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それから、拓也は曲作りを真剣に打ち込んだ。
小夜からは、たまに連絡が入った。ちゃんと退院して、仕事に復帰し、頑張り過ぎないように働いている、と。不思議なことに、小夜が平凡な生活を送れば送るほど、拓也は曲作りに励めるのであった。
しかし、そのやる気に反して、曲は思うような形にはならなかった。思うように進んだとしても、完成後に改めて聞けば、酷く滑稽なものでしかない。それに追い打ちをかけるように、詩葉の就職活動が始まった。詩葉は大学にしっかり通っているし、人当たりも良い。相当に下手なことをしない限り、まともな就職先を見つけることに違いなかった。その状況は拓也を焦らせ、そして酷く苛立たせる。
そんな日々の中、拓也にとっての道標が、失われるような出来事があった。拓也が唯一、自分の才能を認めていると思っていた先輩が、音楽を辞めると言い出したのだ。
彼はアルバムを一枚、発表したが、決して良い結果を残せなかった。それを目の当たりにしたせいなのか、先輩は裏方に回ることにしたそうだ。
「こうなることは、分かっていた」と先輩は言った。
「どうしてですか! 先輩なら、もっと良い作品が作れるはずですよ! 貴方は才能がある。こんな簡単に、諦めないでくださいよ!」
拓也は引き止めた。それは先輩を引き止めたわけではない。自分の意思が崩れてしまうことを止めるために、必死だっただけだ。そんな拓也の潜在意識を笑うように、先輩は穏やかな顔で言うのだった。
「俺には、才能なんてないよ」
「そんなことは、ありませんよ。俺は、ずっと先輩の音楽を聴いてきました。貴方に、才能がないなんて、言わせませんよ。誰にも!」
先輩に才能がない。そう言われてしまったら、拓也自身も否定されたものと、同じだった。自分の才能を信じてくれたこの人に、センスがないなんて、誰にも言われなくなかった。
「ないんだよ、才能なんて。このアルバムを作って余計に実感した。作れば作るほど、限界しか見えなかった。だから、今回の作品も、記念に作っただけだったんだ。俺は、よくやったよ。ラッキーなことに、今後も音楽に携わる仕事は続けられる。裏方だけどな。それで十分だ。楽しかったよ、本当に」
「じゃあ……」
じゃあ、俺はどうすれば良いんですか?
そう言い掛けて、口を紡ぐ。それを口にしてしまったら、自分はこの人に寄りかかっていただけだ、と認めてしまうことになる。拓也は、拓也の才能を信じ続けなければならなかった。
「あと一回、記念にライブだけやる。お前も、協力してくれよ」と先輩は言った。
それきり、彼とこの件について、話すことはなかった。先輩を引き止めることは、できなかったのだ。拓也はその足でトイレの個室に入り、一人で黙々と考えた。確かに、先輩には才能がなかったのかもしれない。だからと言って、彼が他人の才能を見抜く能力がなかった、というわけではない。そう考え直した。彼に見い出された事実は、変わりがない。だから、自分はまだ、この道を続けられるはずだ。そんなことを考えていると、誰かがトイレに入ってきた。人数は二人。どうも先輩の話をしているらしかった。
「あの人、やっぱり続かなかったな。悪くなかったのに」
「仕方ないよ。あれで売れるか、って話になると難しいよ」
「そう言えば、いつも彼の横にいる、児玉くんっているだろ?」
「ああ、付き人みたいな、彼ね。お気に入りなんだろ?」
「そうそう」
突然、自分の話になったことに、心臓が跳ねそうになった。自分の音楽について、何か評価されるのだろうか、と期待と不安を同時に抱きながら、耳をそばだてる。
「あの児玉くん、って何で彼が、いつも傍に置かれてたか知ってる?」
「ああ、知ってる知ってる。好みのタイプだったんだろ?」
「そうそう。確かに顔は良いもんな、児玉くん。その気がある人にも、好かれるタイプとは思わなかったけどさ」
「児玉くんは、そのこと知らないみたいだけどね。あの人、児玉くんに知られることは、避けてたみたいだから」
「へぇー、それは知らなかったわ。離れ離れになるくらいだったら、想いは伝えない方が…ってことか。切ないねぇ」
気配が遠ざかり、会話は聞こえなくなった。拓也の止まっていた思考が、再び動き出す。
自分は、才能を認められたわけでは、なかった。ただ、自分の外見だけを見られていただけだった。そんな話があるだろうか。拓也の進む道を、肯定してくれる人間は、小夜だけになってしまった。
先輩のラストライブの日程が決まった。前回よりも大きな箱で、テレビでも活躍するバンドの前座だった。自分の音楽を奏でられる、最後の機会ということもあり、いつにも増して先輩は気合を入れいてる。きっと、業界人もくるだろう。もう一度、拓也もステージに立たせてもらえないだろうか、と考えた。どうせ、この人は自分の才能を見てくれはしない。だとしたら、可能な限り、利用できるだけ、利用するだけだった。サポートとして、ライブへの参加を申し出たが、先輩は首を横に振った。
「ダメだ」
そんな短い言葉で一蹴される。拓也は食い下がった。遠回しに、自分が今までどれだけ先輩の活動をサポートしてきたか、どれだけメンタルの部分でも支えてきたか、ということを伝え、ぜひチャンスを欲しいと主張したのだ。しかし、先輩の答えは変わらない。
ならば、どうして。そう問う拓也に彼は一度溜め息を吐いてから、はっきりと言うのだった。
「お前を傷付けたくはないが、今後のためにも言っておく。今回のライブは、俺にとっても最後なんだ。可能な限り、最高のパフォーマンスにしたい。だから、お前を起用するかどうか、ということに、お前がどれだけ俺に媚びたのか、ということは正直関係ない。お前は圧倒的にテクニックがないんだ。いや、テクニック以前の問題だ。基礎がなってない。正直、もう一度専門学校からやり直した方が良い。今回は俺も真剣なんだ。悪いけどな、足手まといの面倒は見ていられない」
愕然として、声も出なかった。そんなわけはない。俺には才能がある。確かに、テクニックはこいつの方が上だ。それは間違いないだろう。だが、根本にある才能やセンスは、俺の方が圧倒的のはずだ。
「お前は、俺と一緒にいても、メリットはない。これが良い機会だ。まだ表舞台でやりたいなら、他のところへ行け」
先輩なりの、拓也のためを思った、別れの言葉だった。拓也も決別を選んだ。自分の才能を認めてくれる、才能のある誰かを探そう。そう考えたのだった。
その日、詩葉がリクルートスーツで拓也の部屋を訪れてきたときのことである。詩葉は面接の手応えがあったらしく、達成感に満ちた顔をしていた。出版系の会社らしく、詩葉は「本の仕事に関われたら幸せだな」と言った。
「それで、拓也は進んでる?」
自分が話すだけ話したら、他人事のように聞いてくる詩葉が、少し気に入らなかった。
「別に、いつも通りだよ」
「……そっか」
拓也の苛立ちはあからさまだった。詩葉もそれを察したらしく、一度溜め息を吐いて言うのだった。
「ねぇ、拓也。一度、音楽を離れてみても良いんじゃない?」
「……はぁ?」
聞き捨てならない言葉だった。詩葉はどういうつもりなのか、その意味の分からない提案を続ける。
「私には音楽を作るってことは分からないけど、今の拓也には凄いプレッシャーになっているんじゃないかって思うの。だとしたら、ここは一度離れてみて、一度普通の仕事をしてみるもの良いんじゃないかな。そうすれば、今までと違う刺激を受けて、今までとは違うアイディアも浮かぶかもしれないし、それからでも遅くないと思うんだよね。だから、一度普通の企業に……」
拓也は目の前の机に拳を叩きつけた。詩葉は絶句する。
「お前に何が分かるんだよ!」
そして、感情のままに怒鳴りつけた。詩葉は暫く身を退いて黙っていたが、小さな声で「ごめん。帰るね」とだけ言って家を出た。
詩葉が出て行っても、拓也の怒りは収まらなかった。先輩が詩葉の音楽のセンスを誉めていたことが思い出される。卒業制作で拓也が作った部分ではなく、詩葉が作った部分ばかりが評価されていたことが思い出される。そして、棚の奥にしまったサングラスのことを思い出した。詩葉が止めなければ、あれを身に着けてライブに出たはずだ。そしたら、自分の評価はまた違うものになったかもしれない。そんなどうしようもないことを考える。
次の日、小夜と会うことになった。小夜と会うことは詩葉を不快にさせるだろうか、と考えたが、夕食を一緒に、というだけのことだったし、気晴らしにもなる。何よりも、昨日の腹立たしさが、まだ彼には残っていた。彼は棚の奥にあるサングラスを取り出し、夜の街に出た。
「拓也、そのサングラス…凄い似合っているよ!」
小夜は必ずそう言うだろう。彼は確信していた。彼は少しの安らぎを求めて、小夜のもとへと出かけた。しかし、結果的にその夜、拓也は詩葉を裏切ることになった。その夜だけなく、何度も小夜に会い、裏切り行為を繰り返した。そして、それから少しあとのこと、詩葉は拓也の裏切りを知る。
拓也にとって、小夜は安らげる場所だった。それは、否定できない事実だ。それでも拓也にとって、詩葉は特別な存在だ。それはきっと、何年経っても、変わらない。だけど、彼女の傍で安らぐことはできなかった。平凡だが一緒にいて安心できるのは、小夜だった。
小夜と詩葉。拓也は、二人の間でさ迷い続ける。彼が自分の人生を、いつまでも決められないように。




