4
詩葉の母は、彼女から見て異常だった。
異常な男好きだったのである。若くして結婚し、その後も外見的な劣化が殆どなかった母は、確かに美しかった。そのせいか、男とすぐに親密な関係を結んでしまう。子供だった詩葉が、それを理解していたわけではなかったが、後から思えば、ということがいくつもあったのだ。
一時期、街で声をかけられた、という男の話を父のいないところでずっと話していた。また別の時期では、パート先の大学生のことばかり話していた。一番古い記憶では、まだ母が会社勤めだったときの上司のことだ。
そして、最終的に両親は離婚することになった。仕事ばかりの父が旦那としての役目を果たしていない、ということで離婚になったが、実際は違ったのだ、と今では思っている。
その頃、母はパート先で出会った大学生の話ばかりをしていたのだ。ある日、詩葉に「お兄さん」として紹介してきたことがあった。母とお兄さん、詩葉の三人で出掛けることも頻繁だったし、旅行に出かけたこともあった。お兄さんと母は十歳以上、年齢が離れていた。詩葉から見ても、お兄さんは整った顔をしていて、テレビで見るアイドルグループのメンバーみたいだった。きっと、母は家族のために必死に働く父よりも、顔の良い若い男を取ったのだろう。
取り残される父が可哀想で、母の決断が嫌で、離婚の直前に詩葉は母に思いとどまるように懇願した。詩葉の父は、確かに仕事ばかりで、家庭を顧みる人間ではなかったが、彼女が幼い頃はそうではなかったから。詩葉が眠りにつくまで絵本を読んでくれたし、趣味で始めたと言うピアノもよく聴かせてくれたことを覚えている。詩葉はその横で歌うこともあり、父には懐いていた。そんな想い出もあり、父と離れることは嫌だったのだ。
ずっと、母とお兄さんの関係を黙って容認していた詩葉だったが、そのときばかりは必死に主張した。しかし、母は離婚を踏み止まるつもりはない、と明言するどころか、容赦なく詩葉にこんなことを言った。
「私はね、お父さんのことが、あまり好きではないの。ううん、最初から好きではなかった、と気付いてしまったの。何となく、良いなと思って結婚したけれど、すぐに勘違いだった、って分かってしまったの。雰囲気とか、その場の流れで、結婚まで至ってしまったのでしょうね。そしたら、恋をしたことがない自分が、凄く惨めに思ったの。後悔したのよ。一度きりの人生なのに運命を確信するような、本当の恋を経験しないなんて、女として失敗したとしか言えないわ」
詩葉は、母が父を愛していなかったと聞かされ、自分が生まれてきたことも、間違いだったと言われた気がした。そうは思いたくはなかった。
詩葉の家にピアノがあったのは、母と父の愛の証だった、と思っていた。母は音大で歌を勉強していたらしく、結婚後も歌うことがあったそうだ。父は音楽とは関係ない人生を送っていたが、母と結婚してから、いつでも彼女の歌声が聞こえるように、とピアノを購入し、独学で勉強したのである。詩葉は父のピアノで、母が歌うのを見るのが好きだった。母が歌うことをやめてしまってからは、父のピアノで詩葉が歌ったが…いつの間にか、父はピアノから離れてしまった。
こうして、母と父の愛情は少しずつ劣化してしまったように思えたが、あのピアノがこの家にある、ということは、二人の愛が確かにあった証拠ではないか。
だから、詩葉が母の言うことが理解できない、と主張した。きっと、最初から母は父を愛していなかった、ということは間違っている、確かにそれは存在したのだ、と。そんな詩葉に対し、母は溜め息を吐くと、子供相手とは思えない理屈を淡々と説明した。
「詩葉、今は分からないかもしれないけど、私も貴方も女なのよ。私たちは男を愛する生き物なの。いいえ、恋をするのよ。熱く燃えるような恋を。それは、自分の身を焦がすほどに熱いものなの。私のママも、ママのママもそうだった。これは運命よ。私たちに流れる血が、そうさせるの。だからきっと貴方も、正しいことよりも、他人の目のことなんて気にせず、何よりも一人の男を選ぶ日がきっと来るわ。ママもね、運命の相手に出会ったの。詩葉も、いつか運命の相手に出会う。そしたら、今のママの気持ちを、きっと理解することになるから」
この人は狂っている。理解できない。まるで、それが唯一の真実であるかのように言うが、詩葉には異常でしかなかった。それなのに、自分は母の言う通りの人間になってしまった。自分を女として意識した瞬間から、今までずっと。母と同じような人生を送っていたのだ。そして、この日も詩葉はそんな自分を否定することができなかった。
詩葉が帰るアパートの前に、拓也がいた。雨で濡れているだろう体を風に晒し、空を見上げている。その姿は雲の隙間から漏れる月明かりに照らされている。月に愛されているかのように、その光は彼だけを照らしていた。
拓也は詩葉に気付いたようだった。詩葉は立ち止まり、拒絶の態度を示すと、拓也は一瞬だけ肩を落としたように見えたが、すぐこちらへと歩き出す。十分に距離は縮まったが、拓也は何も言わなかった。だから、先に詩葉が口を開く。
「信じられない」
「……すぐに、信じるようになる」
「なにそれ。馬鹿なんじゃないの?」
「俺は、お前のためなら全部、投げ捨てられる。その覚悟あって、お前に会いに来た」
「そんなわけないじゃん」
今更、覚悟が決まるわけがない。そんなことは分かっているが、そんな言葉をかけられると、心地よさはあった。でも、だからこそ、拓也の覚悟を問いただしてやりたかった。その気持ちを、揺さぶってやろうと。
「拓也にそんなことできるわけがない。音楽は? 私が定職に就けって言ったら諦めるの? そんな勇気あるの?」
返答は沈黙であった。
「大体、私にこういうこと、言われるのが嫌で離れたんでしょ? 拓也に年相応の収入ができるまで、言い続けるよ、私は」
「……俺は夢もお前も諦められない」
静かに言う拓也に、不快感を覚える。夢を諦めろ。そう思った。夢も、安らげる場所も捨てて、私だけに人生を費やせば良い。何もかも、捨ててしまえるほど、私に執着すれば良い。私には、その覚悟があるのだから。
しかし、そんな詩葉の気持ちは、拓也に伝わることがない。苛立ちが混じった溜め息を吐き、黙って拓也の横を通り過ぎようとした。しかし、彼は詩葉の手首を掴んで引き止める。強い力で圧迫される手首が、痛いはずなのに、嫌ではなかった。
拓也はどれだけの時間、雨に打たれていたのか、とても体温が低い。自分に執着し切れない拓也に、苛立ちは覚えるが、その健気さと不憫さは詩葉を悦ばせる。そして、拓也の手に力が入り、さらに強い力が手首に加えられた。体を引き寄せられても、抵抗できたはずなのに、されるがままに、従った。
「今は信じなくて良い。少しだけ、時間をくれ」
「嫌だ。絶対に嫌。放して」
拓也はすぐに彼女の体を解放する。詩葉は内心では、無理矢理キスしてくるだろうと思っていたので、彼の行為は意外であり、拍子抜けでもあった。詩葉は今度こそ、拓也の横を通り抜けて、自分の部屋へと帰ろうとした。歩き出す詩葉に対し、背後の気配は動かず、ただ立ち尽くすだけらしい。背中に感じる視線。
何か言って、引き止めてみせて。そんな風に思ってしまったが、やはり何も言葉はない。
これでお別れだ。あの美しい顔、肌、指先、骨格、瞳。どれもこれも、もうこれでお別れなのだ。二度と会えなくなったら。そんなことを考える。嫌な想い出は、確かに多い。でも、単純に彼と一緒にいる時間が、楽しかったことだって、あったのではないか。過去が失われそうになって、すべてを肯定したくなる。失いたくない。そんな気持ちが膨れ上がるのだ。
いや、きっと拓也は自分を追いかけてくるに違いない。自分にとって、この男は運命の相手のはずなのだから。それなのに、拓也は詩葉を呼び止めることはなかった。苛立ちと喪失を恐れる気持ち。拓也を信じられない気持ちと、運命を信じようとする気持ち。これらの感情がせめぎ合い、最終的に詩葉は振り返って、拓也を見た。拓也は何を考えているのか、ただ詩葉の視線を受け止める。その瞳に、詩葉の中にある、何かが折れた。
「風邪引くから、暖かいものでも飲んで行ったら?」
何度目だったのか、詩葉はまた拓也を受け入れるのだった。
結局、拓也は朝まで詩葉の家にいた。
そのせいで、詩葉は今日も寝不足だ。深夜まで、拓也に好きだの離さないだの、そんなことを言われ続け、なし崩し的に拓也の欲望を受け入れてしまった。
本当にだらしない。昨日、畑山の前で心を入れ替える、なんて言ったばかりだったのにこれだ。自分に幻滅するしかなかった。
詩葉は仕事へ行く準備をして、家を出ようとしたが、拓也はまだ眠っている。やはり、拓也は風邪を引いたらしく、何度もくしゃみをしていた。そう言えば、この男はすぐに風邪を引くのだ。起こすのも可哀想かもしれない。そう思って、鍵はポストに入れるように、と置手紙を書いて家を出た。
朝の光は彼女の意思薄弱を責めるように眩しく、優しくはなかった。この眩しさに耐えなければならない、と思うと部屋に戻って拓也と同じ布団に入り、眠ってしまいたくなる。しかし、仕事は行かなくてはならないのだ。
電車に揺られながら、これからの自分について考える。自分と拓也の関係は、修復されたのだろうか、と。いや、修復は有り得ない。別の形として、再構築された、というのが正しいだろう。そもそも、修復された、とはどのような状態を言うのだろうか。自分の都合の良い記憶の中にある、ほんの一時のことだろう。
それだけではない。例え、拓也との関係が理想の形へと向かったとしても、稲庭との関係も残っている。これは、そろそろ解消するべきだろうか。それとも…まだ関係をキープすべきなのだろうか。
「おはようございます、楠木さん」
会社の前で、畑山に会った。いつも通り、呑気で朗らかな顔をしている。
「あれ? もしかして二日酔いですか? もう、無理して飲まないでくださいよ」
一目で不調と分かる顔をしているらしく、畑山はおかしそうに笑う。
「違うよ。ただの寝不足。君、元気みたいだね」
「はい。お酒、あまり飲んでないので」
「そうだったっけ」
思い返してみると、確かに自分ばかり飲んでいたかもしれない。男癖だけでなく、酒癖も悪いときたら、本当に自分は最低なのではないか。
「寝るの、そんなに遅かったんですか?」
「うん。色々、考えてたら遅くなっちゃった。今日、乗り切れるか心配だよ」
「眠れなくなるほど、悔い改めるべき過去があったんですねぇ」
畑山は冗談と捉えたのか笑っているが、詩葉からしてみると、大真面目な話である。何とかしなければならない。そう思いながらも、どんどん深い沼の中心へと足を踏み出している。そんな自分に嫌気が差してしまった。
仕事をしながらも、拓也のことばかり考えていた。昨日のことから始まり、出会ったころのこと、再会したころ、何も疑わずただ楽しい関係だったころ。拓也の良い部分、良かった想い出ばかりを思い出そうとした。彼の姿形を愛しているがために、彼の内面にあるものも、正当化しようと心がけたのである。しかし、どれだけ考えを巡らせても、最終的には彼に対する怒りへ辿り着いた。
しかし、家に帰ると拓也がいる、と考えると、仕事を早く終えようと思えた。拓也の姿形、実際に動くところを想像すると、胸が高鳴った。
そこで詩葉は気付く。拓也の内面を考えると、憂鬱になる。でも、外見のことを考えると、舞い上がる。単純な自分。母と似ている自分。そう思うと、拓也から離れるべきだと、心のどこかで警鐘が鳴らされた。
拓也と接触しないためには、どうすべきかと思案すると、稲庭のことに思い当たった。打ち合わせ中なのか、オフィスにはいないようだ。滅多にないことだが、自分の方から誘ってみようかと、メッセージを作ってみた。だが、作った文章は妙に甘えた女らしく感じられ、面倒だと思われるのも嫌なので消してしまった。何度か、そのように文章を作っては消す。試行錯誤の後、それらしい文章が完成したので、後は送信するだけとなった。
しかし、送る前によくよく考えてみると、男から逃げるために、他の男に頼るのは、とても汚らわしい女ではないかと思い当たる。これも、母と同じなのだ。もし、正しい人間であろうとするなら、少し他人に甘えるだけでも、大変なことなのだと痛感した。
送信を躊躇していると、ちょうどオフィスに稲庭が入ってきた。視線を送ると、ほんの一瞬だけこちらを向いたようだった。しかし、デスクに座ると、こちらに一目もくれることなく、忙し気にパソコンと向き合ったり、部下に指示を出したりしている。一夜を共にすれば、自分を満足させるために必死なくせに、意識をしてないふりをするのが、可愛くなかった。
それに比べて、と詩葉は隣に座る畑山の方に視線を向けた。畑山は殆ど誤差がない、と言えるようなタイミングでその視線に反応する。詩葉は何も言わず、ただ畑山を見つめてみた。畑山はすぐに落ち着かなくなった様子で、終いには「どうしたんですか? お腹でも空きましたか?」などと意味の分からないことを言いながら、だらしない笑顔を見せる。もう少し顔のバランスが修正されれば、可愛いものなのに、と噛みあわない運命に無常さを覚えた。そんな詩葉の落胆は、稲庭のために作ったメッセージを送信してしまうのだった。
稲庭からの返信は、定時を過ぎてもなかった。詩葉が電車に乗り、自宅に戻る頃、やっとメッセージが届く。そこには、今日は難しいと言う内容が、稲庭らしい紳士さ、つまりは女好みする言い回しで書かれていた。こうすれば波風立たないだろうという、女慣れしたところが、やはり気に入らなかった。
帰ると、やはり拓也は詩葉の自宅にいた。バイトもギターの練習もしなかったのか、眠っている。まさか、朝からずっと寝ているわけではないだろう。詩葉は溜め息を吐きながらも、しっかりと二人分の食材を買って帰っていた。
詩葉は眠る拓也の枕元に腰を下ろして、穏やかな寝顔に手を伸ばす。顎のラインを指先でなぞってみると、一瞬だけくすぐったそうに表情を変えて、それが可愛く見えた。頬に触れている。この綺麗な顔を自分のものだけにしたい。そう思っても、きっとこの男は右へ左へと目移りしてしまうのではないか。
「私の居場所、作ってくれるって…言ったよね」
遠い過去の記憶。拓也は二度だけ、それを実現してくれたことがあった。一度は中学のとき、孤立してしまった彼女に居場所を与えてくれた。二度目は無意識に。きっと、彼自身も知らないことだ。詩葉が彼に執着するのは、母にかけられた呪いだけが原因ではない。そういった、美しい想い出もあるのだ。彼女は、そう言い聞かせた。




