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拓也の熱意に反して、実際に詩葉の状況をどうにかするのは難しかった。それどころか、さらに詩葉の立場が悪くなるようなことが起こってしまうのだった。
彼らの学校の文化祭では、合唱祭も同日に行われる。合唱祭はすべてのクラスが一つ選曲して、全校生徒や保護者の前で合唱を披露し、各学年からどのクラスが一番だったか生徒会の投票によって決める、というものだ。そのため、クラスによっては一番を取るために、放課後に残って自主的に練習することもある。そこで拓也たちのクラスも、今から自主練をしよう、という話が放課後になって唐突に出ることがあった。
その日も、自主練の話が唐突に出た。自主練があることを、拓也とその友人たちは知らなかった。なぜなら、彼らは放課後になると、すぐに音楽室へ向かってしまうからだ。しかし、自主練を行う場所が、音楽室だったため、拓也たちは、自主練の存在を知ることになる。
合唱祭の練習は面倒だったし、できることならバンドの練習を優先したかったのだが、女子たちは変な張り切りを見せていたため、断ることはできず、参加することへの妙な強制力に従うしかなかった。
練習が始まってから、拓也はすぐに気付く。詩葉がいないことに。それと殆ど同時に、誰かが言った。
「あれ、楠木さんがいなくない?」
日向由佳だった。計算通りとでも言うのか、口元には薄く笑みを浮かべている。
「みんな団結して練習しようってときに、どこ行ったのかな」
その声は決して大きいものではなかった。しかし、その言葉は彼女の周辺にいる人間には十分聞こえるもので、それを耳にした人間の何人かは不信感を露わにした。
「放課後、みんなで練習しようって、あれだけ言ってたのに、聞こえなかったってことはないよね」
「でも、楠木さんって少し空気読めないから…」
「なんか、ちょっと人のこと、下に見てる感じあるしね」
拓也には、日向由佳の目論見が分かった。彼女は詩葉が本を読み始めると、周りの声が聞こえなくなることに気付いていたのだ。だから、彼女が本を読み始めたタイミングを見計らって、自主練の話を周りの人間から徐々に広めていったのだ。決して大きな声は出さずに、日常会話のような雰囲気で。そうして、詩葉を教室に一人にした。詩葉の立場を悪くするために。
俺が呼んでくるよ。そう言おうと前に出ようとしたが、ここで詩葉を音楽室に連れてきたとしても、彼女は全員からの視線に晒され、もしかしたら陰口だって聞こえてくるのかもしれない。だとしたら、彼女を呼ぶことは必ずしも正解とは言えないのだ。
「あ、だったら私が呼んでくるよ」
そんな拓也の葛藤なんてお構いなしに、声を上げたのは小夜だった。馬鹿、と心の中で罵るが、どうにもできず、小夜は素早く音楽室から出て行くのを見送るのだった。
数分後、小夜は一人で戻ってきた。
「詩葉ちゃん、いなかったよ。練習があるって誰からも教えてもらってなかったんじゃない? 誰か詩葉ちゃんに練習あるって直接言った人いる?」
小夜がどれだけ考えたのかは分からないが、この言葉は思いのほかに効果があった。もちろん、詩葉に練習のことを直接伝えた人間はいなかったし、練習があると知らなければ帰ってしまっても仕方のないことだ、と受け止める人間も少なくなかった。後に小夜は拓也だけに明かしている。
「あのとき、本当は詩葉ちゃん、教室で本を読んでいたよ。誰かを待っているみたいに。だから、事情を話して帰るように言ったの。その方が丸く収まる気がしたからさ」
馬鹿だ馬鹿だ、と小夜のことを評価していた拓也だったが、このときは彼女がこのような気遣いもできる女なのだと考えを改めた。
それから、自主練は週に一度ほど行われたが、詩葉は一度しかこなかった。なぜ、一度きりだったのかと言えば、詩葉が唯一練習にやってきた日、日向由佳が「やる気ないくせにきてるんじゃねぇよ」と周囲の人間の耳に入るように、呟いたからだ。
その日は空気が重く、誰もが集中できなかった。それから、自主練がある日は、詩葉はすぐ教室を出て、それ以外の日は教室で拓也がやってくるまで本を読み続ける、というパターンが出来上がった。
「やっぱ、自主練なんて来たくないよな」
ある日の帰り道、拓也は詩葉に聞いてみると、彼女は笑った。しかし、俯いて拓也の方を見ないようにこう返すのだった。
「私がいると空気、悪くなるみたいだから。本番もボイコットさせてもらうつもり」
「……一人だけ出ないのは、嫌じゃないのか?」
「嫌じゃないよ」
詩葉ははっきりと答える。
「別に私は、あの人たちと想い出が欲しいと思わないし、本読んでいる方が充実してるから」
「そうは言ってもさ……」
「できることなら、不登校になって、煩わしい思いをせず、家で本を読んでいたいよ。でもね、家にいる方が煩わしいこと多いから」
「……何とかするよ、俺が」
「え? 良いよ良いよ。心配してくれるだけ、嬉しい。こういうのは口出したら、変に巻き込まれるから、何もしないのが正解じゃないかな」
詩葉はそんなことを言うが、拓也にとっては、そういうわけにはいかない。彼女の危機や不幸を振り払うのは、自分でなければならないのだから。彼は詩葉を救い出す手段を考え続けた。
そして、その日がきた。文化祭の当日のことである。問題の合唱祭だが、拓也たちのクラスはソプラノのソロがある曲を選んでいた。そのソロは拓也たちの学年の中で、最も歌が上手な女子生徒が担当するはずで、それは優勝するための、彼らの切り札だった。それなのに、その女子生徒が前日に高熱を出し、泣く泣く学校を休むという事態になってしまったのである。ソロパートは数名で歌うことで、補うことになったが、インパクトに欠けることは明白だった。
「これじゃあ優勝できないじゃん」
そんな言葉がクラス中で囁かれた。しかし、クラスメイトの殆どは、それほど優勝にこだわっているわけでもなく、笑顔を見せる余裕はあった。そんな中、明らかに苛立ちを見せる人物が。日向由佳である。
「拓也、今日のライブ頑張ってねー」と声をかけてきたのは、小夜である。
彼女もやはり、合唱祭の優勝について興味がないらしく、気楽な様子だった。
「どうしたの?」と小夜は首を傾げる。
拓也は、小夜に声をかけられたにも関わらず、返事もせずに教室内にいるだろう詩葉を探していたのだ。
「あ、いや……」
拓也は詩葉の背中を確認し、小夜の方に視線を戻しつつ、声を潜めた。
「あのさ、なんで日向はあんなに苛立ってるの?」
「え? ああ、うん。なんかね、合唱祭で優勝すつもりだったんだって」
「あの女が、そんなタイプか?」
「ただ優勝したいって思ったわけじゃないよ。日向は一つ上の先輩が好きらしい、ってことは話したよね?」
「うん」
「日向はあの性格だけど、臆病って言うか、奥ゆかしいところがあって、なかなか先輩に対して好きって言えなかったみたいなんだけど、今回は珍しく勇気を出して、大胆にも優勝したらデートしてほしい、みたいなことを言ったらしいんだよね。どうしてそんな話になったかまでは、知らないけど」
「なるほどな。それであの調子か」
「ねぇ、それよりさ、今日のライブ!」
「え?」
「ライブ、頑張ってね」
「ああ、うん。お前に言われなくても、やれることはやるって」
小夜の言うライブとは、文化祭の後、体育館のステージを使って、何人かの生徒がライブをすることだ。音楽の先生が、過去にバンドをやっていたこともあり、そのような自由が与えらているのだ。
合唱祭が始まる直前、体育館へ入場するため、拓也たち生徒は廊下で整列させられるが、やはり詩葉の姿はない。どうやら宣言通り、自主練だけではなく、本番も出ないつもりのようだ。
そのとき、日向由佳が仲間の一人に言った。
「ああ、誰かソロやって、私たちを優勝させてくれないかなぁ。そうすれば、私は何でも言うことを聞くのに」
拓也はその言葉を聞き逃さなかった。そして、同時に一つの妙案が生まれる。拓也は列から離れ、日向由佳に歩み寄った。日向由佳は、同じ教室にいながら大して会話をしない拓也が目の前に立ったことに、緊張で身を固くしたようだった。
「なに?」
「優勝させてくれるやつを連れてきたら、言うことを聞いてくれるか?」
「はぁ?」
クラスの人間の全員が、拓也と日向由佳に、黙って視線を向けていた。そして、誰もが口にしなかったタブーを拓也が今から破ろうとしている、と全員が確信する。
「俺はこのクラスを優勝させるやつを連れてくることができる。そしたら、今言ったように、何でも言うこと聞いてくれるんだろ?」
「……言うことって、何?」
「楠木詩葉に嫌がらせみたいなこと、するなよ」
「そんなこと、してませんけど」
日向由佳の言葉は少ないが、逆にそれが威圧的であった。それでも、拓也は退くつもりはない。
「本当にそう言い切れるなら、別にそれでも良い。だけど、少しでも心当たりがあるなら、それをやめてくれ」
「意味わかんない」
「じゃあ、優勝したら俺が不快だと思うことはやめてくれ。俺が何を不快に感じるかは、その都度指摘するから」
「……好きにしたら?」
「よし、約束だ」
拓也は列に戻ることなく、体育館とも別の方へと歩き出した。もちろん、担任の教師に止められたが、それは無視した。執拗に止められなかったのは、担任の教師も状況を把握していたからなのかもしれない。
拓也が向かうのは、詩葉のもとだった。目的は一つである。拓也は、詩葉にソロパートを歌うように、お願いしようと考えたのだ。いつだか、少しだけ彼女が口ずさんだ歌声が、拓也の耳にはまだ残っていた。きっと、彼女が歌えば、拓也たちのクラスは優勝するだろう。彼はそう確信していた。
詩葉がどこにいるのか、拓也は分からなかった。帰ってしまったのでは、と考えるのが普通かもしれないが、それはない、と拓也は確信していた。詩葉の家庭事情を詳しく知っているわけではないが、何らかの理由があって、彼女は家が好きではない、ということを知っているからだ。
詩葉が好みそうな場所と言えば、まず思いつくのは図書館だ。しかし、そこには誰もいない。保健室、美術室、静かな場所を探してみたが、やはり詩葉の姿はなかった。
そろそろ、合唱祭が始まる時間だった。まずは一年生の合唱から始まるため、まだまだ時間に余裕はある。しかし、出番に間に合ったとしても、詩葉が歌うことを全員が了承するとは限らない。その前に、クラスのみんなに事情を説明する時間だって必要だ。その辺りまで考えれば、決して余裕があるとは言えなかった。
詩葉は意外な場所にいた。音楽室である。
「何となく、拓也が探しにくる気がして、見つかりにくい場所に隠れたつもりだったんだけどな」
ピアノのすぐ後ろに隠れるように座っていた詩葉だったが、拓也の姿を見ると笑顔でそんなことを言った。
「あのさ……ソロパートを歌うはずのやつが、休んだこと、知ってるよな?」
「……うん。何となく、話は聞こえていたよ」
「それで…代わりに、ソロパートを歌ってみないか?」
「私が?」
「うん」
「歌わないよ」
当然だが、答えは早かった。詩葉は拓也の提案が馬鹿馬鹿しく聞こえたのか、薄っすらと呆れるような笑みも浮かべている。
「誰も私に歌ってほしいなんて思ってないんじゃないかな。それに、私がいない方が、みんなも歌いやすいと思うし」
「誰もがそう思っているわけじゃない」
「そうかもね。興味がない人だって、多いだろうから」
「いや、そうじゃなくて…」
「そうじゃなくて、どうなのかは知らないけど、どっちにしても、私は歌わないよ」
「どうして……」と言いながら、拓也は分かっている。彼女が歌いたくない理由なんて、当然のように理解していた。
「あの人たちのために、私は歌いたいとは、思わないよ。好きでもない人のために、歌いたいなんて、思えない」
拓也は何も言えなくなってしまった。詩葉も黙っていたが、何かを誤魔化すような薄い笑みを浮かべた。
「拓也のことだから、きっと私のために気を回してくれているのかもしれないけど。別に良いんだよ。私はこのままで。誰かに相手にされたいだとか、誰かに声をかけてほしいとか、望んではない。自分に居場所がないことは、慣れているから」
詩葉は少しだけ顔を伏せた。それが、どれだけ彼女の本心を語っているのか、拓也には理解できた。
「……居場所がないことに、慣れるわけないだろ」
拓也の言葉に、詩葉は答えない。だから、拓也は続けた。
「皆、誰だって自分が落ち着ける居場所が、欲しいに決まっている。そんな場所がなくて、幸せを感じられるわけがない。楽しいわけがない。そんな状態を特別だと思って、良いわけがない」
「……だったら、何の? そうだったとしても、私が歌ったら、私の居場所ができるとでも言うの?」
「できるよ。歌ってくれたら。俺がお前の居場所を作ってやる」
「なにそれ」と詩葉は笑う。
「本当だ。歌ってくれたら、約束する。俺はお前の居場所を作ってやる。この学校だけじゃない。これから、ずっとだ。もし、お前が居場所がないように感じたら、いつでも、どこでも、俺がお前の居場所になる。家にいたくないなら、学校にいたくないなら、俺がお前が寂しくないように、居場所になってやる」
声高々に宣言する拓也に、詩葉は目を丸くした。拓也の言葉は、いつの日か、テレビで見たドラマ番組のセリフをアレンジしたものだった。それにしても、中学生の発言にしては、仰々しく、呆れてしまうものに違いなかった。詩葉だって例外ではない。そんな拓也の言葉を笑うのであった。
「ほんと、何を言っているの?」
「わ、笑うなよ。本気なんだから」
拓也は赤面しながら、詩葉があのドラマを見ていないことに、ほっとしていた。詩葉は浅ましい拓也の内心など知らず、悪戯に笑って言った。
「……ふーん。なんで、そこまで言ってくれるの?」
「……お前は、特別だと思うから」
これは、本心である。ただ、普通であれば「何が特別なのか」と問われるかもしれないが、なぜか詩葉はそう問いただすことはなく、笑顔を見せるだけだった。
「良いよ、分かった。面白そうだから、言うこと聞いてあげる」
「……良いのか?」
「良いよ。私の気が変わらないうちに、体育館でもどこでも、連れて行けば良いよ」
「わかった」
ここで二人は手を握って……というわけではないが、一緒に体育館へ向かった。既に二年生の順番に入っていて、拓也たちの順番まで時間はなかった。しかも、合唱祭が始まっている中、詩葉がソロパートを歌う、と全員に伝えることは困難だろう。なぜなら全員が決まった場所に着席し、無暗に立ったり喋ったりすることは許されない雰囲気だからだ。詩葉と座る場所も離れているし、ソロパートを代わりに歌う予定の数名の生徒たちとも離れているので、打ち合わせなんて、できる状態ではない。しかし、拓也の隣に座る男子生徒が、彼に耳打ちするのだった。
「拓也くん、小夜ちゃんから話は聞いているよ。みんな、ソロパートの件、楠木さんに任せるって分かっているから」
それを聞いて、拓也は思わず小夜の方を見た。小夜は隣に座る女子生徒たちと、気楽そうに小声で談笑していて、とても拓也の意図を汲み取り、それが成功するようにお膳立てしていた人間とは思えなかった。
「優勝、できると良いね」と隣に座る男子生徒は言った。
「優勝するさ。絶対にな」
拓也のその言葉は、現実となった。彼らの合唱は、ソロパートで聴くものを圧倒する、という策が絶大な効果を発揮したのだ。詩葉の歌声は、体育館にいる、すべての人間を魅了した。透き通るような、それでいて脳の中を溶かしてしまうような、とても中学二年生の少女から発せられる声とは思えない、不思議な魅力があった。詩葉がその声を発した瞬間、退屈そうな空気で充満していた体育館に、どよめきが起こった。誰もが拓也たちのクラスの優勝を確信した瞬間だ。
彼らのクラスは、学年一位はもちろん、学校一位を獲得した。学校一位については、毎年三年生が獲得するのが恒例だったが、この年は二年生が優勝し、それに対し誰かが意義を唱えることもなかった
「詩葉ちゃん、凄いよ!」と最初に言ったのは、拓也たちのクラスで、女子最大派閥のリーダー格である、中島沙知だった。合唱祭が終わった直後のことである。
彼女が詩葉に声をかけたことで、殆どの女子生徒が詩葉に話しかけても危険はない、と判断した。多くの人が詩葉に称賛の声をかける。女子だけでなく、男子もだ。詩葉は全員に笑顔で答えていた。
その様子を拓也は遠くから見守っていた。そんな拓也に声をかけたのは、小夜だった。
「拓也のおかげだね、全部」
「そんなことない。最初から、詩葉自身が凄かっただけだ」
「そうなんだ。私は詩葉ちゃんのこと良く知らないけど」
「あ、すまん。小夜のおかげだ。お前が色々、手回ししてくれたんだろ」
「ふふっ、拓也の考えることは、何となく分かるんだよねー、私は」
「ありがとうな、本当に。お前も本当に凄いやつだ」
「……え? 今のって、もしかして、私のこと好きって意味?」
「なんでそうなるんだよ」
「あはははっ。違ったー?」
詩葉は中島沙知を始めとする、多くの女子に、これから一緒に打ち上げに行こう、と誘われていた。これできっと、詩葉には居場所ができるだろう、と拓也は安心する。彼は詩葉の笑顔を見て、教室を去った。もう少し、彼女が笑う顔を見ていたかったが、彼にはまだライブが残っていた。準備をしなければいけない。詩葉に見て欲しかった、という気持ちがないこともないが、彼女がたくさんの人に囲まれ、認められているというのなら、できるだけその時間が長く続いてほしいと思うのだった。
そうして、拓也はライブに挑んだが、彼らの演奏は本当に酷いものだった。練習を重ねてきたつもりではあったが、リズムはバラバラだったし、音は迫力に欠け、何よりも彼らの緊張が明らかで、それが見る側にも伝わるほどだった。
「かっこよかったよ、拓也!」
ライブが終わって、小夜は真っ先にそうコメントした。小夜はたぶん音楽を何も分かっていないのだろう。だから、あんな酷い演奏を「かっこいい」なんて言えるのだ。そう考えると、拓也は憂鬱な気分になった。バンドの仲間と反省会を終え、下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、中に手紙が入っていることに気付いた。
「今日はありがとう。バンドは来年もある! これからも練習頑張れ!」
詩葉からのメッセージだった。彼女は見ていたのだ。拓也の拙い演奏を。それはもちろん嬉しいことだったが、恥をかいてしまったような気持ちもあった。しかし、それよりも「ありがとう」という言葉が、拓也にとって一番の喜びだった。彼女と言う人間が多くの人間に認められ、そして居場所を手に入れたのだから。拓也にとって、これ以上の成果はない。彼女のような特別な人間なら、もっと多くの人に認められるだろう。そして、そんな彼女を手にするのは、自分であるべきなのだ。そう彼は思った。このときまでは、詩葉という存在を、そのように考えることができたのだった。
それから、数カ月ほどの日々は、拓也にとって、ありふれているが、輝かしいような青春の連続だった。二人はいつも一緒に帰っていたし、土日も一緒に出掛けることもあった。交際している、と言えなくもない関係だったのだが、お互いが決定的な言葉を口にはしなかった。
それなのに、中学三年になる直前、詩葉が転校することになった。突然だった。しかも、その事実は詩葉からではなく、教師から聞くことになったのは、拓也にとってショックなことであった。そのことを知った数日後、詩葉は学校を去ってしまう。
拓也は別れの言葉も言えなかったし、連絡先も交換することはできなかった。拓也は詩葉が去ってしまう、という現実を受け止められず、何となく距離を取ってしまったのである。彼の手から、特別な光が消え去り、絶望感だけが残ったような、そんな気がした。




