1-1
喜一がその女を拾ったのは、偶然だった。
離れた村で、叔父の仕事を手伝った、その帰りのことである。珍しい恰好の女が一人、倒れていた。怪我をしているのか、その服は部分的に赤く染まっている。奇妙に思いながら喜一は声をかけた。
「おい、おい」
返事はない。どこからか逃げる途中、怪我をして命を落としたようだ。決して豊かとは言えない世の中である。行き倒れも珍しくはない。
喜一はその女の傍らに屈み、手を合わせた。どうか、あの世では不安も恐怖も、ありませんように。目を閉じて祈ろうとしたそのときだった。
「た、たすけ、て」
女が息を吹き返した。
「大丈夫か? 傷を見るぞ」
喜一が女の傷を確認すると、既に癒えていた。この血の量を考えると、とても無事ではいられないはずだが、命が助かったことを疑っていても仕方がない。喜一は竹筒を取り出すと、女の口元に添えた。
「水だ。飲むと良い」
女は相当渇いていたらしく、水を飲み干してしまった。女が目を開き、喜一の顔をまじまじと見る。酷く混乱しているのか、目が左へ右へと泳いだ。
「何があった?」
返事はない。やはり怯えて、何も言葉が出てこないようだ。
「訳ありか。取り敢えず、匿ってやる。立てるか?」
女から返事はない。仕方く肩を貸して立たせる。足取りは思ったよりしっかりとして、歩けないことはないらしかった。
「すぐ近くだ。畳の上で休んだ方が楽だろう?」
暫く歩いてから、女は少しずつ意識がはっきりし出したらしい。辺りを不安げに見回し始める。どこにでもある景色だが、女は物珍しそうに視線を漂わせた。
「あの…ここ、東京では、ないのですか?」と女は言った。
「トウキョウ? どこだって?」
喜一は聞き覚えのない言葉に、首を傾げる。西の方だろうか。もしくは、異国かもしれない。
「着いたぞ」
家に入ってから、畳に女を座らせる。女は履き物も足袋ではなく、珍しいものだ。
「ここは……?」と、やはり女は困惑している。
「俺の家だ。あまり広くはないが、少しは休めるだろう」
喜一の家は、どこにでもある一般的な長屋の一部屋でしかないが、やはり女は物珍しそうに辺りを見回す。一通り部屋の様子を見ると、女はどこか怯えたように身を固くして、喜一の方を見た。
「ちょんまげ…?」と喜一の頭頂部を見て呟く。
「なんだ、髷なんて珍しくないだろう。俺に言わせると、お前の身なりの方が珍しいがな。やっぱり、異国から来たのか?」
喜一の疑問に、女は自らの姿を見て、納得いかない様子で顔を上げた。
「あの、もしかして…劇団か何かの人ですか?」
「劇団? 何のことをだ?」
「だって、江戸時代みたいな服……」
やはり混乱しているらしい。あそこで倒れるまでに、どれだけ酷い目にあったのだろうか。
「江戸時代? なんだ、あんたは江戸から来たのか?」
「あの…いいえ」
「変な女だ」と喜一は笑う。
どうも話がかみ合わない。根底的な何かが、二人の間で食い違っているのは、明らかだった。
「俺の名前は喜一と言う」
取り敢えず、名乗ってみることにした。
「きいち、さん?」
「そう、俺の名前だ。お前は?」
「う、詩葉です」
「うたは? 珍しい名前だ。やっぱり、異国のものか? 髪の色も、珍しいな」
詩葉は喜一の指摘を受けて、自らの頭に触れた。しかし、その黄金色の髪が珍しいと言うことに、自覚はないらしく、首を傾げる。
「わ、分からない。ここは、どこなの? どうして、私はこんなところに…駅に、いたはずなのに」
「落ち着け。取り敢えず休んでから、ゆっくり考えると良い」
混乱する女を宥める。喜一には、この女が何か厄介事に巻き込まれて、一時的に気がおかしくなっているように見えた。だから、少しの間、休んで食べて落ち着けば、きっと気がしっかりとしてくるはずだ、という程度に考えた。それまで面倒を見てやろう、と彼のちょっとした善意はそう思ったのだ。
しかし、喜一は知らない。この女が厄災と言えるような存在であることを。そして、喜一の身を…いや、これから何人もの男の身を滅ぼしてしまうことも。
二、三日も経過すると、詩葉という女は落ち着き始めた。しかし、なぜ倒れていたのか、どこからやってきのか、という点については、一切語ろうとしなかった。その日も、外に出て、ただぼんやりとしているだけ。どこへ行くという様子もなく、ただ途方に暮れているらしかった。
「詩葉。少しは体調が良くなったか?」と喜一は声をかけてみた。
詩葉は首を横に振った。喜一が用意した着物も、良く似合っている。
「迷惑をかけてばかりで、すみません」
「病人が気を使うんじゃない」
喜一の言葉に、詩葉は申し訳なさそうに笑顔を見せた。
詩葉は喜一に拾われてから、一度も食事を口にできていなかった。何度も口にしようとするが、何度も戻してしまい、ずっとまともに食べられず、日に日に疲弊しているように見える。
「何かの病気かも知れないな。明日、医者を呼んでみようか」
「大丈夫、です」
詩葉は他人に会うことを恐れているみたいだった。医者に見せたいところだが、本人が拒否し続けるし、何か訳があるかもしれない、と思うと強要はできない。
「飯さえ口に入ればな…。もう少し、病人でも食べやすいものがないか、隣の婆さんに聞いてみよう」
「すみません、私のせいで…」
詩葉は胸元に触れた。首に何か下げているらしく、着物の下に僅かな膨らみがあり、それを触っているらしい。
「だから病人が気を使うな。でもな、明日も明後日も食べれないようなら、俺は医者を呼ぶからな。いくら事情があったとしても、このままでは死んじまう」
「……分かりました」
詩葉は不思議な女だった。もう立派な女であるにも関わらず、常識知らずなところが多かった。子供も知っているような道具の使い方や、言葉にも首を傾げる。頭の色以外は、異国の人間とは思えないが、やはり物を知らな過ぎるところがある。
さらに、夜もあまり眠っていないようだった。体調も悪ければ、腹も減っている。それで寝付けないのかもしれないが、ある日の夜、詩葉が喜一の寝顔をずっと見つめていることに気付いた。
それには驚いたが、声を出してしまったら、逆に詩葉を驚かせてしまう気がして、喜一は黙っていた。詩葉は長い間、喜一を見つめていたが、やがて何かを諦めるように目を閉じたようだ。喜一は訳が分からなかったが、取り敢えず眠り、次の日もそれについて問いただすことはなかった。
「喜一さん、良い人でも、できたかい?」
翌日、そう聞いてきたのは、隣に住む婆さんである。婆さんは身寄りがいないのか、喜一がここに住み始めたときから一人だった。そのせいか、何かと喜一を気にかけてくれる。飯の作り方や掃除なんかも、色々と指南してくれるので、喜一も頼りにしていた。
「そんなんじゃないよ」
喜一は否定したものの、照れ臭くて仕方なかった。喜一は大工の見習いだが、歳もそれなりである。そろそろ嫁を迎えてもおかしくないが、なかなか思うような縁がなかった。だから、いくら詩葉の素性が知れないとは言え、少しは女として見てしまうことは、否定できない。
「どこで生まれた女なんだい? 変な髪の色だけど、異国の人じゃないだろね?」
「わからん。でも、言葉は分かるみたいだし、目の色も黒い。異国のやつらは青いんだろう?」
「そうとも限らないらしいよ。私も良く知らないけどね。素性が分からないとなると、少し心配だねぇ」
「婆さん、そんなことはどうでも良いんだよ。あいつは、困っているみたいなんだ。俺が助けてやるってだけだ」
「そうかい」
婆さんには偉そうなことを言ったが、どれだけ喜一が献身的に詩葉の看病をしても、良くなる様子はなかった。
詩葉が住み着いてから、五日目の夜。詩葉はついに顔を青くしていた。
「大丈夫か?」
「眩暈がします。お腹は空いているのに…」
食事を前にするが、やはり食べられないらしい。明日は医者に行こうと約束をし、その夜は眠ることにした。だが、やはり詩葉は眠った様子がない。医者に見せるとしたら、隣の村まで行く必要がある。弱った詩葉を連れて行けるだろうか。喜一はそんな心配をしているうちに、少しずつ瞼が重くなり、意識が薄れて行った。
喜一は一度眠りについたが、何かの気配で目が覚めた。長く一人で住んでいたため、自分以外の気配が部屋にあると、違和感を覚えるらしい。そうだ、詩葉がいたのだ、と思い当たるが、その詩葉の気配が妙だった。こちらをじっと見つめている。確か、昨日の夜も、詩葉は眠る喜一を見つめていた。何か思うところがあるのだろうか、と喜一は気付かないふりをする。
昨日と同じように、何も起こらず、きっと眠りにつくだろうと思ったが、そうではなかった。詩葉が身を起こすと、こちらに寄ってきた。気配が少しずつこちらに。頬に冷たい感触があった。詩葉が喜一の頬に触れたのであった。
次の瞬間、首筋で冷たく湿り気のある何かが、這うように動いた。流石に驚き、眠るふりはできなかった。目を開けると、瞳を潤ませた詩葉がすぐ傍にいた。どうやら、喜一の首筋を舌で舐めたらしい。その行為だけでも驚くべきことだったが、さらに驚くことがあった。詩葉の瞳は、赤く染まり、輝いていた。
「喜一さん…ごめんなさい」
「お、お前…その目は、どうした?」
詩葉は喜一が放った言葉の意味が分からないのか、困惑した様子で瞼の辺りを指先でなぞった。
「私、どうかしているみたいです。お願いです、少しだけ…我慢してください」
詩葉は目のことなど、どうでも良いのか、喜一の方へと身を寄せてきた。喜一は咄嗟なことに、ただ詩葉の体を受け止めるしかなかった。
「だ、大丈夫か?」
これだけ女に密着するのは、初めてだった。困惑しながらも、緊張しながら、詩葉を気遣う。
「すみません。私、変なんです。でも、こうすれば…体が治る気がして。だから、少しだけ我慢してもらえませんか?」
「……お前の体が治るって言うなら、俺は何でもするさ」
詩葉が何をしたいのか、すべてを理解しているわけではない。しかし、男女の間だけに生まれる行為…それに近い何かを求められていることは分かった。そういった行為は、大切な女と…夫婦となる相手と及ぶべきだと、堅い考えを持つ喜一だったが、知らない相手であっても、この女のためであれば仕方がない、と思ってしまった。
すると、詩葉はか弱い力で喜一の胸の辺りを押した。抵抗力が殆どない喜一は、背中から床に倒れると、赤い目をした詩葉が見下ろしている。まるで、物の怪のようだ。喰われてしまうのではないか、と思ったが、それでも、抵抗しようとは思えなかった。詩葉の香りが鼻孔をくすぐる。今まで嗅いだことのない、良い香りだ。
喜一は、詩葉に食べられたのだった。しかし、それが詩葉にとっての食事であることを、喜一はもちろん、詩葉もこの時点では理解できていなかった。




