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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第三章 楠木詩葉
36/61

8

詩葉は次の電車を待っていた。これから、東京駅に向かい、新幹線に乗って、新しく住むであろう街を見に行くつもりだった。早ければ、今月中に東京を離れることができる。そしたら、どんな生活になるだろうか、と考えた。


しかし、どうしても小夜からの電話が、忘れられなかった。新しい自分に変わるつもりだったのに、結局は拓也のことを考えている。最初から拓也が自分のことだけを愛していれば、こんなことにはならなかったのに。こんなにも悩んで、苦しむことはなかったのに。


気持ちを落ち着かせようと、自然と胸元のネックレスに触れた。どうして、ただ愛されるということが、こんなにも難しいのだろうか。愛情とは、これだけ得難いものなのだろうか。そんなはずはない、と視線を漂わせると、目に映る男女の二人組は複数いた。また、駅のホームから見える街並みには、桜と一緒に、たくさんの家があった。この家々の殆どは、二人の男女がこの地に住もうと決めて建てられたはずだ。つまり、この家の数だけ、納得した形で愛情を得た人間がいる、ということなのだ。これだけ多くの家があるのだから、それは珍しいことではないはず。それなのに、どうして自分は納得できるだけの愛情が得られないのだろう。


詩葉の心には、大きな穴が空いていた。その穴が愛情を欲している。埋められるのは、拓也だけだと思っていたのに、彼を思えば思うほど、その穴は広がるばかりだ。誰かこの穴を埋めてくれはしないだろうか。かつては、その穴が塞がるまで、愛情が供給された過去があったような気がした。それは、何だったのか…思い出せそうで、思い出せない。


ホームに電車の通過を知らせるアナウンスが響く。いっそのこと、電車の前に飛び出してしまえば、楽になれるかもしれない。そんなことまで考えた。心にこんな穴を抱えて、飢えたように生きるくらいなら、死んでしまいたい。




そのとき、どこからか、聴いたことがあるメロディーが聞こえた。付近でスピーカーを積んだ車が、クラシック音楽を流しているらしかった。どこかで聴いたこの曲は、確か…。


リスト、愛の夢第三番。


そのメロディは詩葉の心に、自然と染みて行く。同時に凍っていた何かが溶けて、そこから封じられていた記憶が現れた。


自分の奥底に、沈めてしまった記憶が、一斉に浮上する。そうだ、自分にはかつて、無条件に愛を与えてくれる人がいたではないか。あの人は…白川誠は、どうしているのだろう。


優しかった彼の心を、自分は踏みにじった。そして、逃げ出した。それから、忘れようとして…実際、簡単に忘れてしまった。それなのに、詩葉はこの瞬間、容易に思い出した。追い詰められたこの瞬間、無条件に優しくしてくれる相手を、詩葉は思い出したのだ。




会いたい。彼のピアノを聴きたい。

昔のように、自分を癒してくれる、あの音を。




そんな突発的な衝動に駆られ、詩葉は踵を返した。今すぐ、白川のところへ行こうと思った。最後に会ってから、何年も経っている。記憶にある、彼の所在が今も同じなのかは分からない。それでも、彼の元へ向かおうとしたのだ。


しかし、振り返った詩葉の前には、見知らぬ女が立っていて、進路が阻まれてしまう。方向転換して、その女の横を通り過ぎようとしたが、できなかった。正面の女によって、再び進路が阻まれたのである。


腹部に衝撃があった。最初はその女性にぶつかってしまったのだろうか。その程度に思ったが、そうではなかった。腹部は少しずつ焼けつくような痛みが広がっていく。


「あ、れ?」


腹部に手をやると、真っ赤に染まっていた。冗談みたいに、血液がどんどん流れ落ちて行く。


「み、見つけた…楠木詩葉」


目の前の女性が、震える唇でそう言った。背が高く、モデルのような美人だった。


「あの人と、私は、結婚しているんだから。絶対に、別れたり、しないから!」


詩葉は女性に突き飛ばされ、ホームから線路へと落ちた。背中を打つ痛みよりも、腹部の痛みが激しい。それだけではない。良く聞き慣れた、電車が迫る音が聞こえてくる。


「あ、あっ……」


言葉が出なかった。足が震えて動けない。電車の近付く音が、どんどん大きくなる。この駅には止まらない、急行の電車だ。線路の上から、移動しなくては。しかし、恐怖のあまり、その体は動かない。何とか体の向きを変えると、迫りくる電車が視界に入った。近づいてくる。止まることなく、着実にこちらへと向かってくる。


「詩葉」と声が聞こえた。


ホームから、誰かが見下ろしている。


「記憶に鍵をかけておいたのに、思い出したみたいだね。自分を愛してくれた存在のことを」


「た、たすけ…」


見下ろしている誰かは、よく形が認識できず、ただ黒い塊のように見えた。


「詩葉は反省したかい?」


「あ、ああ…」


この黒い塊は、以前出会ったことがあった。十歳の誕生日だ。やはりあれは、ただの悪夢ではなかったのだ。黒い塊は、詩葉に尋ねる。


「どんなに愛情を注いでも、報われない気持ちを理解したかな? 人の気持ちを踏みにじったことを、反省しているかな?」


「わ、わか…」


わかりました。悔いています。ごめんなさい。助けてください。そう言いたくても、言葉にならない。しかし、その声にならない声は、黒い塊には聞こえているようだった


「そうかそうか。でもね、信用はできないな」


本当です。十分反省しました。理解しました。もう人を傷付けたくない。裏切りたくない。


「だとしたら、それを証明してもらおうか」


助けてください。何でもするから、助けてください。


「何でもするんだね? 約束だよ?」


なんでもします。どんな罰も受け入れて、償います。だから、助けて。


「良いだろう。助けてあげる。でもね、もう一度やり直して、本当に反省しているのか、試させてもらうよ。もう一回だ。もう一回。この言葉を何度言ったのか、忘れてしまったけれど…あえてもう一度言うよ。もう一回、やり直すんだ。今度こそ、間違えないようにね」


黒い塊が笑った。人の形をしていないはずのそれが、なぜか笑ったように見えた。そして、それが手を差し伸べてきた。詩葉はその手を握ることしか、できなかった。




その日、電車の人身事故があったことニュースになった。


目撃者によると、刃物を持った女性が、もう一人の女性を突き刺し、線路に突き落としたらしい。目撃者は多く、その時間に駅を利用していた人間や、電車の運転士も確かに線路に落ちる女性を見た、という証言があった。犯人と思われる女性は、その場から逃亡。周囲の人間は、線路に落ちた女性を気にするばかりで、犯人を取り押さえることはなかった。


しかし、不思議なことに、その現場で被害者の女性が発見されることはなかった。血痕はあったものの、遺体もなければ、周辺で血を流した女性がいた、という目撃情報もない。誰がこの場所で、傷を負って線路に落ちたのか、ということは、誰にも分からないことだった。

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