と詩葉は言う。
「お客さんが?」
「はい。知らない人と…その、そういうことは、できません」
「そう? でも、詩ちゃん…新平さんとは、したんでしょ?」
「……してません」
怯えるような表情しか見せてこなかった女だが、このときばかりは目付きが鋭かった。疚しいことが、ないわけではないのだろう。いや、異様に自分の見栄えを気にする女かもしれない、と千代は思った。
「そう…新平さんって、手が早いらしいから、てっきり。ごめんなさいね」
千代は取り繕うように笑顔を見せる。詩葉は自分が見せてしまった敵意に気付いたのか、また俯いて顔を隠した。
「でもね、詩ちゃん。ここにいる以上、男の人に身を売らないと駄目なんだよ。そうしないと、食べさせてもらえないからね」
やる気がないのであれば、もっと酷い場所に売られる、という噂がある。とんでもない変態に売られ、そこで体中を弄り回された後、切り刻まれて川に捨てられるそうだ。実際、千代も赤く染まった川を見たことがあり、変態に使い潰された女の血だ、と耳にした。
「だからね、詩ちゃん。ここで、お仕事できなかったら、後が怖いのよ。私は、ここで頑張った方が、良いと思うよ」
「……あの、どうすれば良いですか?」
「え?」
「どうすれば、お客さんを取れるのでしょうか」
てっきり、それでも首を横に振って、拒絶をすると思ったので、その質問は意外であった。
「そうねぇ。詩ちゃんの場合は、まず苦手って気持ちをなくすことよねぇ」
千代はぼんやりと、昔の自分がどうしていたのか、ということを思い返した。
「そうだ、私もやっていたのだけれどね、自分じゃない、誰かになったつもりになれば、思ったより簡単にできてしまうこともあるのよ」
「違う、誰か?」
「そうそう。汚されたのは、自分じゃない、他の誰か、って思うのよ。私なんて、そう思うために、名前だって変えたのよ?」
「千代さんっていうのは…?」
「本当の名前じゃないの。大嫌いだった、姉の名前。あ、そうだ。詩ちゃんも名前を変えてごらんなさいよ。男に好きなようにされているのは、自分じゃなくて、嫌いなあの女なんだ、って思えば…少しは楽になるかもしれないよ」
「嫌いな…女」
「一人くらい、いるでしょう?」
顔を覗き込んでみると、詩葉は真剣に考えているようだった。
「……小夜」
「小夜?」
「小夜という名前に、します」
「あははははっ。良いと思うよ。小夜ねぇ。とても、嫌な女らしい名前じゃないの。ならね、今日から貴方は小夜ちゃんね」
「は、はい」
「駄目よ。今のは詩ちゃんの返事だったわ。ちゃんと、小夜ちゃんの返事をなさい。分かった?」
「は、はーい」
詩葉…いや、小夜は間延びした声で返事をした。
「上手よ、小夜ちゃん」
そう言って、千代が笑うと、少し遅れて小夜も笑い出した。もう、本当に別人のようだった。本当に、小夜と言う女に入れ替わったかのように。それだけ、この女は小夜と言う人物を意識してきたのだろう。哀れな女だったが、それだけ強い恨みや執着があったのなら恐ろしいことだ、と千代は思うのだった。




