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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第一章 白川誠
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僕が通う大学は、山の上に立地しているため、毎朝のようにとんでもない坂道を登る必要があった。中にはこの坂道を登ることが苦痛で辞めてしまう学生いるほど、急なのである。しかし、僕は運動部に所属こそしていなかったが、人一倍体力があると自負していた。なので、その坂道に対し苦手意識を持つことはなかった。


そのはずが、今日という日はその坂道を登ることが、異常にきつく感じていた。明らかに体力の低下を感じる。一歩進むだけで、とんでもない疲労を感じるこの状態では、昨日の夜、小夜が語ったことは本当かもしれない、と思わずにいられなかった。


今日は月曜日なので、ちゃんと大学に行くことにした。小夜は特に用事はないらしく、家で大人しくしているらしい。


今まで彼女は、どのように生活していたのだろうか。きっと、僕のように食料にされていた男性がいたのは確かなのだろうけど、その人間はどうなってしまったのだろうか。そして、小夜とはどんな関係だったのだろう。捕食者と被食者という関係以上の感情は、あったのだろうか。そんなことを考えながら、きつい坂道を一歩一歩登って行った。


何とか最初の授業には間に合ったものの、僕はまともに意識を保ってられず、居眠りをしてしまった。ノートもまともに取れず、これだったら家でしっかり休んだ方が、まだマシだったかもしれない、と思ったほどである。


しかし、僕の目的は授業に出ることだけではなかった。それは図書館で悪魔について調べることだ。大学は広くて、最初の授業があった教室から、図書館まで移動するだけでも、異常な疲労を感じた。


それもそのはず、小夜が言うには「たぶん、普通の人なら死んでいる量はもらったよ。あははっ」とのことらしいからだ。まず、笑い事ではない、ということを強く指摘したいところではあったが、なぜか僕は普通の人よりも体力があるらく、生きていたのは不幸中の幸いだった。


僕は図書館に入るとオカルト系の書架の前で、どうしたものかと頭を捻る。何冊か手に取ってみたが、悪魔にも色々あるらしく、本の種類も多いため、どれが適切なのか、一向に決められない。途方に暮れ、諦めて一休みしようと考え始めた頃、背後から突然、声をかけられた。


「白川くん?」


肩を震わせるほど驚いたが、次の瞬間には、その声の主が何者であるかを理解し、僕は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになる。


「詩葉さん」


肩にかかる黒髪に黒い瞳。スカートも短すぎず長すぎない。控え目であるにも関わらず、人を惹きつける魅力がある彼女こそ、僕の想い人である詩葉さんであった。


「何しているの、こんな怪しい書架の前で」


「あ、えっと…」


確かにこの辺りに並ぶ本は、あまり人が寄り付かないジャンルばかりである。こんなところにいては、詩葉さんが不審に思うのも仕方がない。


それよりも、僕は彼女に避けられていたため、気まずさがある、というのが大きかった。だが、僕は平然を装うことにする。なぜなら、彼女にとっては気に留めるほどもない、些細なことでしかなかったのだから。


「えーっとですね、民俗学の授業で悪魔に関するレポートを作成することになってですね…」


気まずさに加え、咄嗟にウソを吐いてしまったことを後悔する。そんな僕に対して、詩葉さんは優しく微笑んで、こんなことを言うのだった。


「へぇー、一緒に探してあげるよ。どんな資料が必要なの?」


とても、自然だった。まるで、先日はあれだけ避けていたことを、忘れてしまっているかのようだ。


「えっ…。そ、そうですね。できるだけ、幅広く色々な種類の悪魔に関する解説が書いてあるようなものですかね」


「うーん、なるほどね。だとしたら…」


詩葉さんは視線を書架の左上から右下へと移動させたようだった。


「これとこれ、それからこれ。あと、こっちは少しマイナーなやつを取り上げているやつだから、この辺の本には載ってない悪魔の解説もあるかも。困ったら、意外に役立つ系だよ」


「あ、え? ああ、ありがとうございます」


どうして、詩葉さんがそんな本の種類を色々と知っているのか、という疑問は生まれたが、嬉しそうに本を選んでくれる彼女を見ると、そんなことはどうでも良かった。


「もしかして、これからレポートの作成?」


「はい、そうです。悪魔について、さらっと書いちゃおうかな、って」


ウソにウソを重ねる僕に詩葉さんは、また笑顔を見せてくれた。


「じゃあさ、邪魔しないから隣にいて良いかな? 私、一時間後に授業あるのだけれど、それまで暇で」


「もちろん、喜んで」


「やったー」


図書館なので声を抑えて控え目に喜んでいる詩葉さんは、とても可愛らしかった。隣に座った詩葉さんを見ていると、そのまま見惚れてしまいそうになる。詩葉さんは手を伸ばせば、十分に届く距離にいるが、決して触れてはいけない相手なのだ、と改めて思わされた。


そんな風に落ち込みながらも、僕は自分が吐いたウソのせいで、作らなくても良い悪魔に関するレポートを作ることになった。だが、詩葉さんが選んでくれた書物は優秀で、すぐに小夜と同一と思われる悪魔の情報を得ることができた。


サキュバス、という悪魔がいるらしい。サキュバスは女の悪魔で、人間の精を吸うことで生きながらえるそうだ。伝説によると、男性が眠るベッドに潜り込み、誘惑して性行為に及び、精を吸い尽くすらしい。精を吸い取られた人間は、次の日の朝、骨と皮だけの死体となって発見されるほど、恐ろしい悪魔のようだ。あの小夜がこんな恐ろしい存在だとは思えないが、彼女の言うことを信じるのであれば、確かにこれが一番近いのではないか。


「進んでいる?」


「わっ」


急に詩葉さんに声をかけられ、必要以上に大きな声を出してしまった。詩葉さんは僕が熱心に見ているページが気になったらしく、開いた本を覗き込んできた。


「サキュバスって、あの有名なやつ?」


「え、あいつそんな有名なんですか?」


「あいつ?」


「あ、いや…こいつ、の間違いです」


「うーん。それなりに有名だと思うよ。そっち系のフィクションを読み漁れば、絶対に一回は目にするかな」


詩葉さんの言う「そっち系」がどっちを指すのかは知らないが、小夜は僕が思った以上に、ちゃんとした悪魔で、しかも有名人だったらしい。


「サキュバスについて書くの?」


「うーん……そういうつもりではなかったんですけど、せっかく詩葉さんが目に止めてくれたものなので、書いてみます」


「えー、この悪魔、ちょっとエッチなやつだから、そんなこと言われてもなぁ」


「あ、そうなんですか。はははっ」と僕は誤魔化す。


それなのに詩葉さんは「ちょっと待っててね」と、数分だけ席を外した。すぐに戻ってきた彼女は手に数冊の本を持っている。


「サキュバスだったら、この辺が詳しいと思うよ」と僕の横に本を積んでくれた。


「あ、ありがとうございます」


そんな経緯もあり、僕は小夜がカテゴライズされているだろう悪魔、サキュバスについて、それなりの知識を得ることができた。


サキュバスは男性から精を吸って生きるのだが、その方法は主に三種類ある。


一つは肌と肌の密着。次に口付けによる食事。そして、最後は性行為らしい。行為によって吸い取られる精の量は異なり、軽いものもあれば重いものもあるようだ。しかし、どれにしても、サキュバスがベッドに潜り込んできた時点で、人間は高確率で死ぬらしい。ちょっと具合が悪いだけの僕は、いったいどれだけ精力を持て余していたと言うのだ。でも、人間に負担をかけないように、彼女と行為に及べば、満足させられるかもしれない。


いや、そんなことをして良いわけがない。僕は本当に好きな人としか、そういう行為はしないのだ。そう、例えば詩葉さん…いや、変な妄想はするべきではない。詩葉さんに失礼ではないか。


これだけの情報と、小夜の言動や行為を照らし合わせれば、彼女がサキュバスという悪魔であることは、疑う余地がない、とまでは言わないにしても、彼女が悪魔である、ということは事実かもしれない、と考えられる。


もし、悪魔について課題を出した先生がいたのなら、レポートとしてちゃんと提出できるクオリティの文章を僕は書き終え、ペンを置いた。隣の詩葉さんへ目をやると、彼女はまだ読書中だった。真剣な面持ちは凛としていて本当に綺麗だ。声をかけるつもりが、それを忘れてしまうほどに、僕は彼女の横顔に見惚れていた。


すると、僕の視線に気付いたらしく、詩葉さんがこちらを向いてくれた。


「あ、完成した?」


どうやら僕の視線のやましい部分は伝わっていなかったらしく、詩葉さんは文庫本の読み進めた箇所に指を挟みながら「どれどれ」と僕の作った文章を読み始めた。この人は読書が好きで、主に小説を読むわけだが、別に物語という形ではなくとも、文章であれば何でも好きらしい。


「へぇー、よくまとまっているね。まるで友達に悪魔でもいるみたい」


「そ、そうですか」


だとしたら、友達ではないが、もしかしたら最近できた同居人のおかげなのだろう。


「それにしても、悪魔かー。本当にいたら楽しいかもしれないね」


詩葉さんは意外にも、というか彼女らしい寛容な心で、悪魔についても好奇心を抱いたらしかった。


「そうですかね。詩葉さんはこういう話も得意ですか?」


「こういう話って?」


「うーん。厳密には違うのかもしれないですけど、幽霊とか妖怪とか…不思議な現象系、ですかね」


彼女は人差し指を顎元に持っていくと、考えるような仕草を見せる。


「そうだね、割と好きかも」


「そうなんですね。初めて聞いた。何か今まで一番不思議な体験とかあるんですか?」


僕としては、何となく話の流れでそんなことを聞いたつもりだった。しかし、その質問が詩葉さんから表情を奪った。いつも笑顔で表情豊かな彼女が、そんな顔をするのは本当に珍しいことだった。


「詩葉さん?」


「あ、うん。ごめん」


彼女は自分から表情が消えたことを認識したのか、なぜか謝罪をした。


「そうだね、一つだけ、不思議な体験したことあるよ。小さい頃ね」


詩葉さんは笑顔を浮かべながらも、それはどこか虚ろで、目は遠くを見つめているようだった。


「それは、どんな…?」


聞くべきではなかったかもしれない。でも、彼女の影の部分に触れた気がして、聞かずにはいられなかった。今度ね、とはぐらかすかと思ったら、意外にもその唯一の不思議な体験とやらを語ってくれた。




それは、詩葉さんが幼い頃の話で、どれだけ前のことかは覚えていないらしい。

詩葉さんが夜眠っていると、廊下で何者かが歩く気配がした。詩葉さんの母親はその日、用事で家を出ていて、父親は仕事で帰りが遅かったそうだ。そのため、詩葉さんは幼いながら、一人で眠りにつき、夜中に両親のどちからが帰ったのだ、と思った。


「お父さん?」と呼びかけみるが、返事はない。


彼女はそれでも父親が帰ったのだ、と信じて、ベッドを降りて様子を伺うことにした。ドアを開けて、廊下を見ると、黒い影が動いていた。


どうして、電気を付けていないのだろう、そんな疑問はあったが、父親は具合が悪いのかもしれない、と思ってその後を追った。


すると、暗闇は振り返り、詩葉さんの方へと向かってきた。父親ではない。それに気付いて、詩葉さんな驚きながら、自分の部屋に戻って扉を閉ざし、その影が部屋に入ってこないことを祈った。しかし、影はドアを使わず、詩葉さんの部屋に入ってきたのだ。


「詩葉」と影は呼びかけてきた。


彼女は影の存在に恐怖を感じながらも、会話をした。それが、どんな会話だったのかは、詩葉さんはもう覚えていないらしい。しかし、確かに会話をして、気付いたら自分の部屋で眠りについていた。


起きて母親に聞いても、夢でも見ていたのだ、と言われるだけに終わったが、詩葉さんにしてみると、とても奇妙な体験で忘れられないそうだ。




「だから、そんなことは本当になくて、私の夢だったのかもしれないけど……あれだけ、はっきりとした記憶があるのに、不思議だなぁ、って今でも思うわけなの」


「確かに、不思議な話ですね」


「信じるの?」


「はい。もちろん」


僕の言葉に、詩葉さんは小さく失笑した。


「白川くんって、何か素直で良いよね」


「そ、そうですか?」


「そうだよ。私が高校を卒業するときのこと、忘れたの?」


「え、ああ……」と僕は鼻先を指でかく。


「本当に、素直で…羨ましいよ、白川くんは」


遠い目で微笑む詩葉さんだったが、時間が気になったらしく時計を確認した。


「あ、そろそろ時間だ」と詩葉さんは文庫本をしまって立ち上がる。


「授業、行くんですか?」


「そうなんだけど、ちょっとコンビニ寄りたいから付き合ってもらえる?」


「はい。もちろん」


僕と詩葉さんは二人で図書館を出て、大学内にあるコンビニに寄った。そこで詩葉さんがなぜか栄養ドリンクとスポーツドリンクを購入したので、夜更かしでもしたのだろうか、と心の中で首を傾げた。しかし、コンビニを出ると詩葉さんは手に下げた袋を僕に差し出すのだった。


「あげる。これ飲んで、午後を乗り切ると良いよ」


「え?」


手渡されたのは、さっき詩葉さんが買っていた栄養ドリンクやスポーツドリンクだった。


「だって白川くん、サキュバスに精気を吸われたみたいに、疲れた顔しているよ」


買い物は、僕のためだったのだ。


「え、僕…顔に出てました?」


彼女は「ふふふっ」と犯人を追い詰めた探偵役のように笑う。


「白川くんとは付き合い長いからねー。私は君のちょっとした変化も見逃さないのだよ」


お金を払いますとか、お返しに何か買いますだとか、そういった言葉を詩葉さんはスマートに躱し、次の授業へと立ち去ってしまった。ただ、視界から消えてしまう手前で彼女は振り返ると、僕に小さく手を振ってくれた。僕は犬が尻尾を振るように手を振り返し、誰にともなく呟いた。


「本当、悪魔に精気を吸われたんだよなぁ」


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