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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
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2-1

「ねぇ、千代ちゃん。新しい子の話、聞いた?」


窓の外に広がる青空を眺めていた千代は、背後から声をかけられて振り向く。噂好きの史美だった。


「新しい子?」と千代は首を傾げる。


「そうよ。また新平さんが連れてきた子がいるよの」


「……そう」


新平は千代たちが働く遊郭では、有名な男だ。なぜなら、この遊郭の女たちの中でも、新平の誘いによって、遊女として働くようになった女は少なくないからだ。


「その子が、どうしたの?」


千代は興味があるわけではなかったが、史美が話したいようだったので、耳を傾けてやった。史美は「それがね」と言いながら、千代のすぐ横に座る。


「新平さんが死んでしまったって話、知っている?」


「え、本当?」


「そうなの、本当。それが、その新しい子がやったんじゃないか、って噂になっているの」


「噂? それなら、どうしてお奉行様のところへ連れて行かないの?」


「ただの噂でしかないからよ」


首を傾げる千代に、史美は得意げに人差し指を立てる。


「証拠がないの。新平さんね、自分の家で倒れていたらしいのだけれど、刃物で刺されたわけでもないし、首を絞められたわけでもないし、病気でもないみたいなの。どうして死んじゃったか、分からないのよ。それでね、その子が新平さんを恨んで毒を盛ったって噂になっているのよ」


「へぇ」


有り得なくもない話だ、と千代は思う。なぜなら、新平は女を騙して遊郭に放り込むような男だからだ。新平は旅芸人を名乗って各地を旅する。旅先で身寄りがなさそうな女を見つけると、一緒にならないか、と誘ってその地から連れ出し、遊郭に売ってしまう、というやり口を繰り返していた。いつか恨みを買って、殺されてもおかしくないとは思っていたのだ。


「へぇ、って千代ちゃん。貴方、怖くないの?」と史美は目を丸くする。


「どうして?」と千代も目を丸くした。


「どうして、って…人を殺したかもしれないのに、一緒にお仕事するかもしれないのよ?」


「別に…平気じゃないかしら。だって、私はその子から恨まれるようなことはしていないし」


「これから恨まれるかもしれないじゃない。だって、その子の面倒見るの、たぶん千代ちゃんよ?」


「え?」


そう言われて、順番的にも次に新人の面倒は見るのは、確かに自分かもしれない、と思った。


「まぁ……でも、きっと命を取られるようなことは、ないでしょう」


からからと笑う千代だが、史美は腕を組んで首を横に振る。


「千代ちゃん、そんなにのんびりしてちゃ駄目よ。私の予想だと、その子はとても危険よ。たぶん、嵐を呼ぶに違いないから」


「嵐かぁ…」


千代が生きる遊郭と言う世界では、確かに痴情のもつれから揉め事も多い。しかし、千代にとっては、この狭い世界で起こる日常でしかない。嵐と言うような大事は、きっと死ぬまで起こらないだろう、と彼女は思っていた。しかし、史美の予言は良く当たると有名だった。そして、今回も史美の予見は当たることになる。




噂の新人は、史美が言った通り、千代が面倒を見ることになった。女は詩葉と言うらしい。新平に裏切られて、遊郭という世界に放り込まれたのがこたえているのか、表情は暗かった。千代が明るく声をかけても反応は薄いし、食事も一切口を付けない。三日続けてそんな調子なので、千代はどうしたものかと悩んでいた。


「宗高様は、どう思いますかー?」


千代は常連の宗高に、困った新人のことを相談してみた。


「どう思う、と言われましても…」


宗高はそう言って腕を組み、考え込む。いくら待っても、低く唸るだけで、答えは出ない。


「良いんですよ、そんなに考えてもらわなくても」


千代が笑うと、宗高は苦笑いを浮かべ「すみません」と言うのだった。


宗高は体の大きい侍だ。それなのに気が小さく、優しいところがあり、そして口下手だった。初めて遊郭にやってきたのも、仲間に付き合ってやってきただけで、女とは縁がない。だからこそ、そのとき出会った千代のことを甚く気に入り、頻繁に通うようになった。


千代の方も、宗高は嫌いではなかった。嫌いではなかったが、少し窮屈にも感じている。自分のような人間が、宗高のような真面目な男に気に入られる理由は分からないし、できるだけ彼が望む自分でいよう、と思うのは、千代にとって酷く疲れるものでもあったのだ。


「とにかく、宗高様もその子が並んだときは、是非選んでやってくださいな」


詩葉に仕事を覚えさせたい、という気持ちと、宗高の期待が重たいという気持ちがあって、そんなことを言った。しかし、宗高は眉間に皺を寄せて首を横に振る。


「……いえ、私は千代さん以外に、興味はありませんので」


「あら、嬉しい」


半分は本音だ。だが、もう半分は、やはり窮屈と言う気持ちだった。



次の日、やはり食事を口にしない詩葉に、千代は流石に呆れてしまった。


「ねぇ、詩ちゃん。こんなところに突然放り込まれて、気落ちするのは分かるけど、食べないと死んでしまうのよ?」


「はい、分かっています…。分かっているのですが、どうしても口の中に入らなくて」


どうやら、本人もどうしようもできない状況らしい。無理にでも口の中に入れることもあるようだが、戻してしまうようだ。


「困ったねぇ」と千代は肩を落とした。


「すみません…」


詩葉はそれなりに今の自分を不甲斐ないと思っているらしく、頭を下げた。そんな詩葉を見ると、千代は何とか元気にしてやれないか、と考えてしまう。


「じゃあ…頑張って張見世に出て、お客さんを待ってみようか。いっぱい働けば、ご飯だって食べれるかもしれないよ」


「お客さん、ですか…」


抵抗があるらしい。つい最近まで、普通の娘をしていのだ。当然のことだろう。しかし、ここで生きる以上は、そうやって働いて、飯を食べるしかない。取り敢えず、張見世に出てみることにした。


格子の中に座り、覗き込んでくる男たちに愛想を振り撒いた。しかし、詩葉は顔を伏せて、男たちの興味を引くことができないらしい。それどころか、見る見るうちに顔色が悪くなっていった。張見世で腹の中のものを戻されたら、たまったものではない。仕方なく、裏に下がることにした。


「すみません…やっぱり、怖くて」と詩葉は言う。


「お客さんが?」


「はい。知らない人と…その、そういうことは、できません」


「そう? でも、詩ちゃん…新平さんとは、したんでしょ?」


「……してません」


怯えるような表情しか見せてこなかった女だが、このときばかりは目付きが鋭かった。疚しいことが、ないわけではないのだろう。いや、異様に自分の見栄えを気にする女かもしれない、と千代は思った。


「そう…新平さんって、手が早いらしいから、てっきり。ごめんなさいね」


千代は取り繕うように笑顔を見せる。詩葉は自分が見せてしまった敵意に気付いたのか、また俯いて顔を隠した。


「でもね、詩ちゃん。ここにいる以上、男の人に身を売らないと駄目なんだよ。そうしないと、食べさせてもらえないからね」


やる気がないのであれば、もっと酷い場所に売られる、という噂がある。とんでもない変態に売られ、そこで体中を弄り回された後、切り刻まれて川に捨てられるそうだ。実際、千代も赤く染まった川を見たことがあり、変態に使い潰された女の血だ、と耳にした。


「だからね、詩ちゃん。ここで、お仕事できなかったら、後が怖いのよ。私は、ここで頑張った方が、良いと思うよ」


「……あの、どうすれば良いですか?」


「え?」


「どうすれば、お客さんを取れるのでしょうか」


てっきり、それでも首を横に振って、拒絶をすると思ったので、その質問は意外であった。


「そうねぇ。詩ちゃんの場合は、まず苦手って気持ちをなくすことよねぇ」


千代はぼんやりと、昔の自分がどうしていたのか、ということを思い返した。


「そうだ、私もやっていたのだけれどね、自分じゃない、誰かになったつもりになれば、思ったより簡単にできてしまうこともあるのよ」


「違う、誰か?」


「そうそう。汚されたのは、自分じゃない、他の誰か、って思うのよ。私なんて、そう思うために、名前だって変えたのよ?」


「千代さんっていうのは…?」


「本当の名前じゃないの。大嫌いだった、姉の名前。あ、そうだ。詩ちゃんも名前を変えてごらんなさいよ。男に好きなようにされているのは、自分じゃなくて、嫌いなあの女なんだ、って思えば…少しは楽になるかもしれないよ」


「嫌いな…女」


「一人くらい、いるでしょう?」


顔を覗き込んでみると、詩葉は真剣に考えているようだった。


「……小夜」


「小夜?」


「小夜という名前に、します」


「あははははっ。良いと思うよ。小夜ねぇ。とても、嫌な女らしい名前じゃないの。ならね、今日から貴方は小夜ちゃんね」


「は、はい」


「駄目よ。今のは詩ちゃんの返事だったわ。ちゃんと、小夜ちゃんの返事をなさい。分かった?」


「は、はーい」


詩葉…いや、小夜は間延びした声で返事をした。


「上手よ、小夜ちゃん」


そう言って、千代が笑うと、少し遅れて小夜も笑い出した。もう、本当に別人のようだった。本当に、小夜と言う女に入れ替わったかのように。それだけ、この女は小夜と言う人物を意識してきたのだろう。哀れな女だったが、それだけ強い恨みや執着があったのなら恐ろしいことだ、と千代は思うのだった。

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