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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第三章 楠木詩葉
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1

物音が聞こえた。


十歳の誕生日を迎えた詩葉だったが、今日は家に一人だった。父はいつものように、仕事で帰ってこなかったし、母は詩葉が寝室に入ったことを確認すると、音を立てないように家を出て行った。


だから、詩葉は家に一人のはずだった。それなのに、部屋の外の廊下から、誰かの気配がする。


珍しいことに、父が帰ってきたのだろうか、とも思った。娘の誕生日くらいは顔を出そうと言う、父親らしい考えが、彼にも残っていたのかもしれない。だとしたら、父が可哀想だった。父が帰らないことを良いことに、母は夜な夜などこかへと出かけているのだから。だから、詩葉は父にちゃんと礼を言おうと、部屋を出た。暗い廊下の向こうには、確かに誰かの気配があった。


「お父さん?」と詩葉は呼びかける。


気配が止まった。だがそれは、声に反応し動きを止めたに違いなかった。まるで、何かの自然現象に近い、人らしからぬ気配だったのだ。


「お父さん」ともう一度、声をかけてみる。


すると、その気配はこちらに近づいてきた。だが、やはり父ではなく、人ですらなかった。ただの暗闇だ。暗闇が集合し、人の形をしたもの。それがこちらに迫ってくる。


詩葉は声が出ないほど慄き、身を守るためにドアを閉めた。誰も入ってこれないよう、力を込めてドアを抑える。詩葉は、ただドアノブを握りしめ、あの黒い何かが、自分に迫らないよう、身の安全を祈るばかりだった。


「詩葉」


部屋の中には、誰もいないはずなのに、それは内側から声をかけてきたのだった。あの黒い何かが、室内に入り込んだとしか、考えられなかった。


「お母さんは、どうしたの?」


何者かは分からない。だけど、母の知り合いのようだった。詩葉は逃げ出そうとしたが、恐怖のあまり全身に力が入らず、その場に座り込んでしまった。


「お母さんがいないね。どこかへ、出掛けたの?」


「あ、あ…」


声が出ない。しかし、質問に答えなければ、食べられてしまうのではないか、という恐怖もあった。


「お母さん、出掛けた…」と何とか声を絞り出す。


詩葉の精一杯の返答に、相手は黙り込んだ。闇に紛れた相手が、沈黙してしまえば、そこにいるのかいないのか、分からなくなってしまう。


「どこに、行ったのかな?」


しばらくの沈黙の後、それは再び尋ねてきた。


「お、お兄さんのところ」


「お兄さん?」


お兄さんとは、詩葉と血が繋がった兄、ということではない。彼女は一人っ子だ。お兄さんとは、母が最近よく口にする人物のこと。詩葉も何度も顔を見ているし、母と三人で旅行に行ったことだってある。お兄さんは背が高く、顔も整った、まるでテレビで歌ったり踊ったりする男の子のような人で、母の「お友達」らしい。まだ、ダイガクセイで母とは十歳以上離れているらしく、ショクバで出会ったとか。


「お兄さんという人は、お母さんと仲が良いの?」


詩葉は頷いた。


「詩葉も、そのお兄さんが、好きかい?」


詩葉は否定も肯定もしない。


「べつに。でも…」と言葉を区切る。


暗闇に潜むそれは、詩葉の言葉を待っていた。


「嫌いでは、ないです。カッコイイし、一緒に歩いてたら、たぶん自慢になるから。それに、お母さんも、お兄さんがいれば、いつも機嫌、良いから」


「……お父さんは、好き?」


「……わからない」


どうして、と聞かれる前に、言葉が続いた。


「いつもお仕事ばかりで、帰ってきても、本ばかり読んでる。お母さんに怒られても、黙っているだけだし。それに…」


「お父さんがいると、お母さんが不機嫌?」


詩葉は頷いた。


「お父さん、大人の人の中ではあまり背も高くないみたいだし、いつも背中丸めて、かっこよくないの。お母さんが、嫌いなのも、分かる」


詩葉は父の姿を頭の中で再生した。仕事ばかりで帰らない父。帰ってくれば母に罵られ、言われるがままに家事を手伝うが上手く行かず、いつも怒られている。休みの日も遅くまで寝て、母の手伝いもしなければ、どこかに連れて行ってくれるわけではない。本当に格好悪い男だ。


「お母さんが、どうしてお父さんと結婚したのか、私には分からない。絵本みたいに、運命の人が現れて、迎えに来てくれたとしても、お父さんみたいな人だったら、私は絶対に嫌」


詩葉がもっと幼かった頃、よく読んだ絵本の内容を今でも思い出す。高い塔に閉じ込められてしまったお姫様。それを助けるのは、運命の糸を手繰り寄せて、遠くから駆けつけてくれた王子様なのだ。その王子様の背が低く、猫背で頼りない様子であったのなら、いくらなんでもがっかりだ。しかし、その絵本は昔、父が読み聞かせてくれたものだった。


「詩葉は」とそれは言う。


それが、部屋の中の、どのあたりにいるのかも分からない。それでも、睨み付けられているような、重たい圧迫感があった。


「詩葉は運命の人を信じている?」


「いたら、いいな…って思う」


「でも、その運命の人が、詩葉を不幸にする相手だとしたら?」


「……運命の相手と一緒なら、きっと幸せだと思う。優しくて、背が高くて、かっこよくて…それだけで、幸せだと思う」


それは、詩葉の言葉を聞いて、暫く黙っていた。表情がないので、何を考えているのかは、全くわからなかったが、やがてこんなことを言うのだった。


「……詩葉は、何が幸せなのか、ということを少し考えた方がいいかもしれないね。私は君の運命を変えるためにやってきたけど、このままでは何も理解できないかもしれない。幸せを幸せと思えないかもしれない。だとしたら、悪い運命を知って、反省するまで、不幸を味わった方が良いね」


そう言って、それが腕を伸ばしたのが分かった。それに、形があるかどうかも、分からなかったが、確かにそれは手を伸ばしたのだ。自分を捕まえようとしている。もし、捕まってしまったら、どうなってしまうのか…。


詩葉は恐怖よりも保身の気持ちが勝った。詩葉は立ち上がると、ドアを開けて部屋の外に飛び出す。逃げなければ。詩葉は階段を駆け下り、玄関から外に飛び出そうとした。


しかし、それと同時に玄関が開かれる。母が、帰ってきたのだ。いや、母だけではない。隣には、お兄さんも一緒だった。


母とお兄さんの姿を見て、恐怖と安心で詩葉は泣き出してしまった。


「あらあら、この子ったら怖い夢でも見たのかしら」


母は優し気な声を出すが、どこかうんざりしているのが分かった。お兄さんと一緒にいるとき、母は詩葉が限りなく大人しくなることを望む。泣き出してしまったら、後で不機嫌になるに違いないだろう。


「詩葉ちゃん、もう大丈夫だよ」


そんな母と子の事情も知らず、お兄さんは泣く詩葉を抱き上げた。お兄さんの服からは、いつも石鹸みたいな匂いがした。


「大丈夫。ただの夢だよ。僕がいるから大丈夫だよ。守ってあげるから、安心して」とお兄さんが言う。


母の目線を気にしながらも、お兄さんの言葉に、詩葉は少しだけ安心した。そうだ、きっとただの夢だ、と言い聞かせる。あの黒い影は「幸せにはなれない」と言ったが、そんなことはない、と否定する。


きっと、自身も母と同じように、お兄さんのようなかっこいい男の子と出会うのだ。これから、運命的な出会いをして、運命的に結ばれる。どんな困難があっても、きっと二人は結ばれるために、巡り合う。絵本のように。そして、幸せになるのだ。




「詩葉、シャワー浴びるぞ」


午前三時。そんな声で目が覚めた。職場から少し離れた場所にあるホテルで、詩葉はまどろみから覚める。体には、夢で見た幼い記憶と同じ、人の温もりが残っていた。でも、あの人のものではないのだ、と詩葉は自分に言い聞かせる。


「詩葉。目を覚ませよ」


詩葉が目を開くと、稲庭がこちらを見下ろしていた。眠たげな詩葉を見て、楽しそうに笑っている。良く日焼けた肌にしては、とても真っ白な歯が目立っていた。整った顔立ちに、適度に筋肉質な手足。見ていて、美しい、と思った。


そんな風に、詩葉がぼんやりと稲庭を見つめていると、笑われてしまう。


「いつもお堅いくせに、ベッドの上だと隙だらけだよな、詩葉は」


「……稲庭さん。水を取ってください」


詩葉の低い声に、稲庭はくすっと笑ってペットボトルを取った。詩葉はそれを差し出されたが「起こして」と甘えた声を出す。稲庭は程よく鍛えられた腕で詩葉を抱き起こすと、改めて水を差し出した。水を少し飲んでも、詩葉は頭がふわふわしたままなので、もう一度寝てしまいたいと思った。


「まだ朝まで時間、あるじゃないですか」


「馬鹿か、お前は。だからこそだよ。せっかく二人きりの時間なんだ。俺は一分でも無駄にしたくない」


「稲庭さんは、こんなときでも仕事中と変わりませんね」


「当然だ。俺は仕事もプライベートも、全力で楽しむと決めているからな」


「ふーん。だとしたら、奥さん相手にも、全力なんですか?」


「……それは」と稲庭は言い淀む。


「別に、答えなくても良いですよ」


詩葉はペットボトルを置いて、横になってしまった。


「おい、寝るのか?」


「寝ませんよ。だけど、あと一回にしてくださいよ」


「わかったわかった。なら、先にシャワー浴びているからな」


稲庭は全裸でバスルームの方へと消えた。詩葉は大きく溜め息を吐きながら、無意識に胸元に手をやる。いつもあるはずのネックレスがそこにはない。稲庭に外され、ナイトテーブルに置かれたのだった。詩葉は手を伸ばしてネックレスを手に取ると、いつものようにそれを弄んだ。そうやって気持ちを落ち着かせながら、何でこんなことになっているのだろうか、と考える。


稲庭は仕事の上司である。年齢は八つも上で、今年で三十三だ。上からの評判は良く、下からも慕われ、仕事は完璧にこなす。つまりは男からは尊敬の目で見られ、女からは憧れの目で見られるような存在なのだが、そんな彼は今、詩葉に夢中だった。時間さえあれば、彼女と一晩を過ごそうとする。美人の妻がいるそうだが、月に何度か出張があると言って、詩葉のために時間を作り、こうして朝まで過ごす。つまりは不倫だ。


不倫をするなんて、最低だ。よくそんな言葉を聞くが、詩葉はそれがよく分からなかった。小さい頃から、不倫というものが、自分のすぐ傍にあったからなのだろうか。お互いが、求めあっているのなら、仕方のないことではないか。そんな風に思ってしまうのだ。


それでも、一般的に悪いと言われることを、自分がしてしまうとは、思っていなかった。原因は、分かっている。児玉拓也だ。彼は、美しい男だった。人格も、仕事も、とても誉められたものではないが、ただ美しい男だった。


「俺は絶対に、お前をモノにする」


いつだか、拓也はそんなことを言った。でも、忘れられない彼女がいるようだ。


小夜。嫌いな女だ、と詩葉は思う。いつも媚びた声で、人の心に取り入ろうとする。あからさまな媚びた態度なのに、多くの人があの女を甘やかした。拓也もだ。だから、自分と別れて、あの女のもとへと去った。正確には、詩葉のもとを去って小夜のもとへ、小夜のもとを去って詩葉のもとへ…そんなことを繰り返しているのだ。


あんな女のところに戻りたいなんて、拓也は本当にダメな男だとしか、思えない。それでも、自分は彼に執着している。結局、あの美しい顔のことを、忘れられないのだ。拓也が自分のもとにいない時期は、暗い気持ちになる。あの男が、他の女に好きにされていること。自分があの女に劣っていると言われているようで、気分が悪かった。


そんなことを繰り返しているうちに、詩葉の気持ちは擦り減って行った。小夜のことはもちろん、拓也のことを考えることも、憂鬱で仕方なかったのだ。


そんなときに、タイミングよく声をかけてきたのが、稲庭だった。稲庭は詩葉が勤める会社の男たちの中で、最も整った顔をしていた。この男だったら、拓也への執着が、少しは薄れるかもれいない。そう思ってしまったのだ。


いつまでも、拓也の美しい顔に執着している自分。執着をエネルギーにして、拓也に尽くしてきたつもりだ。それなのに、納得される形で愛してもらえない。それでも、きっと…拓也と自分は運命で繋がっているはず。きっと、拓也は自分を選ぶ。だから、特定の男性と交際することはなく、稲庭との不倫関係の方が、いつでも彼を迎えるために都合が良い。


だけど……いつまで、こんなことを続けるのだろうか。


「もう良いかな」と詩葉はホテルのベッドで呟く。


もう、拓也が自分に執着しないなら…自分のもとに戻らないなら…自分も運命を信じられないかもしれない。


「詩葉、まだかー?」


バスルームから、稲庭の声がした。


「今、行きます」


そう言って、重い体を起こす。ネックレスをナイトテーブルに戻して、バスルームへと向かわなければならなかった。また稲庭の相手をして、朝になれば仕事に行かなければならない。


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