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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第三章 楠木詩葉
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「楠木さんって、畑山くんと付き合っているの?」


「……はい?」


会社のトイレで、声をかけてきた先輩社員にそんなことを言われた。畑山とは、詩葉と同じ部署の後輩のことで、何の特徴もない平凡な男だ。寝不足のせいで頭が痛いのに、そんな意味不明なことを言われたものだから、詩葉はあまり見せない顔…つまりは不快感を露わにしてしまった。あまり見せない顔のせいで先輩社員は驚いたのか、苦笑いを浮かべている。詩葉は自らの感情を律して、質問に答えた。


「いえ、全くそんなことはありませんよ。誰がそんなこと言っているんですか?」


「誰って…噂よ。最近、畑山くんと楠木さんが異常に仲が良いって」


「仲が良いって…同じ部署なんだから、会話する機会が多いのは当然だと思いますけど」


「うーん。そういうのじゃないのよ。なんていうか、二人が話していると、周りの景色がお花畑になっている、というか」


「……ちょっと、意味が分かりません」


そう言いながら、先輩社員である彼女が何を言いたいのか、実は理解している。そして、新卒で入社してきたばかりの畑山が自分に好意を持っていることも分かっていた。


畑山は詩葉の部署に配属され、詩葉が仕事を教えている。最初は仕事のことで精一杯だった畑山だが、最近は少し余裕が出てきたのか、詩葉に対し女性としての興味を抱くようになっていた。ただ、稲庭のように積極的に誘ってくるようなことはない。毎日、詩葉と会話することが楽しい、と言わんばかりに笑顔を浮かべるのだ。何か用事があって声をかけると、飼い主に呼ばれた犬のように、ない尻尾を振ってこちらに駆け寄ってくる。そんな畑山のおめでたいオーラは、詩葉にもしっかりと見えているし、そんな状況を他の社員は、詩葉と畑山が二人で作り出している、と見えているらしい。


「私、そんなつもりはありません。もし他の方と同じ話になったら、私にその気はないことを言っていただけると助かります」


「へぇー、そうなんだ」


先輩社員は噂話の否定を約束はしてくれなかったが、納得してくれたらしく、少し肩を落として先にトイレを出て行った。詩葉もオフィスに戻るが、自分のデスクの隣に座る畑山が目についてしまう。


黙々と仕事をしている畑山を睨み付けたい気持ちになった。稲庭との関係が噂になるのだったらまだしも、畑山ではプライドを傷付けられたような気がしたのだ。確かに、顔は悪くないのかもしれないが、好みではない。詩葉の優越感を満たす相手とは言えなかった。


「すみません、楠木さん。これチェックしてもらえませんか?」と言って、畑山がチャットでファイルを送ってきた。


「……うん」


詩葉はそう答えるが、彼と会話をしたら、誰かがこちらに視線を向けているのではないか、と妙に心配になる。


彼が作成した資料をチェックするのは、詩葉の仕事だ。畑山は仕事は早いが、かなり荒い。詩葉はその逆でスピードはないが、正確なものを作ると評価されていた。だから、畑山が作ったものに対し、詩葉は大量に赤を付け、それを口頭で説明するのが日常になっている。しかし、あの噂を聞いてしまったら、そんな日常的な仕事もなんだか乗り気しないものだった。


「畑山くん。今良い?」


チェックを終えて畑山に声をかけると、彼は嬉しそうに返事をした。


「はい。今日は自信あったのですけど、ダメでした?」


「十五点だよ」


もちろん、百点満点中の十五点だ。


「うわー、厳しいですね」


「君が甘すぎるだけ。このファイル、開いて」


そうして、十五分ほどかけて畑山に仕事を教える。


「ありがとうございます。次は百点取れるように頑張りますね」


「君はいつも口だけ。期待できないかな」


「はぁ、頑張ります」


いつもであれば「うん、お願いね」で済ませるところだが、どこかトゲトゲしくなってしまう。やりにくい。


そのとき、ちょうど稲庭がオフィスに入ってきた。打ち合わせが終わったのだろう。朝方まで起きていたとは思えないほど、颯爽としている。稲庭がデスクに座ると、他の社員が次々と彼のもとへ行き、指示を仰いだり報告を行ったりする。流石、この会社を実質動かしているのは稲庭だ、と言われるだけあって、忙しそうだ。


「稲庭さん、凄いですねー」と畑山が呑気な声で言う。


詩葉の視線に気付いたのではないか、と少し焦った。


「畑山くんも少し見習うと良いよ」


「えー、僕には無理ですよ。もう脳みその仕組みから違うと思います」


「だとしたら、稲庭さんにないところを伸ばせるように努力したら?」


「しているつもりなんですけどねぇ」


「全然、成果見えてないからね」


「ですよね。黙ってやります」


稲庭の視線が一瞬、こちらに向けられた気がした。そう言えば、彼は自分と畑山の噂を聞いたことがあるのだろうか、と考える。聞いていたとしても、稲庭のことだから、それほど気にしないだろう。彼にとって、畑山なんて有象無象でしかないのだから。


詩葉は定時までの一時間、殆ど手が動かなかった。疲労が限界で、今にもデスクに突っ伏して眠ってしまいたいくらいだ。それでも、意識を保つことが仕事だと思って、目を閉じないように注意しながら、ただ座り続ける。定時の十分前、この時間は稲庭から誘いがあるかもしれない時間なので、詩葉はマメにスマホをチェックした。しかし、流石に今日はないらしく、早々と帰る準備を始める。


「あれ。楠木さん、今日早いですね」と畑山。


「うん。体調、あまり良くないから早めに帰る」


「そうなんですか? 心配ですし、駅まで送りましょうか?」


「平気。私の心配するくらいなら、自分の仕事のクオリティを心配して」


「なんか、いつもよりトゲがありますねー、今日は」


畑山の笑い声を背にしながら、早々とオフィスを出る。会社の規模は決して大きくなく、四十名ほど在籍しているが、その中でも詩葉は一番先に退社した。


外は雨だった。しかも、けっこう強く降っている。憂鬱な気持ちになりながら傘を広げ、詩葉は駅へと向かう。すると、視界にどこかで見たことがある姿が映った気がした。詩葉はその姿をまじまじと確認する前から、運命的な何かを感じた。自分の信じる運命が間違いないのなら、そこにいるのは詩葉がよく知っている人物が立っているはずだった。


詩葉は道の反対側にある、その人物へと視線を向け、自分の運命を確認した。そこにいたのは、拓也だ。強い雨の中、傘もささずに確かにそこに立っている。


詩葉は彼がそこにいることを予想していながらも、実際にその姿を見てしまうと思考が止まり、呆然としてしまった。なぜ、こんなところにいるのだろうか、と考える。昔、拓也のバイトがない日は、彼はよく迎えにきてくれることがあった。そんな過去の風景を幻として目にしているのではないか、と頭の半分は考え、もう半分は彼がここにいることを納得していた。きっと、また小夜と上手くいかなくなって、詩葉を求めているのだろう。


相変わらず、美しい顔をしている、と思った。あの男を自分のモノにしている間は、彼女の自尊心も満たされていた。また、彼が自分のもとに帰ってくるかもしれない、と思うと少しだけ気分が高揚してしまう。その反面、また時間が経ったら、他の女のもとへと去り、自分の自尊心を傷付けるのだと思うと、怒りが湧き上がった。


詩葉は雨の中、ただ突っ立って、拓也の姿を見つめる。彼が気付くまで、ただそこに立つことにした。


拓也がこちらに気付く。それと同時に、詩葉は目を逸らし、彼とは別の方向へと歩き出した。関わるつもりはない、という態度を背中で語ったつもりだ。しかし、詩葉は拓也が追ってくると確信があった。拓也は赤信号を無視しながら、こちらへと向かっているのか、何度もクラクションの音が鳴り響く。


「詩葉、待ってくれ!」


その声を背に受けながら、頬が緩みそうになるのを感じた。肩をつかまれ、振り向きつつ表情を整える。できるだけ、無表情に、拓也を軽蔑するような目を、作り出した。


「離してください。貴方なんて知りません」


「何言ってるんだよ。俺だよ」


「知りません。知っていたとしても、貴方の顔なんて見たくありません」


「……悪かった」


そう口では言うが、頭を下げるわけでもない。


「今更、謝ってほしいとか思っていませんけど」


「違うんだ。別れたんだよ、小夜とは!」


拓也の一言は、余計に詩葉の自尊心を傷付け、怒りを煽るものだった。


「はい? 貴方とあの人が別れたからって、私には何の関係もないんですけど。別れたと言えば、私が寄りを戻しましょうって言うとでも思うわけ?」


「ち、違う。そうじゃなけど、俺は…お前が好きなんだよ!」


恥ずかしげもなく、大きい声で、そんなことを言う。詩葉は恥ずかしい気持ちがあったが、悪い気持ちだけではなかった。


しかし、知った顔がすぐ近くを通り過ぎたことに気付く。向こうも目が合ってしまったことに気まずさを覚えたのか、僅かに頭を下げた。それは、今日トイレで話した、あの噂好きの先輩社員だった。


「聞けよ、詩葉!」


強引に肩をつかむ拓也。詩葉はそれを振り払うと、思いっきり拓也の頬を手の平で打った。そして、全速力で走り出す。駅の方に走ってしまえば、さっきの先輩社員に追い付いてしまうため、会社の方へ向かうしかなかった。


会社のすぐ近くまで走り、やっと振り返った。拓也の姿はない。追いかけてくるつもりは、ないのだろうか。少し落胆しつつも、きっと追いかけてくる、という確信もあった。だとしたら、もう少し拓也にダメージを与えたいと思った。稲庭と一緒にいるところを、見せつけてやろう、と考える。つまり、拓也にとって詩葉は、簡単には手が届かない存在になったのだ、と思わせようとしたのである。


スマホを取り出し、稲庭の番号をコールするが、応答はない。当然だ。稲庭は約束をしなければ、かなり残業するし、きっと今日は大人しく妻のもとに帰ることだろう。おかしいと思われるだろうが、オフィスまで戻ろうかとも思ったが、ちょうどそのとき、畑山が出てきた。


「あれ、楠木さん。どうしたんですか? だいぶ前に帰ったはずなのに」


「……突然で悪いんだけどさ、今から飲みに行かない?」


畑山が相手では、拓也の気を惹けないかもしれない。それでも、このまま拓也に捕まることは、受け入れがたいことだった。


「え、それこそどうしたんですか? 楠木さんに誘われるの、初めてな気がしますけど」


「そりゃそうだよ。会社の人に飲みに行こうなんて言ったことないし」


「なんか、悩みでもあるんですか?」


「良いから、行くの? 行かないの?」


焦る詩葉に、畑山はのんびりとした笑顔を見せた。


「楠木さんに誘われたなら、どこにでも行きますよ」

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