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「何かを犠牲にしなければ、本当に欲しいものは手に入らない。自らの半身を失ってしまうような、決定的とも言える犠牲を払わず、何かを手に入れようと考えるのは、おこがましいことだ」
これは父が良く言っていた言葉だった。父の在り方は、まさにその言葉を体現していた。彼は自らが欲するもののために、多くの犠牲を払い続けている。
「私がこうして、多くの人に求められるのは、私がそれだけ多くを失ったからだ。もし、お前がいつか、何かを望むのであれば、それを覚悟しなければならない。それを少しでも頭の片隅に置いておくが良い」
そう言ってから、父は僕の前でピアノを弾いた。自らの才能を見せつけるかのように。中途半端な僕を否定するように。
父はピアニストだった。世界中に名を馳せるほどの、一流のピアニストだ。幼かった僕から見ても、彼が一流だと理解できるほど、ピアニストとしての腕は、とんでもないものだった。
「あの人は、才能という言葉だけでは十分とは言えないほど、凄い人なの」
母は彼のことをそう言って、敬い、深く愛した。それなのに、母は父から十分な愛と活力を与えられることはなかった。そのため、母は若くして亡くなってしまった。確かな原因らしいものはなく、精神的にも肉体的にも疲労した結果、ということらしかった。たぶん、母にとって、父に愛情を注ぐことは、自らの命を捧げるようなものだったのだろう。父を愛し続け、疲弊し切って、この世を去ってしまったのかもしれない。
母がいなくなってしまって、父に何か変化があったかと言えば、全くと言って良いほど何も変わりはしなかった。残った僕に愛情を注ぐわけでもなく、ただピアノを弾き続け、多くの人を魅了し続ける。つまり、彼は家族という存在を犠牲にして、ピアニストとしての才能を維持し続けたのであった。
彼は徹底して、家庭を顧みることはなかった。彼は一年中、世界中を飛び回っていたし、家に戻れば己の才能を磨き上げるかのように、ずっとピアノを弾いていた。家庭を守る母を労うことなく、我が子である僕を愛でることもなく。
母はそんな父を深く愛したが、僕にとって彼は他人のようなものだったのだ。それは、僕が二十歳を超えた今でも変わらない。
そんな父から、もらったものが唯一ある。ピアノの才能だ。僕は父のように熱心にピアノを弾くことはなかったが、大して練習をしなくても、ある程度までは他人を感動させることができた。もちろん、父にとっては中途半端な才能でしかなく、家に帰った父は僕のピアノを聞いて、落胆させるものでしかない。そして、落胆した父は、例の言葉を口にするのだった。
「お前のピアノは価値があるとは言えない。何かを犠牲にしなければ、本当に欲しいものは手に入らない。お前がもしピアノで人々の心を震わせたいのなら、何かを犠牲にしろ。そうしなければ、その才能はいつまで経っても無価値なものだ。それが例え、天才である私から受け継いだものだとしても、だ」
「はい。お父さん」
父は僕の返事に納得したかどうかは分からないが、ただ無表情で頷くのだった。僕に父のようなピアノに対する情熱があったか、と言えば、それはない。でも、唯一の特技であることから、僕はそれなりにピアノの技術を活かして人生を送った。僕はピアノを弾くことで、自らの心を浄化できた。母が死んでしまったときも、友達ができないときも、どんなにつらいことがあっても、僕はピアノを弾ければ、それだけで心は洗われたのだ。
ただ、ピアノを弾く度に僕は父の言葉を思い出す。何かを犠牲にしなければ、本当に欲しいものは手に入らない。ピアノを弾くとき、ただの記憶として思考の中を過ぎ去るだけのその言葉は、僕にとって重要なものでもなく、深く考えさせるものでもなかった。
それなのに、最近は頻繁にこの言葉が、僕にとって意味のあるものとして、自らが紡ぐメロディーに混じって頭の中を過る。これまでの人生、僕は本当に欲しいものなど、ありはしなかった。だから、この父からの言葉は殆ど無縁のものだった。それが、少し変わってしまったのだ。
欲しい、と願うようになってしまった。それから、僕は「何を犠牲にすれば、手に入れられるのだろう」と頻繁に考えるようになった。望めば望むほど、考えれば考えるほど、僕は自分が醜く、狡猾であるように思えた。ピアノを弾くときは、そんな悪しき念を振り払おうとするわけだが、父の言葉が再生され、必ず自らを呪うのであった。
そんな葛藤を僕が抱えていることなど知らず、詩葉さんは言うのだった。
「ねぇ、ピアノを聴かせて」
だから、僕は今日もピアノを弾く。葛藤や罪悪感を膨らませながら。その矛盾はいつか僕を取り返しのつかない状況に陥れるかもしれない。それでも、僕はピアノを弾かずにはいられなかった。僕にとって唯一の才能で、彼女を癒せるのならば、いつまでも弾き続けよう。そんな風に、思ってしまうのだ。
「おっそい! 遅いよ、まこちゃん!」
帰った僕を迎えるなり、小夜は喚くように言った。僕は早く帰ると言いながら、夕方前に帰ることになった。朝方までピアノを弾き続け、詩葉さんが寝付いてから、僕もそのまま雑魚寝してしまい、気付いたら昼を過ぎていたのだ。そして、詩葉さんにお昼ご飯をご馳走になり、帰ったのはこの時間、というわけだ。
「ごめんごめん」
と僕が謝っても、小夜は喚いて聞かない。
「ねぇ、酷いよ! わたし死んじゃうかと思ったんだから!」
「わ、分かってるよ」
「分かってない! 私はまこちゃんがいないと、死んじゃうんだから!」
「大袈裟だって」
「本当だよ! 靴なんてどうでも良いから、早く!」
靴を脱ぐ僕を、小夜は部屋の中に引っ張り込む。そのせいで僕はバランスを崩し、小夜ともつれるようにして、床に倒れた。僕は背中から倒れ、小夜に覆い被さられた。二人分の体重による衝撃は強く、僕は目を閉じて、必死に痛みを耐える。
「痛いよ、ほんと……」
と言いながら、僕は目を開けたと、そこには今にも泣きそうな小夜の顔がった。
「本当に、死んじゃうんだよ、私」
「……ごめんって」
「信じられないだろうけど、本当なんだってば」
「分かっているから。本当にごめん」
涙ぐむ小夜は拗ねたように言う。
「……じゃあ、好きなだけ、良いよね?」
「待って! せめて歯を磨か――」
僕の言葉は途中で途切れてしまった。口を塞がれたのだ。小夜の唇で。彼女の舌は僕の口内に入り込むと、唾液を絡めるように動き回った。さっきまで、熱っぽかった僕の体が、少しずつクールダウンして、力が抜けて行くのを感じる。まるで、僕の中にある熱をすべて小夜が吸い取っているかのようだった。
小夜の唇がゆっくりと僕から離れる。失った酸素を吸い込む僕から、小夜は離れると、大きく溜め息を吐いて、手の甲で口元を拭った。彼女はキスの後、瞳が僅かに赤くなる。それを見る度、僕は神秘的だと少し思ってしまうのだ。
「ふぅー、本当に死ぬところだった。空腹は最高の調味料って言うけど、本当だね、これ」
「……あっそう。気が済んだなら、退いてもらえる」
「退くけど、気は済んでないからね」
「はいはい」
小夜が離れ、僕は身を起こすが、大量に血を抜かれたかのような、酷い眩暈があった。
「それにしても、まこちゃん。てっきり、こんな時間まで帰ってこないから、詩葉さんと念願の初エッチしているのかと思ったけど……どうやら何もしてないみたいだね」
「あ、当たり前だ。って言うか、何で分かるんだ」
「まこちゃんの唾液から、他人の味がしなかったからねー」
「そんなこと分かるの? ほんと、化物だな…」
「酷いよ、まこちゃん。死ぬ寸前まで私を待たせておいて、その言い様は」
祈るように胸の前で手を組み、小夜は僕に一歩寄った。責めるようなその表情は、正直なところ少しだけ可愛い、と思ってしまう。誤魔化すように僕は顔を逸らし、溜め息を吐いた。
「はぁー。何で僕はこんなやつと同居することになったんだろう」
「運命だよ、運命」と小夜は人差し指を立てる。
「そんなわけあるか。あったとしても、酷過ぎる運命だよ…」
「なんでよー、ここまで相性いいんだから、運命に決まっているじゃない。それよりさー、早く続きしたいから、シャワー浴びてきてよー」
「今ので終わりじゃないの?」
不満げに言う僕に、小夜は目に涙を浮かべてみせた。
「ねぇ、まこちゃんは血も涙もないの? 殺しそうになった相手に対し、何も償おうとしないなんて、人とは思えないよ。悪魔だよ」
「悪魔はお前だろ」と僕は言って、服を脱いでシャワーを浴びた。
頭を冷やしながら、大きく溜め息を吐いた。あの悪魔、本当に容赦がない、と心の中で罵る。この悪魔、と言うのは、僕の奇妙な同居人である、雨宮小夜のことで、例えでも何でもない。
彼女は本当に本物の悪魔なのだ。あくまで、自称であるから、実際どうなのかは、はっきりしないところではるが、彼女との接触によって僕の体に起こる異変を考えると、彼女は悪魔的な、普通ではない存在と認める他ない。彼女と僕が、つまりどんな関係なのかと言えば、捕食者と被食者の関係なのである。彼女にとって、僕は食料を育てる苗床なのだ。
なぜ、こんなことになってしまったかと言うと、それは三カ月ほど前まで遡ることになる。