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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第二章 児玉拓也
19/61

3

ギターの練習は、とても順調とは言えなかった。まだまだ指が痛いし、弦を抑える複雑な指の形は、なかなか覚えられなかった。本当に小夜のために曲を作ってやることなんて、できるのだろうか。拓也は自分の才能を信じられず、深く溜め息を吐いた。


いつもであれば、音楽室から仲間と一緒に帰るため、このような一人反省会で必要以上に気を落とすことはないのだが、今日は明日提出のはずの課題を教室に忘れてしまった。そのため、一人夕暮れの教室に戻ることになったのだ。


こんな時間、教室には誰もいないだろうと思っていたが、夕暮れの中、人影があった。しかも、その人影は少しも動かず、ただ席に座っているだけ。拓也はそれが何者であるのか、一瞬で理解した。なぜなら、彼が教室にいるとき、一番視線を向ける席だったからだ。もちろん、楠木詩葉である。


彼女は放課後、拓也が教室を出たときから変わらずそこにいたのか、文庫に目を落としたまま、動いていないようだ。拓也が教室に入ってきたことも、気付かないくらい集中しているのか、顔を上げることはなかった。


拓也は動揺した。いつか手に入れたい、と思った特別な女と、誰もいない教室で二人きりなのだから。こんなベストなシチュエーションで二人きりになる、ということは、神様は自分に味方をしてくれているのだ、と思った。やはり自分は凡庸な人間ではなく、特別な何かを手にする人間なのだ。


拓也はそんなことを考えながらも、どうやって声をかければ良いのか分からなかった。


緊張に喉が渇いた。別にこのタイミングで必ず声をかける必要はない。特別な巡り合わせすら味方につける自分なのだから、きっとまたタイミングはやってくるだろう。だから、こっそりと課題だけ自分の机から回収し、そのまま帰ってしまおうかと思った。つまりは、怖気づいたのである。


拓也が一歩踏み出すことを躊躇っているうちに詩葉の方が動いた。一冊読み終えたのだろうか。突然、文庫を閉じて、顔を上げたのである。そして、当然のことではあるが、入り口で突っ立っていた拓也と目が合ってしまう。


「……おう」


おう、なんて粗野な挨拶は、人生で初めてだったが、「よう」とか「やあ」も不自然に思われ、迷った挙句、出てきた言葉がそれだった。


「……どうも」


詩葉は少し顔を赤らめて、そう返事をした。詩葉の表情の変化を拓也は見逃さなかった。あのようなリアクションを見せるのであれば、話しかけても問題ない、と確信できた。彼女は自分に対し、少なくとも好印象を抱いている。これは直感ではなく、経験からの確信だった。


「帰るところ?」と拓也は声をかけてみた。


「そう……だけど」


詩葉はなぜか手にした文庫本をまるでお守りのように、もしくは盾のように、胸元で握りしめた。


「良かったら、一緒に帰る?」


拓也の提案に、詩葉は首を傾げる。


「楠木って学校出て、左に曲がるだろ? 俺も同じ方向だし、せっかくだから一緒に帰ろうよ」


「……うん」


詩葉は心もとない様子で文庫本を鞄に入れて、立ち上がる。外にも殆ど人がいなかった。これなら、変な噂が立たずに済むだろう、と拓也は少しだけ安心した。


「なんで、あんな時間まで教室にいたの?」と拓也は聞いてみる。


そう言えば、いつだか川辺で出会ったときも、詩葉は帰りが遅いようだった。


「本、読んでたから」


「好きなんだ、読書」


「うん。読み出すと、止まらなくなる」


拓也は「読書が好き」という感覚が理解できない。拓也は一冊も本を読み終えたことはないし、教科書だって、まともに目を通したことはないくらいだ。読むと眠くなる、と言うが、そういうわけではない。単純に並んでいる文字に、楽しみを見い出すことは有り得ない、と思ってしまうのだ。


「俺は芥川龍之介とか、好きだな」


それなのに、拓也はそんなことを言ってしまった。格好を付けたかったという気持ちと、詩葉の気を引きたいという気持ちがあったのである。なぜ、芥川龍之介なのかと言えば、小学生のときの教科書に載っていた(確か蜘蛛の糸が罪人を引っ張り上げる、といった話だ。題名までは覚えていない)ということ、それから小難しそうな文豪の名前を出しておけば、流石の詩葉であっても読んだことはないだろう、と考えたからだ。


「……ふーん。今度、読んでみようかな」


拓也の知ったかぶりは、賭けでしかなかったが、何とか良い方に転んだようだった。


「児玉くんは」と詩葉は言った。


「拓也でいいよ」


「拓也は……ギターでも弾くの?」


詩葉の視線は拓也の背中にある、それに向けられていた。


「そう、バンド始めたんだ。文化祭が二か月後にあるから、そこでライブやるんだ」


「ふーん。弾けるんだ」


「まぁまぁ、かな。楠木も音楽、好き?」


「……詩葉で、良いよ」


「あ…うん」


なんだか、照れ臭い空気が流れる。その空気によって、二人は暫く無言になった。


「えっと、音楽は…そんな聞かないかな」


「そうなんだ。でも、生きている中で、一曲くらい、好きな歌とか、なかった?」


そう言いながら、拓也自身にそんな曲があるのか、と言われたら、何と答えれば良いのか分からないような気がしていた。それでも、詩葉は真剣に考えてくれたらしく、迷いながらも答えを出してくれた。


「お父さんが……好きな曲があって。名前は分からないけど、たぶん有名なやつ。それは、好きかな」


「どんなやつ?」


「英語の曲なんだけど、凄く静かで、のんびりと水の上を漂いながら、月を見上げている感じの」


「わかんないな」


それが、何の曲なのか、拓也は理解していた。詩葉が暗い川辺で歌っていた、あの曲に違いない。


「えーっと、こんな感じの曲」


詩葉はその曲を歌ってみせた。やはり、暗い川辺で聴いた、あの曲だ。誰もが知っているような、有名な曲で、映画に使われていた。女優が劇中で歌ったもので、たくさんのアーティストがカバーしているはずだ。


そんなことよりも、拓也は詩葉から流れるメロディに、やはり驚愕を覚えていた。思春期の女の子が、恥ずかしげもなく歌い出すことも驚くべきことではあるが、拓也はそんな違和感に気付かないほど、彼女の歌声は圧倒的に特別だったのだ。


「知ってた?」


歌い終えて、首を傾げる詩葉に、拓也は何も言えずにいた。詩葉の歌声に受けた衝撃が、まだ抜けないのだ。そして、同時に、この特別な女を手に入れるのは、特別である自分であるべきだ、と考えていたのである。


「どうしたの?」


詩葉は、いつになっても返事をしない拓也の顔を覗き込んだ。


「あ、うん。知ってる知ってる。その曲、何ていうか知らないけど有名だよね」


「そうそう。綺麗な曲だから、好きなんだ」


二人は他にも他愛もないことを二つ三つ話して、すぐに別れ道に差し掛かった。


「それじゃ、私はこっちだから」


詩葉は自分が行く道を指し示す。もう少し話したいと思ったし、彼女が置かれている状況を思うと、やはりどうにかしたいと思った。


「あのさ、明日…また一緒に帰れないか?」


拓也のその言葉に対し、詩葉はナイフでも突き付けられたかのように、顔を青くする。


「……やめておいた方が、良いんじゃない?」


「どうして?」


「私と一緒にいるの、見られたら、ちょっと面倒だと思うよ」


「そんなこと、ないだろ。どうせ、あの時間まで教室にいるなら、一緒に帰ったって良いだろ」


「……どうかな」


「何なら、音楽室こいよ。みんな、良いやつだよ」


「それは良いや。私、他人と話すの、あまり得意じゃないから」


「そんな感じはしないけどな」


「……まぁ、考えておくよ。じゃあね」


詩葉はそう言って背を向けてしまったが、その瞬間、彼女は笑顔を見せた、と拓也には思えた。きっと、自分は詩葉をものにするだろう。他の人間には、この女を横に置く権利はないはずだ。なぜなら、有象無象の凡夫でしかないからだ。普通ではない、特別な人間である自分こそが、この女を手に入れるのだ。


そんなことを考えながら、拓也は家に帰った。それから気付いたことだが、明日出すはずの課題を、教室の机の中に置いたままであった。

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