3
その日、詩葉さんは酷く鬱々としていた。僕はそんな彼女のことが気になって、何度も声をかけようとしたが、あからさまに避けられてしまった。それは、彼女が僕を求めることは、決してないのだ、と突き付けられているようでもあった。
彼女がまだまだ遠い存在なのだと自覚しなければならなかったその日、自分が通う大学に音楽室があることを知った。音大ではないし、格式高い大学でもないから、ピアノなんて置いてないだろう、と勝手に思い込んでいたが、初めて音楽室とピアノが存在すると知ったのである。それは傷付いた僕の心を癒すために、神が用意してくれたのではないか、とすら思った。
誰もいない音楽室だったが、使われていないわけでもなく、掃除は行き届いていた。真っ黒なグランドピアノ。それを見ただけで、暗い気持ちに少しだけ爽やかな風が吹いた気がした。きっと、信頼する旧友に再会したときの気分が、こんな感じなのだろう。
僕は椅子に腰を下ろし、指先で鍵盤に触れた。ピアノの中に広がる宇宙と、僕の頭がつながる。この感覚、どれだけ久しぶりだっただろうか。僕はその宇宙の美しさと、再会できた喜びを表現するつもりで、鍵盤を叩いた。
ここが大学だったこと、詩葉さんに避けられたことも忘れ、僕はピアノの宇宙の中を漂う。この世界であれば、怖くない。つらくない。心が乱されることもない。いじめられていた中学時代、周りに溶け込むことができなかった高校時代も、ピアノがあったから、僕は心が曇り切ることはなかった。そして、詩葉さんに出会うことができた。
だから、詩葉さんにどれだけ冷たくされても、数日後に今日のことを思い出して落ち込むことになったとしても、これがあれば一度リセットできる。そんなことを頭の片隅で考えながら、僕はピアノを弾き続けた。
無限のような時間が過ぎて、何がきっかけだったのか、僕は手を止めた。鍵盤から手を離し、僕は僕がいる世界に戻ってきた。そこには何もない。安らぎも喜びもない、ただ無機質な世界で、僕は自分の体の重みを感じた。ピアノを弾いているときは、僕はこの重たい世界から遠いところで自由を感じていたはずなのに、少し手を止めてしまっただけで、この通りだ。何をしても僕は現実から抜け出すことはできない。
何気なく窓の方を見る。硝子はすべて橙色に染まり、夕暮れだということに気付かされた。分かっていたことだけれど、時間を忘れて、ピアノを弾いていた。これだけ時間を忘れて何かに没頭したのは、久しぶりだった。
「ここにも救いはないか」と誰にともなく呟き、僕は音楽室を出た。
いつまでも、現実逃避をしたところで、何も変わらないと知った僕は、大人しく家路につくことにした。音楽室がある棟から外へ出ようとした、そのときだった。
上から何かが落ちてきた。頭上に物が落ちてくるなんて、滅多にあることではないし、大きさも宙を浮くレベルのものではないとしたら、驚くのも仕方がないだろう。
そして、それはとてつもない衝撃音と共に、地面に激突した。それが人であることに、暫く気付かなかった。気付かなかった、というよりは、あまりに非現実的なことだったので、信じられなかったのだ。恐らくは、誰かが故意なのか、誤ってか、この棟の上から落ちてきたのだ。大学の中でも人気のない場所なので、落ちてきた人物に息があるとしたら、助けられるのは僕だけだ。
「だ、大丈夫ですか?」と僕は駆け寄りながら、震える声を絞り出した。
幸い、この棟は三階建てだから、きっと打ちどころが悪くなければ、無事なはずだ。倒れたまま動かない、その人物に近寄る。まず目に付いたのは、明るい金色の髪の毛だった。こんなに派手な頭をした人が、大学にいただろうか、というくらいに派手で目立つ髪だが、部分的に真っ赤に染まっていることに気付く。やはり頭を打ったのだ。
「あ、あ…ああ」と僕は動揺のあまり声が出なくなってしまった。
しかし、自分が何かをしなければ、もっと大参事になってしまうかもしれない。冷静に、と言い聞かせ、携帯電話を取り出す。
「救急車だ。えっと、どうやってやるんだ。なんだっけ!」
動揺のあまり、脳が混乱し、携帯電話の操作方法を忘れてしまった。
「いたたた……」
慌てる僕の前で、その人物が動き出す。意識がある、死んではいない、ということに驚きながら少し安堵する。
「い、いま救急車を呼びます! う、動かないで」
「痛いよぉ…」
「無理に立たないでください! 動かない方が良いらしいですよ、こういうときは!」
「……え~? 大丈夫だよ、これくらい。痛いけど」
その女性は頭を抑えながら、顔を上げた。そこで初めて彼女の顔をはっきり見た。大きな瞳に、日本人離れした白い肌は、外国人かと思わせるほどだった。
「大丈夫なわけがないです。救急車を!」
「大丈夫だって! 救急車はやめて。そっちの方が困るんだってばぁ」
そう言うと、その女性は三階から落ちて頭を打ったとは思えない速さで動くと、僕の携帯電話を奪い取った。
「な、なにを?」
「本当に痛いんだよ、私は。このままじゃ、死んじゃうかもしれない。ほら見て、涙」
「だから救急車を…呼ばないと!」
「それより、お腹の方が…。あれ、何か君、美味しそうな匂いするね」
「な、何を言っているんですか? 早くスマホ、返して!」
慌てる僕に、彼女は呑気な口調で呑気なことを言う。
「だから救急車とか困るんだってば…でも、この痛みはけっこうまずいな。本当に死んじゃうかも」
女性は頭を抑えていたが、出血量を確認するかのように手の平を見た。真っ赤である。しかし、女性は自らの身に起こったことと理解していないのでは、というほどに冷静だった。
「まずいなぁ」
「そりゃそうですよ、そんなに血が出てたら!」
こんな大量の血なんて見たことないので、僕の方が貧血で倒れてしまいそうだ。携帯電話を取り返そうとする僕だが、女性は僕の動きを先読みするかのように、華麗なステップで身を躱す。
「遊んでいる場合じゃないですよ! 早く病院行かないと!」
怒鳴りつける僕に、女性は流石に驚いたらしく、少しだけ身を退いて「わ、わかったよ」と言った。
「うーん、でもなぁ」
「でも、じゃありません。早く、ケータイ返してください」
伸ばした僕の手を女性は決まり悪そうに見つめていた。そして、大きく溜め息を吐いた。
「……うん。仕方ない。誰だって死にたくないもの。ほんと、仕方ないよ」
どこか言い訳のように呟く彼女に違和感を覚えたが、それよりも説得が先だった。
「そうですよ。観念してください」
やっと携帯電話を返してもらえる、と思ったが、彼女は人差し指を立てると、こんなことを言うのだった。
「じゃあ、一つだけお願い聞いて。そしたら、これ返すから」
「はいはい! 分かりましたから、早く!」
「え、本当? 同意の元だからね?」
「分かったから、早くしてくださいって!」
「やった! じゃあね、お願いなんだけど…」
彼女は僕の右の手首を掴むと、反対の手に握った携帯電話を差し出した。僕は自然と左手でそれを受け取ろうとした。僕が携帯電話を掴むと、彼女は素早く僕の左の手首も拘束して、一瞬、悪魔のような笑みを見せた。そして、彼女の瞳が僅かに赤く染まると、信じられないことを言った。
「悪いけど、君のことを食べさせてね」
彼女が僕に急接近する。唇に柔らかい感触。何が起こったのか、理解するまで…少し時間がかかった。
これが、僕のファーストキスであり、悪魔の苗床として種を植え付けられた瞬間でもあった。
その日、僕は色々なことがあり過ぎて、茫然自失の状態で家に帰ることになった。自室の前で、大学で何が起こったのかを振り返った。
まず一日中、詩葉さんは機嫌が悪く、僕を避けていた。これだけでも、僕の心には大きなダメージがあり、数日は休みたいという気持ちだったのだが、その後も一生のトラウマになりそうな出来事があったのだ。
女の人が、上から降ってきて…血まみれで…そして、キスをした。すると、彼女の傷は塞がり、何もなかったかのように、微笑んでいた。
そこからの記憶がなぜか曖昧だ。視界も靄がかかったように、何だかはっきりしない。頭もぼんやりとして、その女性とどうやって別れ、どうやって家まで帰ってきたのか、漠然としているのである。まるで、誰かが僕の体を操って、家まで誘導してくれたかのようなのだ。
本当に何だったのだろうか。血まみれだった彼女の頭は、傷一つなかった。なぜ、あれだけの血が流れていたはずなのに、彼女の傷は治っていたのだろうか。そして、なぜキスをしたのだろうか。分からない。いや、理解できるわけがない、何かが起こったとしか言いようがない。だとしたら、考えるだけ無駄だ。
取り敢えず眠ろう。何だかとても疲れている、と僕はドアを開けようと手を伸ばした。
「ここが君の家かぁ~」と突然、横から声がった。
僕は驚きながら、その方を見ると、先程の女性が立っていた。
「ど、どうしてここに…!」
「どうして、って…ずっと一緒だったじゃない」
「そうでしたっけ…?」
「うん。家に招いてやるって言ってたよ」
「それは絶対に言ってない!」
「そんなことよりさ、早く入れてよー」
「いやいや、どうしてそうなるんですか」
「だって、私…この頭じゃん?」
彼女は真っ赤に染まった頭を見せる。
「シャワーくらい浴びたいんだよねぇ」
もともと派手な金髪なのだから、赤くなったところで、別に問題ないのか、と思うのだけれど、そういう問題ではなかった。
「自分の家で浴びればいいじゃないですか」
「ねぇねぇ、こんな異常な女に帰る家があると思う?」
ここは大都会。少し奇抜な人を見かけないわけではない。その人たちだって、帰る家がある方が多いはず。だから、少し異常に傷の治りが早い女の人がいたとしても、帰る家があっても、おかしくないはずだ。
「色々考えてくれたみたいだけど、とにかく私には帰る家がないの。お願い、取り敢えずシャワーだけでも良いから」
こんなに怪しい人間を家に入れるのは、少し抵抗があるわけだが、彼女の怪我の具合も気になるし、僕自身が疲れ切っていて、これ以上の押し問答が面倒ということもあり、最終的には彼女を家に入れることになった。
仕方なく僕は彼女を家に入れたのだが、即座に恥ずかしげもなく服を脱ぎだすものだから、僕は乙女のように手の平で視界を覆うことになった。
「じゃあ、お借りするよ」と言って彼女はバスルームに入って行った。
彼女がシャワーを浴びる音が、バスルームから漏れてくる。そのとき僕は、自宅に女性がいる、ということに緊張で手が震えた。いや、何かするつもりだったわけではないのだけれど、自分の部屋に裸の女性が存在している、ということが、経験の少ない僕には刺激が強すぎた。
彼女が脱ぎ捨てた服は、血で染まっていた。シャワーを浴びて、これをまた着るのは抵抗があるだろう、と僕はそれを片づけることにした。その中には下着もあった。自分の家に女性物の下着がある、というだけで、僕は異世界に迷い込んだような気持ちになった。
「あの、頭の傷…大丈夫ですか?」
シャワーから出た彼女に、僕は改めて聞いた。僕の服を女性が着ている、というのは、やはり不思議な気持ちだった。
「うん。もう治ったから平気」
「そ、そうですか」
「君こそ、平気?」と彼女は言った。
「え? はい、僕は特に飛び降りたりしていないので」
「ふーん。具合悪かったりしないの?」
「具合ですか? そう言えば……何か凄い疲れているな」
そういえば、頭が重い気がした。色々あったから疲労を感じているのかもしれない。
「私のせいだよね、やっぱり…」
「いやいや、今日は色々あったので…」
きっと、心身ともに疲れ果てていたのだ。
「だから、別に貴方のせいと言うわけではないですよ」
「小夜」
「え?」
「貴方、じゃなくて、小夜って呼んで。それが名前なの」
このとき、僕は初めて彼女の名を知ることになった。雨宮小夜。それが名前なのだ、と。名前を知れば、少しは彼女…小夜の人となりを理解できるかもしれない、と思ったが、決してそんなことはなかった。彼女と会話をすればするほど、小夜が不思議な人間だ、としか思えなかったのである。
まず彼女は不思議なことに、携帯電話も持っていなければ、財布すら持っていなかった。密入国でもしてきた犯罪者なのでは、と疑ったが、日本語は達者だし、日本の文化に不慣れな様子もない。不審ではあったが、このときは、まさか人間ですらない、とまでは思いもしなかった。
もう一点、僕は彼女に不思議な気持ちを抱いていた。
「あの、どこかで会ったことありました?」
僕は彼女の風貌や雰囲気に、どこか馴染みある感覚があったのだ。
「そう言えば、私も君の顔を見たことがある気がするなぁ」と彼女も首を傾げた。
「うーん、誰かに似ているような」
「運命の再会かもしれないね」
「それはないと思いますけど…」
僕たちはその不思議な感覚の正体がつかめず、それについては言及しないことにした。
「えっと、雨宮さんは」
「小夜」
「あ、はい。雨宮小夜さん、ですよね。それで、雨宮さんは…」
「だから、小夜だってば。最近はずっとそう呼ばれていたの。だから、君もそう呼んで」
「年上の女性を呼び捨てにするのは、ちょっと抵抗があるんで」
「良いよ、私のことなんてペットとか奴隷みたいに思ってくれれば」
「ペットか奴隷…?」
小夜の言葉は、良くない妄想力を掻き立てる力があった。それに、彼女は僕が貸した薄いシャツにハーフパンツしか着ていない。しかも、もちろん僕は女性ものの下着を持っていないので、彼女はかなり無防備な状態なのである。しかし、僕は自制心を駆使して、何とか紳士的であろうとした。
「その…小夜はこれからどうするんですか? 帰る家がない、というのは本当ですか?」
「そんな丁寧な口調、やめてよー。ペットか奴隷に、そんな喋り方する人、いる?」
「その、ペットか奴隷って、やめてもらえます?」
「何で? とにかく変に改まった喋り方されるのは嫌。普通に話して。そうしないと、何も答えないし、ずっと居座り続けるよ」
本当に変わった人だ、と思った。この人はたぶん働いている年齢なのだうけど、ちゃんと生活できているのだろうか。それとも、本当に一文無しで家もないのだろうか。
たくさんの疑問が思い浮かんだが、デリケートな問題かもしれないので、何をどうやって聞くのか思案していると、今まで味わったことのないような空腹に襲われた。そういえば昼から何も食べていなかったし、何だかんだ時間も遅くなっている。空腹だけではなく、少し目が霞んでいる気がした。色々あった日だ。やはり疲れているのかもしれない。まずは腹ごしらえをしてから、この変わった女性への尋問を再開することにした。
「あの、腹減りません?」
気を使ってやったつもりだが、無視である。どうやら、本当に丁寧に喋っては言葉を交わすつもりはないらしい。
「腹減ってる?」と僕は折れることにした。
「……少し」と彼女は短く答えたので、僕はほっとする。
「コンビニで何か買ってくるけど、好きなものとか、ある?」
「別に……ない」
その反応に僕は心の中で首を傾げた。図々しくも人の家に上がり込んでシャワーまで浴びてリラックスしているような人間なのだから、食べ物についても何かと注文してくると思っていたのだ。それが、遠慮しているのか、特に注文がない。
「とにかく、何か買ってくるから。待ってて」
「はーい」
その返事は確かにペットを思わせるものだった。
部屋を出て、一人夜の街を歩き、すぐ近くのコンビニへと向かった。疲労も感じるし、空腹も感じているが、どこか足取りは軽い。昼間あった嫌な出来事を忘れたわけではないのだけれど、気分が高揚しているようで、何ともおかしな感じだった。いや、きっと夜のコンビニという、静かな世界に煌々と明かりを放つ存在に、やや気持ちが浮き立っているだけに違いない。そう言い聞かせたが、僕がいつも寝るベッドの上で女の子座りをしていた小夜の姿が頭に浮かぶ。
なんだか、突然僕にもドラマチックな出来事が起こり始めたのかもしれない。これから、楽しい大学生活がやってくるのだろうか。そう思うと買い物が楽しくて、ついつい色々なものを籠の中に入れてしまった。
買い物を終え、家まで歩く三分ほどの時間で、僕は何かがおかしい、と思った。いや、おかしい状況であることはもちろんなのだが、こんな特別なシチュエーションが、平凡で何の努力もしてなかった僕に降りかかってくだろうか、という考えに至ったのである。
これは、罠ではないだろうか。例えば、彼女は奇抜な手段で部屋に入り込み、金目のものを盗って行く泥棒だとか。帰ったら、金目のものはすべてなくなっているかもしれない。とは言え、僕の全財産は今手にしている財布の中にすべて収まっているし、どう見ても金の匂いがしない僕をターゲットにする泥棒がいるだろうか。
いや、泥棒ではなくて、美人局というやつではないか。僕が彼女と部屋に二人きりでいると、急に怖い人が入ってきて「俺の女に何してるんじゃ!」と有り金すべて奪われ、さらに何か理由をつけて借金まみれにさせられてしまうのだ。僕自身もどこかに売り飛ばされ、強制労働させられるかもしれない。だとしても、彼女は携帯電話すら持っていない。怖い男を呼び込むにも連絡手段がないのではないか。公衆電話だって、このご時世では簡単に見つからないはずだ。
いやいや、もしかしたら、僕は詩葉さんに冷たくされたせいで、ショックのあまり変な幻覚を見ていたのかもしれない。部屋に戻ったら、雨宮小夜なんて言う存在は跡形もなかった、ということもあり得る。
僕は少し速足で戻り、部屋の前で一呼吸を置いた。この扉を開き、何が起こったとしても、迅速かつ真摯に対応しよう。そう誓ったのだ。
「いざ」と声を出し、扉を開ける。
「あ、お帰りなさーい」
小夜は普通にいた。外に出た様子もないし、何かを物色した様子もなければ、強面の人を呼び込んだ形跡もない。
「早かったね」
「すぐ近くだったから」
僕はこの怪しさしかない謎の女をどう扱うべきか、頭をフル回転させたが、何も結論は出ず、それよりも耐えきれない空腹に負けた。まずは腹ごしらえということで、コンビニで買ったものを広げた。小夜には女性が好みそうなパスタとかオムライスを買ってきたのだけれど、あまり興味を示さず、甘そうなカフェオレを見て「これ飲んでいい?」と目を輝かせた。
僕が食事する間、彼女はカフェオレとゼリーしか食べなかった。
「お腹空いてないの?」
僕の疑問に彼女は「うーん」と曖昧な笑顔を見せる。
「まぁ、大丈夫なのよ。取り合えず、食べてよ。お腹空いてるでしょ?」
「うん、まぁ……」
確かに、僕はとてつもなく空腹だった。すでに弁当は二つ目だったし、小夜が食べない、と言ったパスタとオムライスにも非常に強い興味を持った。何度聞いても小夜は食べない、と言うので、僕がすべて食べた。こんなに食べたのは、初めてだったかもしれない。腹が満たされると、次はとてつもない眠気に襲われた。
「あれ…なんだろう。眠いな」
「そうだよねそうだよね。眠ると良いよ。私も一緒に寝て良いよね?」
「え、泊まるんですか…?」
「うん。だって、ちょっと頭痛いし」
「え? 大丈夫?」
「たぶん、さっきのあれが治ってないのかなぁ。誰かさんが中途半端に助けたせいかも。どうせ助けるなら、家に泊めるくらい、当然だよねぇ」
「やっぱり病院に…」
「良いから良いから。寝れば治るよ。君も…えーと、名前は?」
「白川誠です」
「そうそう、まこちゃんね。お互い疲れているわけだし、早々に寝ようね」
女性を部屋に泊める、ということは、こんなにも簡単に許してはならないはずなのだが、いかんせん眠気が強く、考えることが苦痛でしかなかった。しかも、初対面の相手に何て馴れ馴れしい呼び方なのだろう。
「……分かった。うん、一度寝てから考えよう」
「うんうん。明日できることなら、明日やれば良いよ。今日は寝ちゃおう」
「じゃあ、ベッドは好きに使っていいから」と僕は一人用の小さなソファで横になった。
「一緒に寝ないの?」
平然とそんなことを言う小夜に「い、一緒なんて無理だから!」と返事をして目を閉じた。ソファは小さいから寝心地は悪いが、何よりも女性と二人きりの部屋で眠れるわけがない。しかし、存外と言うべきか、すぐに僕は意識を失ってしまった。
そして僕は夢を見た。僕はどこかの家でピアノを弾いていた。知らない家の知らない部屋だ。その部屋はとても広いけど、床の中央に大きな穴が空いていた。二階の部屋らしいので、その穴を見下ろせば、一階にある部屋が見えるかと思った。しかし、その穴は真っ暗で、まるで底なしのようだった。
そんな妙な場所で、僕はいつものようにピアノを弾いて、別の宇宙を漂っていた。五感を失い、ピアノも消えて、ただ宙を浮いている。この世界であれば、他者は存在しない。だから、何も怖くないし、何も望まない。平穏だけがある、僕だけの世界だ。そのはずなのに、誰かの気配がそこにはあった。
「詩葉さん?」と僕は呟くように言った。
彼女がこの世界にくることは、決してないのに。ただ、女性の影が見えた、というだけで、僕は彼女の名前を呼んでいた。その影は僕に近付くと、手を伸ばす。その手は僕の頬に触れ、さらに近づいてきた。その女性の顔が露わになる。金色の髪、白い肌、爛々と光る赤い瞳。小夜だ。彼女が僕に口づけをする。
嗚呼、何て夢なんだ。
僕はずっと想い続けている女の人がいるのに、別の女の人とファーストキスをして、さらにこんな夢を見るなんて、なんて情けないのだろう。そうも思ったが、僕は小夜に身を任せることしかできなかった。
次の日、僕は酷い貧血状態に近い症状に悩まされ、一歩も動けなかった。
「まこちゃん」
小夜は当然のように僕のことをそう呼んだ。その気安さのおかげで、僕も彼女を「小夜」と呼ぶことに抵抗がなくなったのだけれど、どこかくすぐったさがあった。ソファで横になっていた僕は、目を開けてみると、小夜が遠慮がちな表情で僕の顔を覗き込んでいた。僕は慌てて起き上がろうとしたが、体が重くて動かない。
「ごめん、お腹空いた? 何か買ってくるけど、ちょっと頭が……」
風邪だろうか。とにかく、体調が悪かった。
「ううん、平気。お腹いっぱいだから」と彼女は言った。
昨日の夜、カフェオレとゼリーを少量食べただけなのに、なぜお腹いっぱいなのだろうか。夜中に隠れてつまみ食いをしたわけでもないだろうに。もしかしたら、体調が悪そうな僕に気を使っているのかもしれない。
僕は何とか身を起こして、ソファに座ると、小夜は無言で僕の横に座った。一人用のソファなので、もちろん体が密着する。
「えっと…それなら、ちょっと話をしても良い?」
僕の質問に小夜は小さく頷いた。
「小夜は、家出中なの?」
首を横に振る。
「独り暮らし?」
「ちょっと前までは一緒に住んでいる人がいたけど…死んじゃった」
僕は言葉に詰まった。恋人と同棲していたのだろうか。いや、旦那さんかもしれない。いやいや、普通に血の繋がったご両親かも知れない。ただ、きっと彼女にとって大切な人が亡くなったことには違いないだろう。
「それは……大変だったね。じゃあ、やっぱり一人暮らしってこと?」
「うーん。その日暮らしかな」
「家はないってこと?」
「そうそう」
こんな感じに小夜は、質問に対し、一つの情報しか返してくれなかった。次へ次へと先回りして説明してくれれば楽なのだが、彼女がどのような生活を送っているのか、理解するのはなかなか難しかった。
とにかく、彼女には帰る家はない、ということだけは事実らしい。それだけの情報に対し、僕は彼女をどうするべきなのか、全くと言って良いほど分からなかった。あれこれと一時間ほど質問し続けた結果、ただ困惑した表情を浮かべることしかできなかった僕に対し、ついに小夜の方から口を開いた。
「質問が終わったなら、今度は私から、良いかな?」
「良いけど…?」
小夜は突然、正座をすると、畏まった表情を見せる。一回りも年齢が下の彼女の実家で、お父さんに娘さんを下さい、と言い出すような…そんな緊張感があった。
「まこちゃん。私、実を言うと、とてもまどろっこしいことが嫌いな性格だから、はっきりと言います」
「は、はい」
「これは相談であり、お願いでもあるけれど、実際のところは既に決まってしまった事実を言葉にして、約束…と言うよりは、ただ了承…もしくは、運命を受け入れるだけのことだから、それは理解してね」
「どういうこと?」
「とにかく、うん、って言えば良いの」
「……うん」
小夜は僕の返事に対して、二度も深く頷くと、大きく深呼吸をし、その相談でありお願いであり事実であることを口にした。
「これから、私はまこちゃんと同棲生活をします。これは決定です。私にもまこちゃんにも、拒否する、という選択肢は、ありません!」
「……え?」
僕がこのとき口にした「え?」は、さらなる説明を求める、という意味だったが、彼女はそれで話は終わったと言わんばかりに、ベッドの方へ移動すると横になってしまった。
「ちょ、ちょっと。どういうこと? お願いにも相談にもなってないじゃん。ただの一方的な宣言だよ、それじゃ」
「そうだよ、そうなんだけどさ。それでも、私は申し訳ない気持ちがあるんだよ。だから、相談でもあるし、お願いでもあるの。ただ、まこちゃんはそんな私の相談やお願いに対し、ノーとは言わない。言えないと思う。なので、私は了承してもらった、と認識して、ここは眠ります」
「いやいや、意味が分からない!」
「とにかく、寝よう。まこちゃんも、具合悪いんでしょう?」
「それはそうだけど、もう少し説明してもらわないと、分からないんだってば」
「それはそうかもしれないけど、たぶん説明しても信じてもらえないよ。まこちゃんが元気になったら、ちゃんと説明するから、今はとにかく眠って」
「……そんな」
色々と追及したいところだったが、小夜は聞く耳を持たず、眠ってしまった。僕は仕方なく、一人用のソファでまた横になる。こんな寝心地の悪い場所で眠れるものか、と昨日の夜と同じことを思ったが、やはり僕はすぐに眠りについた。今度は夢すら見ることなく。
次に目が覚めると、もう夜の八時だった。昨日の夜、寝る時間が遅かったとは言え、今日一日が睡眠だけで殆ど終わってしまった。しかし、そのせいか異様な具合悪さは消えて、普段の状態と変わらないくらいに回復していた。
さて、目覚めたからには、今度こそ小夜に色々と話してもらわなければ、と彼女の姿を探した。しかし、ベッドはもちろん浴室、トイレにも見当たらない。狭い部屋だ。隠れる場所なんてないのだ。彼女は僕が眠っている間に、消えてしまったのだ。
「なんだよ、同棲生活をするなんて言っておいて、結局帰ったのか…」
彼女がいなくなったのなら、それはそれで良いじゃないか、と思ったが、同時にそんなに甘いものではないだろう、とも思った。現実の厳しさを実感するために、自分のバッグを探ってみたところ、やはり僕の全財産が入った財布がなくなっていた。小金を手に入れるためにしては、大掛かりなことをする女だった。そう思って、僕は項垂れることしかできなかった。
僕なんて、そんなものだろう。もう一度、眠り付こうと僕はベッドで横になる。小夜が残した香りだろうか。良い匂いがした。しかし、そんなものは夢だったのだ。忘れよう。そう自分に言い聞かせた。
僕の決意に反し、それから五分もすると、小夜が戻ってきた。
「あ、まこちゃん。起きたんだ」
彼女は僕の服を着て出掛けていたらしく、腕にはスーパーの袋を下げていた。
「お金ちょっともらったよ。すぐご飯にするから、待っててね」
小夜が差し出した財布を受け取る。中身は確かに千円と少し減った程度のようだった。
「ご飯って?」
「えー、お腹空いてないの?」
そう言えば、昨日の夜から何も食べていない。そう認識すると、一気に空腹を感じ、胃が悲鳴を上げた。
「ほら、何か食べないと」
それから、小夜は手際よく夕飯の準備をした。何となくだけど、小夜は料理が得意なタイプには見えなかったので、僕は大きく感心した。
三十分もすれば、一人暮らしの男性にとっては、なかなかあり付くことがない、温かみのある食事が僕の前に並んだ。僕はそれを見て、途方もないような空腹感を覚えた。早速、箸を付けたいところだったが、なぜか小夜の前には何もない。てっきり僕は二人で夕飯を食べるものだと思っていたのである。
「小夜はお腹空いてないの?」
「うーん。私は後でいただくから大丈夫」
なぜ、後なのだろうか。疑問ではあったが、僕は空腹と目の前に広がる食事の誘惑には勝てず、食べることに集中した。小夜は何が嬉しいのか、にこにこと食べる僕を見つめていたので、途中何度も食事を止め「あの、見られていると食べにくいです」と主張することになった。
食事を平らげると、僕は満足感を得て、ますます体調が回復したことを実感した。
「まこちゃん、どうだった?」
「お腹いっぱい。美味しかったです」
僕の言葉を聞いて、小夜は満足気に頷くと、今度は神妙な面持ちで言う。
「それでだよ、まこちゃん」
「あ、うん」
僕はこのまま満足して、話すべきことを忘れてしまうところだったが、意外にも小夜の方からそれを切り出した。
「まこちゃん、世の中には上手く行くこともあれば、上手く行かないこともあるよね。嬉しいこともあれば、悲しいこともある。予想通りのこともあれば、想定してなかった出来事に出くわすこともあるよね。人生は一寸先は闇だし、人間万事塞翁が馬とも言うわけで、この先何が起こるか分からないけれど、何がどうひっくり返っても、それは物理法則のなれの果てであったり、科学的に証明できる事象の結果でしかない。そういう現実的なものに、人は常に支配されている、ということは、もちろんまこちゃんも感じているよね?」
前のめりで雄弁に語る小夜は、これまでに受けたのんびりとした印象とは違い、意外にも知性的なタイプなのでは、と思わせた。
「う、うん。たぶん。何ていうか、世の中には何が起こるか分からないけど、非現実的な出来事はない、ってことかな?」
「そう、そういうこと。この世の中では…九割九分九厘は現実的なものだけど、残りの僅かに、ちょっと説明できない不思議なこともある。まこちゃんなら、そういうことも、理解できるよね?」
「た、たぶん。超常現象みたいなものが、ないとは、決して言い切れない、と僕も思うよ」
そうは言っても、僕は今まで奇妙な体験をしたことはないし、実際に霊とか奇跡とか信じているかどうか、と言われたら、曖昧なところではあった。ただ、父のピアノは奇跡に近い何かは感じられる。僕にとっての不思議や非現実的な何か、というのは、その程度の認識でしかない。だけど、小夜は僕の返事に満足したように頷く。
「それを踏まえてね、今から私が何者であるのかを発表するよ。心して聞いてね」
「は、はい」
「実はね、私…」
小夜の目は真剣だった。これは何を言っても、僕は彼女を信じなければならない。彼女の真剣な気持ちを受け止めなければならない。そう思うほどに。
「私、悪魔、なんだよ」
「……あ、悪魔?」
頷く小夜。硬直する僕。数秒、沈黙が流れた後、僕は言った。
「いやいやいやいや、それはないよ!」
「だ、だよねー。やっぱり信じないよねぇ」と小夜は肩を落とした。
「当然だよ。あれだけの前振りで、そんな現実味のないウソ言われてもさ」
「信じられないのは分かるけどさ、ウソじゃないよ、まこちゃん」
「またまたー」
もちろん、小夜はウソなんて吐いていなかったのだと、後に知ることになるのだが、少し家庭環境が特殊と言うだけで、二十年間も堅実かつ平凡な生き方をしていた僕にとって、そんな話はとても受け入れがたいものだったのだ。いや、僕以外の人間だって簡単には受け入れることはできないはずだ。
「そうじゃなくてね。さっきまでまこちゃんが具合悪かったのは、疲れているからとかね、風邪を引いたとかじゃなくてね、私が原因なんだよね」
「……どういうこと? 今度は自分が人間ウィルス兵器だとか言い出すの?」
「冗談じゃないんだって。えーっとね、何て説明すれば良いのかな……。私、実はもう二百年以上は生きている悪魔でね、不老不死ってやつなの。あ、でもね、お腹が減ったら死んじゃうのね。で、そのご飯って言うのが、普通の人間とは違ってね、男性からしかもらえないの」
「なに? 小夜ってもしかして、ファンタジーとか好きだったりするの?」
「そうじゃなくてさー。ほら、私とキスしたら、何か凄い疲れたでしょ? あれね、私がまこちゃんから体力っていうか、エネルギーっていうかね、精力を吸い取ったの」
「あははは、面白いね。確かにあれは凄い疲れたよ。あまり食べ過ぎはダメだよ」
小夜の話を妄想としか思えなかった僕は笑い飛ばすが、小夜はそれが気に入らず、眉間を寄せて小さく唸った。
「あああ、もう面倒くさい!」
小夜は頭を抱えたが、何か思い当たることでもあったのか、突然冷静になると僕に手招きする。
「なに?」
何か小さい声で囁いているようなので、僕は耳を彼女に近づけた。すると、突然に顎をつかまれ、無理矢理と顔の角度を変えられた。目の前に小夜の瞳。ただ、それは神秘的に赤く光っている。それに対し、僕がどうこう言う前に、小夜の唇が僕に触れた。
抵抗ができなかった。なぜか、力が入らなかったのである。小夜の唇が離れると、急に頭が真っ白になる。そして、僕はひっくり返るように背中から床に倒れた。
「どうかな、まこちゃん」と赤い瞳の彼女が言う。
「こ、これは…」
「実感してもらうために、ちょっと多めにもらったんだけど。あ、大丈夫?」
大丈夫ではなかった。意識が薄れて行く。そんな中、僅かに彼女の声が聞こえた。
「やばいなぁ、致死量もらってしまったかも…」
信じられない、という言葉で頭がいっぱいになった頃、僕は意識を失った。
信じられないことではあるが、このように意識を失った以上、有り得ることかもしれない、と僕は起きてから思った。