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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第四章 小夜
39/61

1-3

それから、一月ほど喜一と詩葉の生活は続いた。二人はそれなりに親しんだ関係になり、周りもそう感じるのか、村の人間からは「いつ夫婦になったんだ?」と聞かれることも増える。


喜一は生まれてから、これ以上に楽しい日々はないと思うようになっていた。ただ、時折ある夜更かしのせいか、喜一は疲労で倒れることも珍しくなかった。しかし、詩葉と生活する楽しさに比べれば、そんなことは大したことはない。喜一はそう思っていた。


ある日、仕事へ向かう途中、また例の旅芸人らしき男とすれ違った。頻繁にすれ違うが、この村にどんな用事があるのだろうか、と考えたが、少し歩けば、そのことはすぐに忘れてしまった。帰ったら、また詩葉が飯を用意して待ってくれている。そう思うと仕事も苦ではない。ずっとこんな日が続いて、本当に詩葉とは夫婦になるのかもしれない。そんな呑気なことを考えていた。


仕事場では珍しいことがあった。叔父がいなかった。仲間に聞いても「用事があるらしいよ」とか「あれ、いなかったか?」という曖昧な返事があるばかりで、誰も不在の理由を知らないらしかった。ただ、叔父がいなくても仕事は進められる。喜一は精を出して働いた。


仕事を終えて、家へと帰る。やはり、既に詩葉が食事の支度をして待っていた。


「お帰りなさい」


そう言われるのは、悪くない。二人で食事を取っていると、詩葉の表情が暗いことに気付いた。まるで、出会ったばかりのころのようだ。


「何かあったか?」


「……いいえ」


本人は否定するが、時折何かを考えるように俯くのは明らかであった。詩葉の態度は喜一を不安にさせた。どこか、心が自分から離れてしまったような気がして、体を求めることで、それを確かめようとする。しかし…いや、やはりと言うべきか、詩葉は喜一を拒絶するのだった。


「どうした? 何か気に障ることでも、したか?」


「……違います。ただ、今日はそんな気持ちには、なれなくて」


「もしかして、故郷が恋しくなったか?」


「それは…分かりません」


「……そうか」


喜一はそっとしておいてやろう、と思った。詩葉の素性は未だに分からぬままだが、この国のどこかに故郷があって、家があって、家族がいるに違いない。それを懐かしみ、寂しく思うのは仕方のないことだ、と。喜一はそうやって自分を納得させてしまうと、すぐに眠りについた。


次の日も、喜一は仕事で朝早くに家を出た。叔父はしっかりと仕事に出ていたし、どうも上機嫌のようだった。もしかしたら、金の工面も目処がついたのかもしれない。だとしたら、更科屋との縁談の話は、なかったことになるだろうか。喜一は安心すると、いつも以上、仕事に集中できた。




しかし、帰ると詩葉の姿がなかった。家の周りや、村を回って、詩葉の姿を探すが、やはり見当たりはしない。喜一は家に詩葉が戻っていないことを確認すると、隣の婆さんを訪ねた。


「婆さん、詩葉…うちの女を知らないか?」


「……知っているよ」


婆さんはそう言うと、背を向けてしまったが、喜一は安心して胸を撫で下ろした。


「なんだ、婆さんに行先を伝えてあったのか。心配しちまった」


「私は、あの娘の行先は知らない。でも、ここに戻らないことは知っている」と婆さんは喜一に背中を向けたまま言う。


「……戻らないって、どういうことだ?」


「あんたの女は、旅に出たよ。あの様子では、ここには戻らないよ」


「あの様子って…?」


喜一は詩葉の不在が、どんな意味を持つのか、やっと理解して不安を覚えた。


「喜一さん…あんたは昼間、仕事に行ってたから知らないけどね、あの女は旅芸人と仲良くしてたんだよ。男前だったからね。そういう女だったんだよ」


「嘘だ」


「信じなくても良いよ。たぶん、前から男に口説かれていたんだろう。あんたが帰る少し前、荷物をまとめて一緒に村を出て行ったよ。嬉しそうに笑ってね。女の嫌なところを見た気分だったよ」


喜一は踵を返すと、婆さんの家を出ようとした。


「どうするつもりだい?」と婆さんは引き留める。


「追う」と喜一は言った。


「やめておきなよ。もう一つ、あんたの知らないことがある」


喜一は聞きたくはなかった。きっと、自分にとって気分の悪い事実でしかない、と分かっていたからだ。しかし、聞かないわけにもいかない。事実を知らされずにいるのは、もっと嫌だった。


「昨日ね、あんたの叔父がきた。あの女に会いに来たんだ」


「なんだって?」


「金を渡したんだよ。あんたと別れろって言ってね。女はそれを受け取った。たぶん、あの旅芸人との旅費にでもするんだろうね」


「……婆さん、何であんたがそこまで知っているんだ?」


「……私も、あんたの親父さんに面倒を見てもらった身だ。仕事を頼まれたら断りはしないよ」


そういうことか、と喜一は心の中で呟く。面倒を見てくれる婆さんだ、とは思っていたが、ただの親切心ではなかったのだ。それは仕事でしかなかったし、監視の役目もあったのだ。


喜一は今度こそ婆さんの家を出て、走り出す。婆さんの話しが本当なら、二人は村を出てから、まだそれほど時間は経っていないはず。走れば、追いつくかもしれない。


喜一はとにかく走った。詩葉が現れてから、たった一ヵ月でしかなかったが、喜一にとってそれは、初めて手放したくないと思えるような、かけがえのないものだった。


夕日が沈む。それを止めることはできないし、道はすぐ見失われてしまった。もう追いかけることはできない。また、あの時間を一緒に過ごすこともないのだ。


喜一は酷く汗をかいていることに気付いた。体が異様に熱い。必死に走ったからに違いない、と喜一は思うだけで、それよりも詩葉が去ってしまったことへの失意で、もう何も考えられなくなってしまった。一人家に戻って考える。すべて叔父の策略通りだったのだろうか。もしかしたら、旅芸人も叔父の差し金かも知れない。だとしたら、叔父を問いただせば、詩葉の行方を知れるのかもしれない。喜一は明日、早速それを実行しようと考えた。


しかし、それは不可能だった。喜一は次の日の朝、今まで経験したことのない高熱にうなされることになる、隣の婆さんがそれに気付き、医者を呼んだが、原因は分からなかった。精が付くものを食べても、よく休んでも、喜一の熱は下がることはない。


喜一は朦朧とする意識の中、詩葉の姿を思い描いていた。詩葉を拾ったあの日に、もう一度戻ることはできないか、と。喜一の熱は、そんな想いすら燃やしてしまう。


どうして行ってしまったんだ。なぜ俺では駄目だったのだ。喜一はうわ言のように、そんな言葉を口にし続け、死んでしまった。そして、喜一を失った喜鉄組もまた、すぐに解散することになる。

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