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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第三章 楠木詩葉
35/61

7

数日後、稲庭から食事の誘いがあった。この前、怒らせてしまったことを謝罪したい、ということだ。しかも、店は今まで一緒に過ごした場所よりも、いつくかランクが上のものを選んだらしい。ワインを飲みながら、稲庭は詩葉に何度か謝罪の言葉を口にした。


「……もう、良いですよ」


詩葉は呟くように言った。稲庭は少しだけ顔を明るくする。


「謝罪の言葉を受け入れてくれて、ありがとう。いや、本当にすまなかったよ」


「もう良いって言うのは…謝る必要はないし、私たちの関係を終えましょう、という意味です」


「……え?」


稲庭は自分の耳を疑ったようだった。この女は自分から離れることはない。そう思っていたのだろうか。それだけ、自信があるらしい。


「どうして…? やっぱり、まだ怒ってる…?」


「いえ、怒っていません。稲庭さんが奥さんと別れられないのは、当然のことだと思います。むしろ、私の方が子供っぽい態度を取って、すみませんでした」


「詩葉は……俺と妻に、別れて欲しいのか?」


「別に、そんな風に思っていませんよ」


稲庭との関係を清算するには、良いタイミングだ、と詩葉は思っていた。詩葉は追い打ちをかけるように、稲庭に聞く。


「それとも、今すぐ別れると、言えるんですか?」


「……それは」


「言えないでしょう?」


「すまない」


詩葉は席を立った。


「お酒、美味しかったです」


そう言い残して、稲庭のもとを去ろうとした。その背中に、稲庭が何かを言ったような気がしたが、良く聞こえなかった。振り返って彼の表情を窺ったが、項垂れてもう一度同じことを言う気力はないらしかった。



次の日から、詩葉は忙しかった。拓也には黙って、東京を去る準備を始めたのである。上司に退職の相談をして、ある程度、納得してもらったら、次はどこで暮らそうか、と考えた。様々な方法で色々な地域を探し、北陸か甲信の辺りにしようと決める。自分が働けそうな企業があるのかも、チェックしていつでも面接に行けるように準備もした。


「前から思ってましたけど、楠木さんって考えがまとまれば、めちゃくちゃ仕事早いですよね」


忙しそうに、これからを決めて行く詩葉を見て、畑山はそんな風に評した。


「そうかな。そうだったとしても、畑山くんのおかげだよ」


詩葉は少し楽しかった。新しい生活を想いながら、少しずつ組み立てていく。自分が新しくなっていくように感じられたのだ。


詩葉の退職の日が決まった。余った有給休暇を消費する期間で、新しく住む街を見に行くことにする。そして、その日に物件も決めてしまえば良い。詩葉は内見の予定も決めて、その物件の間取りをプリントアウトし、自宅でそれを吟味した。新しい生活への期待は、次々に膨らんで楽しかった。



送別会も開催された。会社の殆どの人間が、詩葉の新しい門出を祝ってくれた。同じ部署の人間や上司、それまで関わりがなかった同僚も、詩葉の今までの仕事を誉めてくれた。素直に嬉しかった。自分の世界はもっと狭くて孤独なのだと思っていたが、そうではなかったらしい。自分が思っている以上に、色々な人がいて、自分を見てくれていたのだ、と思えた。


「ねぇ、楠木さん! 二次会行こうよ、二次会! もう会えないんだしさ、今日はいっぱい飲もうよ」


そんな風に積極的に誘ってくれる人がいるのも嬉しかった。二次会には、上司や稲庭のような上のポジションの人間は来なかった。その方が気兼ねなく楽しめる、と気を使ってくれたのかもしれない。


「それじゃ、楠木さん。新しい場所でも、その能力を十分に発揮してね」


別れ際、そう声をかけてきたのは、稲庭である。少し声が震えていて、周りに察する人間がいるのではないか、と少し不安だったが、できるだけ不自然のない笑みを返した。


「稲庭さんも、どうかその調子で頑張ってください」


二次会には、畑山が横に座った。


「僕は楠木さんの横、離れませんから!」と堂々と他の人間の前で言い、大変な盛り上がりを見せた。


「ねぇ、やっぱり二人って付き合ってたの?」


一人がそんな風に切り込んできた。


「そんなことないですよ。僕の片思いですよ」


「えー、そうだったの?」と質問をした女子社員。


「楠木さん、こんな可愛い子を振るなんて贅沢ー!」と、また別の社員が言った。


「けっこう、女子の中では、畑山くんって人気あるんですよー」


「え、僕がですか? それ早く言ってくださいよー!」と畑山は目を輝かせた。


「えー、じゃあ、あれも聞いちゃおうよ」と誰かが言う。


「ダメダメ。やめた方が良いよ、絶対」


「聞いて良いですか、楠木さん?」とお調子者で空気を読めないことで有名な男性社員が言った。


嫌な予感がする。聞かないで、と言いたいところだが、誰もがお酒に気持ちが大きくなっているし、理性のタガも緩んでいるため、そんな雰囲気ではなかった。


「稲庭さんと、何かあったって本当?」


知られていたのか。そう思うと顔を上げられなかった。畑山はどんな顔をしているのだろう。きっと、軽蔑しているに違いない。他の人間に至っては、詩葉のリアクションを楽しむように、笑みを浮かべているだろう。


「その噂なら」と声がしたのは、すぐ隣からだった。


思わず顔を上げて、その声がする方…畑山の顔を見てしまった。


「とっくに僕が真実か確認してますよ。ただの噂なんですって。ねぇ、楠木さん」


「うん。どうして、そんな噂があるのか分からない」


「もしですよ! もしそんなことがあったら、僕が許しませんよ! 何があっても阻止しますから!」


畑山の言葉に、皆が歓声を上げた。その後も、畑山が巧に話を別方向へと持っていき、それが追及されることはなかった。


送別会は朝まで続いた。畑山は最初に宣言した通り、詩葉の横から離れることはなかった。それから、一人減り、二人減りと、いつの間にか五名ほどになる。


「後は二人で飲みなよ、せっかくだからさ」


そう言い残して、三人が去り、残ったのは詩葉と畑山だけになった。


「あのさ、畑山くん。さっきのことだけど、一応言っておこうと思うんだ」


「さっきのこと?」


「稲庭さんのやつ…」


「ああ…」と畑山は目の前にあった酒を飲み干した。


「あれね」


「良いですよ、何も言わなくて」と遮る。


「え?」


「楠木さんは、前を向こうとしているわけですし、そんなときに振り返ったところで、何も意味はありませんから」


二人は店を出た。もう始発は動き出している。気怠そうな人たちが、駅に向かったり、その場に座り込んでいたり、色々な人の今日を生きようとする意思を感じた。これから一人になってしまうのが、少しだけ寂しかった。


「ねぇ、畑山くん。エッチなことしようか?」


今度は本気だった。この辺りなら、数時間、二人だけで過ごす場所を探すのは簡単だ。畑山はこの前のように驚いた様子はない。立ち止まって腕を組み、考え込んでいるようだった。


「やめておきます」


「……どうして?」


「たぶん、楠木さんが求めている僕の存在は、そういう関係になったら終わってしまうと思うんです。変な言い方かもしれないですけど、楠木さんにとって今必要な僕って、体の結びつきでじゃなくて、精神的な結びつきでもなくて…もっと、何となくそこにいて、何となく助けになるような、そういうものだと思うんです。だから、ここでそういうことしちゃったら、たぶん楠木さんは、また変なしがらみに縛られて、苦しくなりますよ」


「……そっか」


「はい。たぶん、一生、僕は後悔することになるかもしれないですけど」


「なんでよ。少し時間が経ったら、またお互いの考えも変わっているかもしれないよ。あ、でも一つ…お願いしても良い?」


「なんですか?」


「寂しくなったら、電話しても良い?」


「良いですよ」


「たまには、東京に来ちゃうかも」


「もちろん、お相手します」


「うん。そのときは、頼んだ」


こうして、二人は別れた。帰りの電車でキスだけでもしておけば良かった、と少しだけ思った。




順調に準備を進めていたある日、詩葉のスマホに、拓也から着信があった。


「もしもし」


拓也は無言であった。


「もしもし」ともう一度、声をかけてみる。


もしかして、誤って操作してしまい、電話がかかってしまったのだろうか、と思った。だとしたら、そのまま電話を切ってあげた方が親切だろう、と耳から遠ざけようとした時だった。


「詩葉ちゃん」と声が聞こえた。


明らかに、拓也の声ではなかった。女の声である。


「……小夜ちゃん?」と詩葉は言った。


「うん」


詩葉は思った。いつかは来る、と予測はしていた。しかし、絶妙なタイミングだった。小夜にとっては、乾坤一擲と言うべきか、それなりの覚悟を持って電話をかけてきたのだろう。普通であれば、こんな電話を受けたら動揺してしまうに違いないが、詩葉は冷静だった。しっかりと相手を刺激しないように、声を作って言った。


「……ごめん。二人が、まだ付き合っているって、知らなかった」


「……うん」


「もう拓也から電話があっても、取らないよ。番号も変える。私、引っ越しも考えているんだ。都内から…出るかも。もう、会うことはないと思う」


それだけでは納得しないのか、小夜は黙ったままだった。


「ごめんね。電話、切るね」


「あのね」と小夜が引き留める。


詩葉は黙って、彼女の言葉を待った。感情的に、否定の言葉を浴びせられるかもしれない。そして、拓也は自分のものなのだ、と宣言されるかもしれない。それでも、詩葉は小夜の話を聞くべきだと思った。小夜は言う。


「拓也と詩葉ちゃんって…どうして、そんなに信頼し合っているの?」


小夜の言葉は、少し意外だった。小夜は続ける。


「どんなに離れ離れになっても、どんなにいがみ合ったとしても、絶対に巡り合う。そういう運命の相手とでも思っているの? 私が外から、どんなに邪魔したとしても、絶対に運命が自分たちを引き寄せる…そう思っているんでしょう?」


小夜はたぶん泣いていた。でも、その感情が怒りにシフトしたように感じられた。


「……そんなこと、ないよ」と詩葉は否定する。


「じゃあ、どうして東京を出て行くなんて言えるの? 詩葉ちゃん、拓也が追いかけてくるって、信じているんでしょう? 行先を全く告げずに、拓也から離れるつもりだ、って言い切れる? 拓也が追いかけられるように、ヒントを用意していなくなるって、私には分かる。拓也もそれを見て、運命の出会いを演出すれば、詩葉ちゃんの気を引けるって、やる気出すんだろうね」


詩葉は返す言葉がなかった。この女は、かつて詩葉が知っている小夜とは、全くと言って良いほど、違う人間だった。いや、自分が知らないだけで、以前からそういう人間だったのかもしれない。詩葉は初めて、この女は誰よりも自分のことを見抜いている、恐ろしい存在なのだ、と認識した。


なぜなら、小夜の言う通りだったからだ。詩葉は拓也に自分の行先は伝えてなかったが、ある程度のヒントを残していた。自宅に残した、物件の間取りをプリントしたものは、詩葉が次に移り住む場所を示したのだから。詩葉の家を気軽に出入りする拓也が、それを見ていないわけがない。詩葉は自分から、引っ越すことを拓也に伝えたことはなかったし、伝えるつもりもなかった。しかし、それを自宅に無造作に置いたのは、詩葉にとって、拓也へのヒントであることは明らかだった。


「ねぇ、詩葉ちゃんって、拓也の顔、凄い好きなんでしょ。私には分かるよ。拓也の顔見て、詩葉ちゃんが凄い女っぽい顔をしていたところ、何度も見たんだから。きっと、詩葉ちゃんは拓也のことは捨てたりはしない。また、どこで会うだろうって、追いかけてくるだろうって、高を括ってるから、もう会うことがないとか、そう言えるんだよ。これも二人にとっては、お互いの意思を確認するだけの、駆け引きでしかないんでしょ? 私には、分かるよ。二人は、ここで離れても、絶対にどうにかして、もう一度会おうとする。絶対にそうだよ」


詩葉は否定できない。拓也の電話番号も住所も暗記している。詩葉から連絡を取ろうと思えば、いつだって可能だ。実際に、詩葉は万が一のことを想定して、そういうことも考えていたのだから。小夜はそんな詩葉の心の底にある汚いものを引っ張り出すかのように続けた。


「それが、二人にとって運命だからって、思い込んでるんでしょ。もう私たち、大人なんだよ? いつまでも、運命なんて言いながら、恋愛しないでよ。気持ち悪いよ。人の気持ちを繋ぎ止めるのはね、運命なんて存在しないものじゃないよ。どれだけ相手のことを想って、どれだけ努力して、どれだけ信頼関係を築くかってことだと思う。二人はお互いのこと分かっていないのに、信頼し合ってないくせに、運命に恋して、切れない糸で結びついているって、思い込んでいるなんて、本当に馬鹿みたい」


詩葉は何も言わず、小夜の言葉を聞いていた。


「何も言わないんだね」


何も言えない。拓也は自分を救ってくれた相手だ。だから恋に落ちた。しかし、その想い出は既に色褪せて、廃れて、腐っていた。そんな気持ちだけで、理解とか信頼とか、そういうものがなかったとしても、彼を好きだと言い続けるのは、詩葉にとって負担でしかないのだから。それでも、彼に執着しているのは、単に彼の容姿だけなのだ。


「本当に、二人の幼い気持ちに、振り回されるのは、もううんざりだよ。私はこんなに努力して、拓也が離れてしまわないよう、頑張っているつもりなのに。ずっと怖い気持ちがあっても、頑張っているんだよ。それなのに、貴方たちみたいな馬鹿に否定されて、惨めだよ。それなのに…拓也のこと、好きな私が…一番、馬鹿だよ」


詩葉は、電話を切った。もう、小夜の言葉を聞いていられなかった。胸元にあるネックレスを服の上から触って、気持ちを落ち着かせようとしたが、上手く行かなかった。


自分の気持ちをすべて、見抜かれている。それは詩葉にとって、屈辱以外の何ものでもない。あえて東京を去って、拓也に追わせる。頭の中では、何度も否定した。自分は新しく生まれ変わるためだけに東京を去るのだ、と。しかし、頭の片隅では、拓也が追いかけられるようなヒントをいくつも残そうと、意識していたし、彼の気持ちを煽るような発言も残していた。自分が消えたことで、いつか拓也は物足りなさを感じ、詩葉を追いかけてくる、そのときのために。何年後になるかは分からない。それでも、拓也は運命の相手を、詩葉を、手に入れるため、再び動き出すに違いないはずだ。


自分すら騙して、心の底にあった手管を、小夜だけは見抜いていた。小夜は拓也に、それを指摘するだろうか。自分のあざとい気持ちを。そしたら、拓也は自分を軽蔑するかもしれない。


もし、拓也が本当に追いかけてこなかったら、自分はそれを受け入れることができるだろうか。田舎で適当な相手を見つけて、結婚するかもしれない。いや、畑山と何かしらの関係を築くかもしれない。そういう道もあるかもしれないが、本当にそれで自分は納得するだろうか。


母と父の関係を思い出す。母は父を結婚相手として、認めることができなかった。だから、結婚した後でも、父を拒絶して遠ざけ、やり直すために多くのことを犠牲にしたのだろう。


自分は父のような犠牲を生みたくはないし、後悔もしたくなかった。私は母のようにならない、と詩葉は自分を奮い立たせる。必ず運命をものにするのだ。納得した相手を、手にしなければならないのだ。そのためには、この運命を、手放すわけにはいかない。


胸元のネックレスをどれだけ触っても、やはり気持ちが落ち着くことはなかった。それでも、詩葉はもう止まることはできない。拓也に、詩葉がどれだけ必要な存在なのか、理解させるのだ。ただ、どうしても小夜の存在が気になった。彼女の電話は、詩葉の計画に、暗い影を落とした気がしてならなかった。

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