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詩葉は中学三年になる頃、家を追い出されるようにして、遠くに住む祖父母のところに預けられることになった。原因は詩葉だとも言えたし、当時の父親のせいだとも言えた。だが、その少し前…母が再婚してからの数年は、東京を離れて、三人で暮らしている時期もある。
母と父親…つまりはお兄さんと呼ばれていた男性は、十も歳が離れていた。逆に言うと、その男性は、詩葉とも十歳しか離れていなかった。出会ったばかりの頃は、男性として意識することはなかったが、中学生に上がる頃には、父親の前では落ち着かなくなる。詩葉はできるだけ父親の前ではだらしないところを見せないようにしたし、パジャマ姿も見せないようにした。
そして、時々だが、父親の美しい姿に見惚れてしまうことすらあった。母が本当の父を捨ててまで、この人を選んだことが、少しだけ理解できてしまったのだ。
「詩葉ちゃん、どうしたんだい?」
見つめていることに気付かれてしまい、目を逸らした。
「何でも、ありません」
詩葉は何度も自分が、父親を一人の男性として見ていることを誤魔化そうとした。しかし、きっと大人の男には、分かってしまっただろう。そんなことが、何度もあった。すると、次第に父親の方から、そんな目を向けてくることもあった。
ある日、詩葉が学校から帰ったときのことだった。まだ、転校したばかりで、拓也の名前も覚えたばかりの頃のことである。母は買い物に出かけていて、いなかった。すると、父親が普段よりも早く帰ってきたのだった。
「あれ、涼子さん…じゃなかった。お母さんは?」と父親は帰ってきた詩葉に聞く。
「たぶん、買い物…だよ」
丁寧な言葉が出てきそうになり、必死に親子らしく振る舞おうとする。しかし、難しかった。二人の間に、変な沈黙が生まれた。
「詩葉ちゃん、無理しなくて良いよ」
「……ごめんなさい」
「良いんだって」
詩葉は恥ずかしくて俯いてしまい、父親の横を通ってリビングを出ようとした。
「待って、詩葉ちゃん」
父親が詩葉の腕を掴んだ。少し痛かったが、嫌な痛みではなかった。さらに言えば、腕よりも胸の方に妙な痛みを感じる。男とはこれだけ力強いものなのか、と思うと胸が高鳴っていたのだ。
「あのさ…急に父親なんて言われても、なかなか慣れるって難しいと思うんだ」
父親は詩葉の腕を掴んだまま、彼女を真っ直ぐと見た。詩葉も恐る恐る顎を上げて、彼を見た。これだけ近くで、彼の顔を見たのは、初めてだった。やっぱり、綺麗な顔だった。目も鼻も、顎の形も、どれも綺麗で、ぼんやりと見つめてしまう。
「だから…」
視線と視線が重なってしまった。父親は何かを言い掛けて、詩葉の視線の意味に気付いたようだった。詩葉の思考はどこか溶けるように鈍く、父親もその目に熱を持っているようだ。数秒の沈黙。そして、そこには男女の合意があった。ゆっくりと、父親に唇を重ねられた。
母親が帰ってきたのは、その数分後だった。しかし、そのときは既に、詩葉は女としての部分をすべて父親の手によって確かめられた後だった。
もちろん、二人は何事もなかったように振る舞ったつもりだったが、不自然さはどうしても隠しきれない。そして、父親に執着し、独占しようとする母の目を誤魔化すこともできなかった。もちろん、二人に何があったのか、といったことを問いただすようなことはなかったが、ただならぬ関係を感じたに違いない。
「ねぇ、詩葉。最近、お父さんと仲良くなったみたいね」
数日後のこと、母は突然そんなことを詩葉に言うのだった。詩葉は狼狽したが、できるだけ、それを表情に出さないようにした。
「そうかな…?」
詩葉の動揺を母はどれだけ感じ取ったのだろうか。笑顔ではあったが、母の目は笑っていない。そのとき、母はキッチンで調理をしたいた。包丁の音がやけに強く響く。
「お父さんのこと、好き?」
「……わからない」
どう答えるべきか、詩葉には分からなかった。
「そう、今は分からないかもしれないわね。でも、もし詩葉がちゃんとお父さんのことが好きになったら、お母さんに隠しちゃダメだからね」
詩葉はこのとき、母が何を言いたいのか、よく理解したつもりだった。自分たちの関係を知ったら、母はきっと自分を許すことはないだろう。
そして、母は何かと理由を付けて、詩葉を祖父母に預けようとしたのだ。学校で自分の居場所を見つけてから、間もなくのこと。詩葉にとって、良く知らない祖父母との生活は窮屈でしかなかった。それでも、少し大人になったせいか、愛想を振る舞うことを覚えた。中学時代に小夜が見せた笑顔を真似するだけで、それは簡単だった。しかし、窮屈であることには変わらない。自分の世界に入り込みたいときは、読書をした。本当の父がそうしていたように。高校一年の頃、芥川龍之介を読破した。拓也が好きだと言ったからだ。高校生活はすぐに終わった。真面目に勉強して、本を読んでいるだけで、日々はすぐに過ぎてしまったのである。
祖父母の家を出て一人暮らしを始めるとき、久しぶりに母に会った。大学に通うための、下宿先を一緒に探したのである。
「詩葉は、このまま東京に住むの?」
物件を決めて、帰る前に母が言った。母は笑顔を浮かべていたが、慎重に答えなければ、危険だと察知した。
「……うん。そうかも」
それは、このまま東京に住み続けろ、と言っているのだと詩葉には分かった。もう、自分たちの家には帰ってくるな、と。
「そう。頑張りなさいね」
母は笑顔を見せる。嬉しそうに。きっと、邪魔者は戻ってこない、と安心したのだろう。しかし、母の思惑通りにはいかなかった。
一人の生活にも、少しずつ慣れてきた日のことである。突然、父親が家まで訪ねてきたのだ。会うのは、四年ぶりであった。
「お父さん、どうしたのですか?」
一緒に生活した時間よりも、長い空白期間があれば、それはもう殆ど他人であった。言葉も丁寧になってしまう。
「ちょっと出張で近くまで来たからね。様子を見に来たんだよ」
父親の年齢は三十手前になったが、まだまだ若く見えた。むしろ、色々と経験を積んだためなのか、頼りがいのある大人のようで、より魅力が上がったとも言えた。突然のことで、詩葉はどんな顔をするべきなのか分からなかった。
「急でごめんね。忙しくはなかったかな?」
「大丈夫です。少し勉強していただけだから」
そうは言いながらも、やはり激しく動揺していた。あの出来事があってから、詩葉は極力、父親と関わらないようにしていたのだから。
「あの……来ても、大丈夫なんですか?」
「え? あ、うん……東京にきたのは、あくまで仕事だから」
きっと、ここにきたのは、母には内緒なのだろう。もし、母がこのことを知ったらどうするだろうか。きっと、自分は母に殺されてしまうだろう。そんな状況にも関わらず、詩葉は父親が訪ねてきたことに対し、胸が高鳴っていることに気付く。緊張しているのだろうか。いや、喜んでいるのか。
「それにさ、出資者としては、どんな暮らしをしているかくらいは、見ておきたくて」
「あっ、そうですよね。ごめんなさい。今まで、お礼の一つも言わなくて…」
詩葉の学費は、本当の父が出してくれているが、それですべてを賄えているかと言えば、そういうわけではない。家賃や生活費、ある程度の金額は、この若い父親が支払っている。
「いや、ごめんごめん。言い方が悪かったよ。その辺りは気にしないで」
気にしないで、と言うのは、気にしろ、ということではないだろうか。父親は長い時間、居座るのかと思ったが、そうでもなかった。しかし、帰り際、彼は熱のこもった視線で詩葉を見つめた。詩葉も、それを見つめ返す。父親の視線は、詩葉の現実を揺るがしてしまうほど、彼女の思考を鈍らせた。何て綺麗な顔をしているのだろう、と改めて思ってしまう。きっと、母だけではなく、色々な女性が彼の視線に捉われたいと思ったに違いない。そして、そんな男から、視線を浴びることに、快楽を感じてしまう。これを独占する母が羨ましく、恨めしいと感じてしまった。
たぶん、またキスをされて、体を触られるかもしれない。そう思ったが、父親は「それじゃ、頑張ってね」と爽やかな、まだ少年らしさを少しだけ残した笑顔を見せて、帰ってしまった。正直、拍子抜けだったし、心のどこかで落胆した気持ちがあり、詩葉は自分を恥じた。
アルバイトを始めることにした。父親が負担する金額を少しでも減らそうと思ったのだ。そのことを母に報告すると、最初は喜んでいたが、その日の夜にまた電話があった。
「ねぇ、詩葉。アルバイトの話だけど、無理にすることないんじゃないかしら」
「……どうして?」
「あのね、お父さんは、貴方のために、少しでも父親らしいことがしたいみたい。頼み込まれちゃって、私も断れなかったの。もし、遊ぶお金がほしいなら、何とかするって。もし、詩葉がアルバイトなんてしたら、あの人のプライドを傷付けてしまうと思うの。だから、お願い。あの人を立てるつもりで、アルバイトはやめてちょうだい」
父親の言うことは、聞こえは良かったが、詩葉にとっては不安なものでしかなかった。父親は自分に対し、決して破ることができない契約を強いているのではないか、と思えた。
詩葉のその疑念は、殆ど正しかった。それは詩葉が東京に出てから、初めての誕生日のことだった。詩葉は特に予定もなく、家で過ごしていると、突然父親が尋ねてきたのだ。
そこからは、すべて想像に容易いことが起こった。詩葉は父親と呼ぶべきその男に、すべての「初めて」を捧げたのである。捧げなければ、ならなかった。ただ、それは詩葉が望んだことでもある。口にはしなかったが、詩葉も父親に求められることを望んだのだ。あの美しい形をした男に、触れられることを。
大学や街で声をかけてくる男たちに比べ、父親は美しい造形を持っていた。そう思うと、どんなに積極的にアピールしてくる男たちは、無価値のように思えて、つまらなかった。だから、父親に求められることは、詩葉にとって女としての喜びを与えたのである。
それは、必ず月に一度あった。詩葉はまるで、父親の愛人だった。異性とのコミュニケーションと言うのは、父親がいれば詩葉は満足する。しかし、それは明らかに間違ったことでもあったし、母に知られたら、二人とも殺されてもおかしくない。詩葉は母が逆上した際、どれだけ恐ろしい存在になるのか、両親の離婚騒動でよく知っているのだ。
だから、詩葉はこの契約から、何とか逃れなければならない、と考える。そのためには、自分の在り方を変えなくてはならなかった。それなのに、詩葉は何もできなかった。ただ、罪悪感と恐怖という暗い気持ちが、常に彼女の頭の中に漂いながらも、父親と言う美しい存在が、自分に執着することを快楽としていた。きっと、これ以上に美しい男は、いないのではないか、と。
そんな生活を送る中、詩葉は小夜と再会した。きっかけは中学の同級生である、中島沙知との再会だ。道端で、ばったりと出会ったのだ。お互い、それなりに風貌が変わっていたが、中島沙知は詩葉の姿を見落とすことはなかった。
「ちょうどこれから、皆と会うところだったんだ。一緒に行こうよ」
中島沙知は小さな同窓会のようなものを開いていたのだ。そこで再会したのが、小夜ということだ。小夜は詩葉の顔を見て、目を丸くした。
「久しぶりだねぇ」
挨拶をしてきた小夜は、以前とかなり印象が違っていた。健康的でどこまでも明るいような女が、くたびれて何かに怯えるようだった。
「久しぶりだね。小夜ちゃんは、今何をしているの?」
小夜は自分の現在について話す。服飾関係の学校に通っていること。アパレル系のアルバイトをしていること。
「拓也と、付き合っているんだ。拓也のこと、覚えている?」
「……うん」
拓也、という名前を聞いて、今どんな姿をしているのだろうか、と想像する。整った顔をしていた男だ。もしかしたら、さらに良い男になっていても、おかしくないだろう。中学二年生のときの、あの爽やかな記憶も、同時に思い出された。会ってみたい、と思ってしまう。しかし、小夜から拓也と交際していることを宣言されてしまった。まるで、自分のものに近付くな、と言われているようだった。
「そうなんだ、拓也くん…今は何をしているの?」
そのときは、会話を続けるためだけの質問でしかなかった。しかし、数日経つと拓也に会ってみたい、という気持ちが大きくなっていく。あのときと同じように、拓也が自分の状況を、どうにかしてくれないか、と微かに期待していたのだ。
小夜から聞き出した、ちょっとした情報を頼りに、拓也を探した。彼は頻繁に路上ライブを行っている。都内で路上ライブが行われる場所を探せば、見つかるかもしれない。その程度の情報だけで、拓也を見つけたとき、詩葉は運命を感じた。どんなに離れても、きっとこの男とは巡り合うはずだ。この男こそ、自分の運命の相手なのだ、と確信するのだった。
拓也の造形は、詩葉を満足させる異性として、見事に成長していた。拓也がいれば、父親との契約を切ることができる。詩葉は父親が東京に現れた日は、決まって拓也と会った。もちろん、想定外に父親が現れることもあり、すべてを回避できなかったが、拓也のおかげで父親と関係を持つ回数が減ったのは確実なことだった。そんなこともあって、拓也のことが好きになっていた。惚れ込んでしまった。自分の居場所を、自分が甘えて良い場所を、自分だけの愛すべき人を、見付けたように思えた。これなら、父親との関係を断つことも、怖くはない。自分だけの場所を手に入れられる。かつて拓也が言ったように、彼は詩葉に居場所を与えてくれたのである。
さらに、拓也への執着が強くなったのは、一人で暮らすようになってから、二度目の誕生日を迎えたときのことだった。去年と同じように、父親がやってくるかもしれない。詩葉はそれが憂鬱だったし、父親が母よりも自分を選ぶことに優越感がないわけでもなかった。
父親を受け入れてはいけない。詩葉は必死に拓也へ電話をかけた。拓也と約束があれば、父親との接触を回避できる。しかし、拓也は自分の呼びかけに応えることはなかった。そのため、詩葉は予想通りやってきた父親を拒むことができなかったのだ。
きっと、拓也は小夜と一緒にいる。だから、自分は父親の相手をすることになった。そう考えると、小夜が憎かった。絶対に、拓也を自分のものにしてやる。そんな気持ちが強くなってしまった。
だから、拓也を傍に置くため、詩葉は手段を択ばなかった。拓也が自分に好意を持つよう、チャンスがあれば、何度も誘惑したし、生活環境も彼に合わせることにした。そのとき、拓也は卒業制作のために曲作りに集中し、詩葉と会う時間が減っていた。だとしたら、自分の生活が、彼にとって過ごしやすい環境にすれば良い。拓也が自分の家でも曲作りができるよう、完全防音の部屋に引っ越しを決めた。もちろん、その資金は父親から調達することになる。そのため、詩葉は必死になって、父親にお願いをした。父親は詩葉が言いなりになるのを喜び、満足すると彼女の引っ越し資金を出すことを承諾した。
このように、詩葉は必死に拓也を自分のもとに留めようとした。それなのに、拓也は自らのもとを去ってしまう。詩葉にとって、それは裏切りだった。自分の居場所を、作ってくれると言ったのに。詩葉も自分が拓也の居場所になれるよう、努力をしたつもりだったのに。結局、彼は夢と別の女を選んだのだ。
拓也と別れる日には、とにかく甘えた。彼にしがみ付くようにして、街を歩いたのを覚えている。楽しかった。そして、詩葉は拓也が自分への執着を捨てられていないことにも気付いていた。今は別れることになったが、拓也は再び自分のもとへ帰るだろう。それが運命だ。詩葉はそう確信した。
大学を卒業すると同時に、詩葉はまた引っ越した。母と父親には秘密でバイトをし、引っ越し資金を溜めていたのだ。引っ越し先も母と父親には内緒にしている。詩葉は父親との契約を無事に解約することができたのだった。それも拓也がいたから、決断できた。父親は確かに美しい男だったが、拓也はそれを上回る。拓也が自分のもとに戻ってくるのなら、両親との関係も断ち切ったところで、何の不安もなかった。
だから、詩葉にとって拓也は、ただの別れた男ではなかった。自分に居場所を与えてくれた男であり、切っても切れない糸で結ばれた、運命の相手で、強い執着の対象でもあった。
「あれ、帰ったの?」
拓也が目を覚まし、詩葉は彼の頬に置いていた手を引っ込めた。
「まさか、今日ずっと寝ていたの?」と詩葉は冷たい調子で言った。
「そんなわけないだろ。昼間はこのキーボード借りて、曲作ってた。でも、風邪っぽくて調子悪いわ」
最後の一言を聞いて、きっと何もしていなかったのだろう、と詩葉は思った。
「お腹空いてる? 何か作るけど」
詩葉は自分の両端に置いたままの買い物袋を持ち上げてみせた。
「うん、食べる」
「じゃあ、ちょっと待ってて」と詩葉はキッチンへ移動した。
今現在、詩葉は自分の居場所を失ってしまったように感じていた。拓也は自分のものではない。稲庭だって、そうだ。だから詩葉は、少しだけ拓也に期待していた。やっぱり、この男が私にとって運命の相手で、また自分に居場所を与えてくれるために帰ってきてくれたのだ、と。
それなのに、この男は現実を見ずに、ふらふらとしている。たぶん、きっと…女のことでも、ふらふらしているだろう。それは、人のことは言えないか、と詩葉は食材を並べながら思う。
実際に詩葉の予感は当たっていた。拓也がシャワーを浴びている途中、どこからか激しい振動音が聞こえてきた。スマホであることは間違いなかった。何度もしつこく鳴らされる音に、詩葉は溜め息を吐く。見たくはない。見たくはないが、ここで確認しておかなければ、さらに深い泥沼に自分は踏み込んでしまう気がした。だから、拓也の鞄を少しだけ漁って、それを見た。
未だに鳴りやまないスマホ。そのディスプレイには、小夜と表示されていた。




