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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第三章 楠木詩葉
31/61

3

「ねぇ、詩葉ちゃんって拓也のこと好きなの?」


中学生の頃、拓也たちが通う学校へ転校して間もないころ、小夜から馴れ馴れしくそんな風に質問された。


「別に、そんなことないよ」


確かに、詩葉が最初に顔と名前を覚えたのは拓也だった。単純に顔が好みだったから。でも、どんな人格か知らないし、好きと言い切るのは、あまりに幼稚だと思ったから否定したかった。


「そうなんだ。安心したー」


「小夜ちゃんは、児玉くんが好きなの?」


そう詩葉が聞くと、彼女は目を丸くした。まるで、どうして当たり前のことを聞くのか、と疑問に思っているように。だが、すぐに笑顔で彼女は答える。


「そうだよ。凄い好き」


「そうなんだ……」


変な女だ、と思ったが、同時に羨ましくも思った。裏表がない人格とは、きっとこういう人物のことなのだろう。そんな性格のためか、小夜は男女問わず人気があるようだった。その頃、詩葉は学校で次第に孤立し、家庭での問題も相まって、自意識を抑えつけることでしか、生きる術がなかった。だから、何も考えていないように、素直に振る舞って、周りの人間から愛される小夜は、羨ましくも憎らしくもあった。


そのとき、詩葉はこの女が激しく求める拓也という男を自分のものにしてしまったら、彼女はどんな風に思うのだろうか、なんてことを考えていた。


その詩葉の企みは、中学時代に殆ど成功してしまう。拓也という人間に、自分という存在を植え付けることに成功したのだ。しかし、あと少しと言うところで、詩葉は転校することになってしまった。


その後、拓也と小夜の関係がどうなるか、知る由もなかった。それでも、小夜は詩葉が手にするはずのものを、手にしたのではないか、と思った。


感情のまま、素直に生きれば、欲しいものが手に入るのだろうか。そんな疑問の答えを得るために、高校生になってからは、小夜の生き方を真似してみた。何も考えてないように、素直であるかのように振る舞う。中学時代とは違って、簡単に友人はできたが、やはり彼女にとって窮屈でもあったし、欲しいものなんて何も手に入らなかった。


そんなことを思い返してみると畑山と言う男は、小夜に似ているような気がした。自分の好意が周囲に知られようが関係ない。相手に伝わることだって関係ない。ただ、自分の感情に素直に生きているのだ。


「楠木さん、本当にどうしたのですか? 顔が青いですよ。お腹でも痛いんですか?」


詩葉は首を横に振って「なんでもない」と言った。店内を見回す。人も少なく拓也が追ってくる様子はなかった。


ほっとする気持ちはあったが、落胆の方が大きかった。やはり、拓也にとって、自分はそこまで執着する対象ではない、ということなのだろうか。だとしたら、すぐに小夜のもとに帰れば良い。


苛立ちを押し込みながら、畑山を睨み付ける。この男をどうにかしてやろうか、とも考えた。そんな詩葉の気持ちなどつゆ知らず、畑山は言った。


「あのですね、楠木さん。そんな顔で何でもない、って言われても、信じられるわけがありませんよ。それはね、後輩の僕なんかは頼りないかもしれませんが、これでも二十年以上は生きているわけですよ。二十年と言えば、それなりの時間です。楠木さんが何かで悩んでいたとしても、僕が生きた二十年という経験の中から絞り出せば、一つくらい効果的な案が出てくるとは思うのですよ。だから、話してください」


身振り手振りを交えながら話す畑山は必死だった。


「何それ。期待できるのかな」


その様子があまりにおかしくて、詩葉は頬を緩めていた。笑顔を見せると、畑山は意外そうに目を丸くしたが、すぐに穏やかな声で言った。


「何か楠木さんが笑うところ、初めて見た気がします」


「そんなこと…ないよ」


詩葉は笑顔をかき消す。そんなに大きな声で笑ったつもりではなかったが、そう指摘されると何だか笑えない気持ちになった。そう言えば、最後に心の底から笑ったのはいつだろうか。


「それより、お酒飲もうよ」


「楠木さんって飲めるんですか? 会社の飲み会でも、ソフトドリンクばかりじゃないですか」


「だって、同僚の前で飲みたくなんかないんだもん」


「あの、じゃあ…僕は何なんですか?」


「君は後輩。同僚ではない」


「そうですか。じゃあ、良いや。すみません、お願いしまーす!」


畑山が店員を呼び、ビールと果実酒を頼む。詩葉は実際のところ、酒は嫌いではなかった。学生時代は、むしろ良く飲んだかもしれない。だが、ある日を境に飲みたいという気持ちは失せてしまった。稲庭と一緒にいるときも、酒は飲めないと嘘を吐いている。しかし、今日は飲みたい気分だった。とにかく、早くアルコールを入れて、拓也のことを少しでも考えないようにしたかったのだ。


こうして一緒に飲んでみると、畑山は少し不思議な男だった。意外にも畑山はあまり喋らない。かと言って無口だったわけでもなく、どういうことかと言えば、相手に話させることが上手かった。気付けば、詩葉ばかりが喋り、畑山は相槌だけ打っている。仕事に丁寧さはあまり見られないが、他人との接し方は割と丁寧な男なのかもしれない、と分析をした。


この感じ、いつだかもあったな。そう思うと、自然と胸元に手が動いた。服の下に硬い感触。彼女が唯一身に着けているアクセサリーである。服の上からでも、それに触れていると、少しだけ気持ちが落ち着く。静かな気持ちで考えると、稲庭のような男と関係を持っている自分を軽蔑するような気持ちが沸きあがり、アルコールも手伝ってか、頭の中がぼんやりとした。


「どうしたんですか? お酒、回りましたか?」


「うん。少し」


これは本心で、昨日の徹夜で疲労が激しい体に、アルコールは良く回った。


「もう、楠木さんって意外にプライベートはだらしないんですね」と呆れたように畑山は言う。


「確かに、そうかも…」


酔うと余計にそうだ。いつだかも酔った勢いで、キスするように誘導したのではなかったか。そんな思い出が頭を過ぎると、なんだか目の前にいる畑山も意外に可愛いのではないか、と思ってしまう。


「そうだよね、だらしないかも」


そんな気持ちを抑制するつもりで、呟いた。


「……本当に大丈夫ですか?」


「うん」


「水を飲んで少し酔いを覚ましましょうか」


そう言って畑山は水を二つ注文した。この流れだと、水を飲んだから帰ることになるのだろうか。明日も仕事だし、それが良いのだろうが、何となくまだ帰りたくない気分だった。


「あのさ、畑山くん」


「なんですか?」


「私たち、付き合っているって噂になってるの、知ってた?」


動揺させて、からかってやろう、と言う気持ちがあったのだが、畑山は特に顔色を変えなかった。


「あー、僕も言われましたよ」


「そうなの? いつ?」


「少し前ですね」


「ふーん。私、今日知った」


「楠木さんは、ちょっと近寄りがたいですから。そういうの、なかなか耳に入ってこないんでしょうね」


店員が水を二つテーブルに置いた。そこで、自分はこの男に何を言わせようとしているのか、と考える。そんな言葉、口に出させたところで、どうするつもりもないくせに。


「確かに、僕は楠木さんのことが好きですけどね」


「え?」


不意に思いもしないことを…いや、言わせようとした言葉が出てきてしまった。想像もできないほど、簡単に。


「僕の態度のせいですよね、変な噂が立ったのも」


「……えーっと。ごめん、なんだっけ?」


動揺させるはずが、自分が酷く動揺している。


「だから、僕のせいですよねって話です。すみませんでした」


「……うん。あ、いや。別に良いけどさ」


「良いんですか? 態度を改めろ、みたいなことを言われるのかと思いました」


「うん……別に、良いよ」


「てっきり、誘われたのも、このことで怒られるのかと思ってましたよ。今日、楠木さん凄い不機嫌だったし」


「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」


「あー、よかったー」


からかわれているのだろうか、と思った。なぜ、こんなにも当然のように「好き」という言葉を口に出してしまえるのだろうか。もしかして、彼の言う好きと言うのは、もっと「軽い感じの好き」なのかもしれない。友達に対する好きとか、ペットに対する好き、と同程度の。詩葉は一人で頭を悩ますが、畑山の方は「明日も仕事なのに大丈夫ですか?」と別の話に移行していた。


「あのさ、畑山くん。話を戻して悪いけど、私のことを好きってどういう意味?」


「え? 意味って、どういうことですか?」


「だから、その…」


「別に友達気分で好きとか、先輩として尊敬しているとか、そういう意味じゃありませんよ。あ、もちろん先輩としては尊敬していますが、それを好きと表すほど語彙力がないわけじゃありませんから」


「じゃあ、つまり…」


「何ですか? 楠木さんって、割とそういうの言わせたがるタイプですか? 恋人には毎日のように愛しているって言ってもらないと、満足できない、みたいな」


そうかもしれない、と思いながら、今はそんな話をしているのではない、とすぐに否定する。


「いや、全然違うけどさ。なんか、よくわからなくて」


「別に良いじゃないですか。僕は無理に交際してほしいとか、体の関係を持ちたいとか、そういうことを言っているわけじゃありませんから」


「じゃあ、どういうことなの?」


「ただ、好きってだけです」


「……」


困惑する詩葉に、畑山は首を傾げた。


「何か変ですか?」


「変じゃないけど」


変ではない。しかし、詩葉には理解できなかった。簡単に好きだと言えること、体の関係を求めているわけではない、と言うことが。


「そう言えば、今日は何であんなに不機嫌だったんですか?」


「あ、えーっとね」


なぜだったろうか、と混乱する。そうだ、畑山の言う通り、噂のことで苛立っていたのだ、と思い当たるが、今更そんなことを口にできなかった。なので、適当な理由を考える。


「中学のときの、同級生のことを思い出したの。そしたら、何か…むしゃくしゃしてさ」


「え、思い出しムカつきですか? それであれだけ不機嫌になるって酷いですよ。僕はあれだけ冷や冷やしていたのに」


畑山はおかしそうに笑う。普通であれば、そんなことで八つ当たりするな、と怒られても仕方がないだろう。しかし、畑山は積極的にその話題に耳を傾けようとした。


「どんな人だったんですか?」


「なんて言うか、素直な女の子だったんだ。私とは正反対で思っていることは口に出して、好きな人は好きって言うし、誰かが困っていれば迷うことなく助ける、みたいな」


小夜のことだ。詩葉は小夜に助けられたこともあった。


あれは確か、他の女子の策略によって、詩葉だけが合唱祭の練習に出なかったときのこと。詩葉は言われる通り、学校を出たことで事なきを得たらしい。それなのに、詩葉は恩を仇で返すようなことをしていた。どうしてだろうか。


「なるほど。確かに素直だからと言って、良い人とは限りませんよね。素直だから人を傷付けてしまったり、他人に窮屈な思いをさせてしまったり、そういうこともあると思います」


畑山はフォローのつもりか、そう言ってくれたが、小夜は悪人か善人かで言えば、善人に間違いなかった。


「悪いのは、私なんだけどね」


「楠木さんがですか? 正しいことの見本みたいな人なのに?」


「君は見る目がないね。私の表の部分だけだよ、それは」


「へえぇー。ちなみに、どんな裏があるんですか?」


「そうだねー」


稲庭と不倫関係になること。拓也の外見に異常な執着があること。それから……。それから、何だろう。何か重要なことを忘れている気がする。詩葉の手が自然と胸元のネックレスへと動いた。


「色々だよ」


「何ですか、一つだけでもいいから、教えてくださいよ」


「じゃあさ、畑山くんが今までした、一番悪いことを教えてくれたら考えてあげる」


「それ、考えるだけのパターンですよね」


二人とも楽し気に笑った。確かに、付き合っていると思われても、おかしくはないだろう、と詩葉は思った。店を出て、駅まで二人で歩いた。酔ったせいで少し熱を持った頬に、雨上がりの風が涼しく、とても気持ちが良い。その爽やかな風は詩葉の心に差し込み、新しい変化の兆しを感じさせた。


「私、ちょっと心を入れ替えるよ」


「どういうことですか?」


「悪いところ、直す」


「あ、さっきの話ですね」


「うん。できると思う?」


「きっと、できますよ」


「じゃあ、私が悪いことしないように、ちゃんと見ててね」


「あ、良いですね。それっぽいです」


「調子に乗らないでよ?」と言って詩葉は笑った。


こうして、その日はただ楽しく飲んで帰ることになった。もし、畑山の顔がもう少し好みだったら、帰ろうとしなかったかもしれない。


「そういうところ、直さないとな」


駅のホームで電車を待ちながら、一人呟いた。すると、反対側のホームから視線を感じたような気がして顔を上げる。そこには一瞬だったが、黒い影が蠢いているように見えた。どこかで見たことがある、と記憶を辿った。


それが何だったのか、思い出しそうになったとき、電車が音を立てて、詩葉の前に停止した。彼女は十歳の誕生日、自分の部屋で会話したあの黒い影のことを、思い出すことはなかった。

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