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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第三章 楠木詩葉
34/61

6

「詩葉、畑山くんと付き合っているって本当なのか?」


「……はい?」


稲庭に突然、そんなことを言われた。ホテルで二人きりになった、直後のことだった。稲庭は決して目を合わせることなく、そんなことを言い出したので、詩葉も少し驚いてしまう。畑山の名前を聞いて、一瞬だけ不快感はあったものの、稲庭が嫉妬心を覚えていることに愛らしさを感じた。


「どうして、そんなこと、思ったんですか?」


「いや……お前と畑山くん、席が隣だろ? 話す機会も多いみたいだし、仲も良いとは思ってた。そしたら…」


「噂を聞いたんですか?」


稲庭は頷く。


「それで、信じたんですか?」


「いや、そうじゃない……けど」


「けど?」


「その……最近、お前が男に口説かれていた、って噂も聞いて」


あれか、と詩葉はすぐに思い当たる。路上で「好きなんだ」と大声で叫んだ拓也。あの夜、噂好きの先輩に見られたのが広まって、稲庭のところにまで届いたに違いない。


「稲庭さんに、そう見られていたなんて、ショックです」


噂を否定する気にもなれなかったので、ちょっとからかってみることにした。すると、想定したよりも激しく、稲庭は動揺を見せる。


「違うんだ。そんな話を聞いたから、ちょっと気になっただけで」


稲庭の精鍛な顔付きが弱々しく歪む。可愛い、と思った。詩葉は稲庭の体に腕を絡めて、頭を撫でた。


「稲庭さん、私のこと好きですか?」


「好きだ」


「奥さんよりも?」


「ああ」


「本当? 嘘吐かれるの、一番嫌だなぁ」


「嘘じゃない」


稲庭が必死に自分を抱くのを感じて、詩葉の自尊心が満たされて行く。だけど、この関係はいつまでも続けるわけにはいかない。もしかしたら、拓也が自分に本気になれないのは、こういう自分の本質をどこかで見抜いているからではないか、と考えた。


時間は深夜に迫っていた。そんなとき、稲庭のスマホが激しく鳴り響いた。いつもと着信音が違うことに気付く。二人きりのとき、稲庭は電話が鳴っても無視することが殆どだったが、今日は焦りながら部屋のどこかで鳴るスマホを探し出した。稲庭はスマホの表示を数秒見つめると、黙ってバスルームの方へ移動してしまう。


奥さんなんだろうな、と詩葉は直感で理解した。戻ってきた稲庭は、決まり悪そうな表情で何かを言いたげな態度を見せた。


「もうこの関係、終わりにしたいです」


詩葉は稲庭が言葉を発するよりも先に、釘を刺すように言った。


「え?」と稲庭は目を丸くする。


「本気じゃないの、分かってますから」


詩葉は突き放すように続けた。


「稲庭さんは、結局…奥さんの方が大切なんですよ。電話が一本あっただけで、そんな顔をするんですから、絶対にそうです。私、帰りますから…安心してください」


詩葉はすぐに服を着て、ホテルを出た。きっと、稲庭も焦りながら部屋を出る準備をしているだろう。念のため、稲庭が追ってこないところまで、十分に離れてから、スマホを確認した。稲庭から特に連絡はない。予想通りではあったが、不快感は強かった。


その不快感をバネにして、詩葉は拓也に電話をかける。電話はコール音が空しく響くだけで、応答はない。どうせ、音楽仲間と形になるわけのない夢を語っているか、小夜のところでつまならい自尊心を慰めているに違いない。そう思うと、無性に苛立った。気持ちを落ち着かせるために、胸元のネックレスを服の上から触る。しかし、その硬い感触は少しも詩葉の苛立ちを抑えてくれることはなかった。誰でも良い。落ち着かせてくれ。詩葉はもう一度、電話を取り出した。彼女が電話をかけたのは、畑山だった。少しのコール音の後、彼の声が聞こえた。


「どうしたんですか? 僕、何かミスしましたっけ?」


「ううん。そうじゃない。君って、どこの駅に住んでいるっけ?」


「え? どうしたんですか?」と言いながら、畑山は駅名を口にした。


「わかった。じゃあ、今から行くから。二十分後に一番大きい改札の前にいてね」


「今からですか? でも、もう終電近いし…」


畑山の言葉を聞かず、電話を切った。すぐに電車に乗り込み、畑山の住む駅に向かう。その間も、稲庭から何度か連絡があったが、すべて無視することにした。


畑山は言われた通り、改札の前で待っていた。大きな改札と言っても、出口は一つだったので、迷うことなく合流する。畑山は困惑しているらしかったが、どことなく嬉しそうだった。


「どうしたんですか? 明日も、仕事じゃないですか」


「良いから、この前みたいに飲もうよ。少しで良いから」


そう言って、駅前の居酒屋に入った。終始、詩葉が一人で喋る。職場の愚痴や、自分の趣味、最近あった取り留めのないことなど。なんであろうが、畑山は適度な相槌を打ちながら聞いた。いつだったかも、こんな楽しく自由に喋れる日々があったな、と思ったが、それがいつのことだったのか思い出せない。


時間も遅くなると、畑山の落ち着きがなくなる。詩葉も終電が終わり、帰る術がなくなったことを理解していたが、何も言わなかった。畑山がどうするのか、気になったからだ。


「あの、楠木さん…明日、大丈夫ですか?」


「大丈夫大丈夫」


詩葉はもう一杯、飲み物を注文して、わざとゆっくりとそれを飲む。畑山は時間について、もう何も言わなかった。店も終わる時間になったので外に出ると、冷たい風がアルコールで熱くなった体を良く冷やした。


「あの…タクシーでも捕まえますか?」


「うーん。畑山くんの家は? 近いの?」


「え? うちに来るんですか?」


「良いじゃん良いじゃん。多少、汚かったり女子に見せられないものがあったりしても、目を瞑るからさ」


「そ、そういうことじゃなくて…」


そんな風に、詩葉は少しだけ強引に畑山の家に上がった。部屋は意外と綺麗だったし、からかえるようなものもなかった。


「お酒、もう少し飲もうよ」


「あの、明日…平気なんですか?」


「うーん。ダメだったら、ダメでいいよ」


「いや、僕はダメだったら困るんですよ」


もし、自分と畑山が同時に欠勤するなんてことがあったら、稲庭はどんな顔をするだろうか。想像するだけで少し笑えた。


「全く、何をどうしたいのか…」


そう言いながらも、畑山は冷たい水を詩葉に差し出した。


「お酒じゃないの?」


「もう、休んだ方が良いですよ」


「ふーん。つまらない」


そう言って、詩葉は水を含む。お酒で甘くなった口の中を水が洗い流してくれるみたいだった。


「それで、何があったんですか?」


畑山が聞くが、詩葉は「えー、べつに」とだけ言う。


「人の家まで上がり込んで、別にはないでしょう。そんなにあったことを話すのが嫌なら、抽象的でも良いですから、気持ちを言葉にしてみたらどうですか?」


「抽象的ね…」


詩葉は、自分が何をこんなにも恐れているのか、素直に考えてみた。


「何かね…今の自分が凄い嫌なんだ。自分の居場所がないように感じて、どこかに逃げたいと思っている。でも、どこにも逃げ場所なんかないし、自分の居場所が欲しいなら、まず自分が変わらないといけない。それなのに、私は何もしないんだよ。だから、余計にダメだな、って思ってしまう。どうしたものかな。どうすれば、私は変われるんだろう。本当に嫌だよ、こんな自分」


詩葉の要点を得ないような話を、畑山は真剣に、黙って聞いていた。畑山が、自分に特別な視線を向けていることを確認して、少しだけ安心する。


そうか、と詩葉は納得した。自分はとにかく、誰かの愛情を受けていないと、落ち着かないのだ。


「ねぇ、何か言うことないの?」


自分に嫌気が差し、それを否定してくれまいか、と畑山に意見を求めた。


「え? あ、はい。そうですね……」


畑山は聞いていなかったのか、天を仰ぐようにして言葉を考える。しかし、案外…と言うべきが、しっかり聞いていたらしく、彼は口を開いた。


「たぶん、楠木さんは自分だったり他人だったりを裏切ってしまって、何もかも信じられない状態になっている気がします」


「……そうかもね」


的を得たようなことを言う。詩葉は耳を傾けてみよう、と思った。畑山は続ける。


「だから、自分も他人も信じられないと思うんですよね。その状態だと、動き出すってかなり難しいと思いますよ。自信がないことは、誰だってやりたくなんかないですからね」


「じゃあ、どうすれば良いの?」


「一人でできないなら、誰かと一緒にやるしかない。つまり、誰かが楠木さんのことを信じてくれれば、少しは動けるんじゃないんですか?」


「……私なんか、誰が信じてくれるのさ?」


胸元のネックレスに触れながら、頭の中に身近な人々を思い浮かべる。母はきっと自分のことを信じてくれない。父親のことなんて信じられない。拓也も自分のことを信じてくれない。稲庭のことなんて信じられない。そんな私を誰が信じられると言うのだ。


「僕が信じてあげましょうか?」


「……はい?」


「楠木さんのこと、楠木さんが満足するまで、信じてあげましょうか?」


「……何それ」


「言葉のままですよ」


「ふーん……裏切るよ、私は」


「良いですよ、それでも」


「裏切られたら、君はどうするの?」


「どうもしませんよ。楠木さんが満足するまで、信じますし、そう言い続けます」


「そんなこと……」


できるわけがない。詩葉はそう口に出しそうになって、思い直す。自分自身、拓也のことなんて、信じられない。でも、もし信じ続けて、それに足る行動を拓也が見せたら…どうなのだろう。


詩葉は胸元にあるネックレスを服の上から触れながら、自分は本当に拓也を信じることができるだろうか、もしくは畑山は自分を信じ続けるだろうか、と考える。


もし、畑山が信じる、と言い続けてくれるなら、自分は変われるだろうか。これは、本当に変わるきっかけかもしれない。畑山がどんな気持ちで言っているのかは理解できないが、もしここで自分が彼の言葉を信じなければ、そのきっかけを失ってしまうのだ。


いや…と詩葉はどこか冷静に分析する。今の自分は畑山に「正しくあろうとする楠木詩葉」を期待されることで、それに応えようとしている。人は期待されたとしたら、それに応えようとする習性があるのかもしれない。


畑山は黙ったままの詩葉を見て笑うと、からかうように言った。


「そこまで色々な人間関係でがんじがらめになっているなら、思い切って今の生活から離れてみたらどうですか?」


今の生活から離れる? ここから、どこまでも遠くへ離れてみたら…どうなるのだろうか。両親との関係を断ったように、今回もすべての関係を断ってしまう。そしたら……新しい生活を手に入れたら、自分は変われるのではないか。怯えることも、執着することも忘れて。


「ねぇ、畑山くんは、一人で生きていけると思う? 誰かに依存することがないよう、慎ましく、真摯に」


「僕には無理ですねぇ。そういう生き方、憧れますけど」


「……やってみようかな」


「え?」


「田舎に引っ越すの。私を知っている人なんて、誰一人いない場所に。それで、小さい会社に勤めて、帰りに凄い駐車場が広いスーパーに寄ってさ、自分が食べる分の食材を買って帰るの。それで、アパートの小さい部屋に帰って、慎ましい夕飯を食べて、明日に備える。そんな日常を、ただ無欲に続ける。できると思う?」


「楠木さんが、その気になれば、できるかもしれないですね」


「でも、嫌になったら、どうすれば良いかな?」


「帰ってくれば、良いじゃないですか」


「そのときまで、待っててくれるの?」


「え?」


「待っててよ、私のこと」


「……分かりました」と畑谷は笑顔を見せる。


賭けに近いものかもしれないが、運命を試してみる価値はある。失敗しても…きっと、この男がいるだろう。笑顔を見せる畑山が、少し愛おしく、哀れに思えた。少しくらい、良い想いをさせてやりたい、という気持ちから、詩葉はこんなことを言った。


「ねぇ、畑山くん。エッチなことしようか?」


「え?」


畑山は目を丸くしたまま、動かなくなってしまった。


「冗談だよ」


笑う詩葉に、畑山は顔を引きつらせる。その夜、それ以上、何も起こらなかった。詩葉は部屋に一つしかないベッドで眠り、畑山は床で眠る。畑山の寝息を聞きながら、明日から自分がすべきことを考えた。人を信じてみよう。運命を信じてみよう。逃げ道だって、ある。


もし、何もかも上手く行かなかったら…また、別の逃げ道を用意すれば良いではないか。詩葉はそんな風に、決意を固めた。




それから、数日間の間、詩葉の部屋には拓也が出入りし、いる日もあれば、いない日もあった。その日も、拓也は当然のように、詩葉の家で夕飯を食べていた。夕食を食べ終えると、拓也は詩葉を誘って外に出る。季節は春が近付き、桜が開花しようとしていた。


「また、こうやって一緒に桜を見れるな」と拓也は言いながら、コンビニで買った缶ビールに口を付ける。


拓也は桜が好きだった。桜が咲く頃になると、こうやって缶ビールを買って散歩に出かける。詩葉からしてみると、これは春という言葉と共に連想される、お決まりの光景だった。不思議と春になると、この拓也と詩葉は寄りを戻しているのかもしれない。もしかしたら、来年も一緒に桜を見ることになるだろうか。


「ねぇ、拓也」


「ん?」


「私たちってさ、中学生のころ出会って、もう十年くらい経つわけだよね」


「そうだな」


「色々あって、離れたり、くっ付いたり…繰り返しているよね」


「……そうだな」


拓也は少し決まり悪そうに顔を曇らせる。


「でも、こうやって、最後は一緒になるんだろうね」


拓也はそんな言葉を意外そうな顔で受け止めるが、すぐに頬を緩めた。詩葉から、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。意外ではあったが、ずっと求めていた言葉に喜びを隠せなかったのだ。


「私と拓也って…案外、運命で結ばれているのかもね」


拓也のまんざらでもない表情を確認しながら、詩葉は続けた。


「何か困難があって、離れ離れになっても、お互いが運命の糸をたぐり寄せて、また出会うんだよ。明日、天変地異が起こって、お互いどこにいるか、分からなくなったとしても、どっちかがどっちかを見つけられる。そんな、特別な関係だと思う」


詩葉が使った「特別」という言葉は、拓也にとって最も効果的なものだった。詩葉はそれを知っていたわけではない。確かに、こういう偶然が、二人の関係を強く結びつけたのかもしれない。そんな言葉をかけられた拓也が口を開く。


「当然だ。俺はずっと前から、そう思っていた」


「ふーん」


詩葉は薄く笑みを浮かべながら、拓也の顔を覗き込んだ。拓也は照れたのか、動揺したのか、それとも後ろめたいことがあるのか、顔を逸らした。


「だったらさ…もし私が明日にでも、突然、消えてしまったら、拓也はどうする?」


「誰かに誘拐されるのか?」


「そうじゃなくて、私の意思で、どこか遠くへ旅立ってしまうの。今の生活も拓也のことも忘れて、どこか遠くへ行ってしまおうって、消えてしまうって意味」


「だとしたら…そうだな」


拓也はビールを一口飲んで勢いを付けると、詩葉を見た。


「なに?」


「どんなに遠い場所に行ったとしても、必ず見つける。五つの大陸を横断して、七つの海を渡ってでも、必ず見つけ出すよ」


「なにそれ。見つかるわけないじゃん」


「大丈夫。俺たちは、そういう運命だから。必ず巡り合うんだよ」


「ふーん。拓也って、バカだよね。前から思ってたけど」


「なんだよ、真面目な話だと思って話しているのに」


拓也は少し本気で怒っているらしかった。馬鹿にしたものの、詩葉は少しだけ嬉しかった。どこにいても、絶対に見つけてくれる。拓也は、確かにそう言った。


「だったら、少しだけ…信じてみようかな」と詩葉は呟いた。


桜は咲いていなかった。後何日か経過すれば、きっと咲き始めるだろう。

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