2
楠木詩葉が、特別な女であることを拓也が確信させるきっかけが、もう一度訪れた。それは、彼女が転校してきてから、一週間後のことだった。
拓也は詩葉の存在を気にかけつつも、彼女に声をかけられずにいた。彼は普通でありたくない、というごく普通の悩みを持った普通の中学生でしかなく、やはり普通の中学生のように、異性に気安く話しかけることなどできなかったのだ。
その状況にもどかしさを感じつつ、彼は学校の近くの川辺に寄り、ギターの練習を始めた。その川辺は人通りが少なく、落ち着いて練習に打ち込めそうな場所だった。彼がいつもここで練習しているのか、と言えばそうではなく、感傷的な気持ちになっているこのタイミングで、たまたま見つけただけである。
もう日も暮れつつある時間だったが、拓也は川辺に座り込み、たどたどしくギターの弦を抑える。下手な自分のギターを誰かに聴かれることもなければ、雑音もない。気兼ねなく練習できる場所を見つけ、拓也は安心して集中できた。
しかし、誰かの気配が川辺へ近づいていることに気付いた。拓也は練習している姿を見せるわけにはいかない、と草むらに身を隠し、通行人をやり過ごそうとした。
近付いてくる人物は、同じ学校の生徒、しかも女子生徒であることは間違いなかった。そして、その人物が何者なのか、拓也が理解したとき、運命を感じることになる。その人物は、詩葉だったのだ。
拓也は、詩葉もこの道を使うのか、と妙な感慨を覚えながら、草むらから突然顔を出すこともできず、身を潜めていることしかできなかった。運命的な何かを感じながらも、とにかく彼女がこの道を過ぎ去ってくれることを祈ったが、その通りにはいかなかった。
詩葉は、さっき拓也が座っていた場所あたりに立ち止まると、川の方へ視線をやった。何をしているのだろうか。拓也の存在に気付いたわけではないようだが、そこに立ち尽くし、川の向こうを見つめているようだ。
拓也はただ息を潜め、詩葉の動向をうかがった。彼女は風に吹かれ、何も動きを見せなかったが、なぜこの場所に立っているのか、拓也はすぐに知ることになる。
それは視覚的に理解するのではなく、風に乗って拓也の聴覚を刺激するものだった。歌声である。微かな、鼻歌のような、小さな歌声でしかなかったが、はっきりと拓也の耳に入ってきたのだ。
どこかで聞いたことがあるメロディ。英語の歌で、映画か何かで流れていた曲のはずだ。だが、それが何の歌なのか、というよりも、その美声が拓也にとって衝撃的なものだった。彼の中にある、一番幼い部分を柔らかい指先で撫でるような、慈愛で溶かされて行く感覚に満たされるのだった。田舎の薄暗い川辺が、雲の上の世界であるように、心地よかった。いつまでも、これが続けば良い。そんな風に思っていたが、歌声は突然止まった。
詩葉は歌い終えて、また川の向こうを睨むように見ていた。しかし、何かを諦めるように視線を落とすと、川辺の道を進み始めるのだった。拓也はゆっくりと草むらから顔を出し、詩葉の背中を確認した。例え、彼女が振り返ったとしても、この暗さでは拓也の姿を確認することはないだろう。だから、拓也は詩葉の姿が見えなくなるまで、その背中に視線を注ぎ続けた。
やはり、楠木詩葉は特別な女だ。彼は改めてそう思うのだった。
転校から一ヵ月経っても、楠木詩葉は教室に一人でいることが多かった。
詩葉は転校して数週間は大した人気者だった。詩葉の大人びた雰囲気なのに人当たりが良く、分け隔てのない態度は誰からも評価された。その上、美少女なのだから、男女問わず注目を集めたのだ。
しかし、評価され過ぎたし、注目も集め過ぎてしまったのかもしれない。原因は分からないが、何者かが意図的に彼女の周りに人が集まらないように仕向けている。そんな空気が確かにあった。
教師たちは、詩葉が転校してから日も浅いことから、周りと馴染めていないと認識しているようだったが、生徒たちは敏感に彼女が外されている空気を察していた。事情を知らない生徒だって、感じられるほど、明確なものだったのだ。
とは言っても、教師たちが気付かないのも無理はない。なぜなら、詩葉は外されていようが、気にした様子はなく、他のクラスメイトが楽しそうに談笑している時間でも、涼し気に文庫本へ目を落としているのだから、子供たちの間だけに流れる繊細な空気を感じ取れない大人には、とても彼女が誰かの意思によって孤立しているようには見えないのだ。
拓也は彼女の置かれている状況を何とかしたいと考えていた。詩葉はきっと毅然に振る舞っているだけで、今の状況をつらく思っているに違いない。それに、特別な存在である彼女を守るのは、特別である自分の役目である、と彼は思っていた。
しかし、それは簡単なことではない。学校とは、閉鎖された狭い世界ではあるが、誰が敵で誰が味方なのか、把握が非常に難しい。下手に動くと、拓也自身がいつの間にか孤立している、なんてこともあり得るだろう。
仲間にそれとなく聞いてみるが、なかなか欲しい情報は手に入らなかった。誰もがそのことについて、触れないようにしている。そうなると、女子のヒエラルキーの中で、上位にいる存在が圧力をかけて、男子には情報が漏れないようにしているかもしれない、と拓也は推理した。
今日も詩葉は一人だった。給食の時間や教室の移動、放課後。彼女は常に孤独だったが、それを好んでいるかのように、常に文庫本に目を落としているものだから、段々とそれが自然になっていた。放課後、誰もが早々と教室を出ていく中、詩葉はやはり本を読んでいた。拓也は暫くその様子を見ていたが、最近組んだばかりのバンドの練習があり、音楽室に行かなければならないので、仕方なく席を立った。
「ねぇ、拓也ー!」と小夜が声をかけてきた。
「なんだよ、急いでるんだけど」
いつも正面から彼の目を見据えてくる小夜だったが、今日は視線がやや右に流れていた。
「別に、何ってことはないよん。でも、音楽室まで行くんでしょ? 一緒に行こうよー。練習、見たいし」
「くるなよ、邪魔なだけなんだから」
「良いじゃん良いじゃん」
小夜は拓也たちの練習を見るために、頻繁に音楽室へ出入りしていた。何をするわけでもなく、言葉を発するわけでもなく、ただそこにいるのだ。
「小夜ちゃん、ばいばーい」
「あ、小夜ちゃん。また音楽室ー?」
「小夜ちゃん、また今日の授業、こなかったでしょ?」
小夜と一緒にいると、彼女が多くの人間に声をかけられる様子を目にする。女子たちは派閥のようなものを作りがちではあるが、そう言えば、小夜はどこの派閥にも属していない気がした。媚びた声色と性格のせいか、誰からも親しみを持たれるのかもしれない。
周りに人気がなくなる。音楽室は生徒が使う昇降口とは逆の方向にあるため、そちらに向かえば、自然と人は少なくなるのだ。
すると「ねぇ、拓也」と小夜が、どこか遠慮がちに口を開いた。
「ん?」
「もしかしてさ、拓也って詩葉ちゃんが好きなのかなぁー?」
突然の問いかけに、言葉を失う。しかし、ここで黙っては逆に怪しい、と拓也は思い直した。
「はぁ? なんでそうなるんだよ」
「だってさー、拓也って最近、やたらと詩葉ちゃんのこと見てない? 気付いたら見てました、みたいな感じで」
「気のせいだろ」
「私は、拓也のことばかり見ているから、分かるんだけどなぁ」
変な沈黙が生まれてしまった。別に誤魔化す必要はない。しかし、自分のことを好いている、と言い切る小夜の前で「詩葉は特別な女だと思う」などとは、とても言えなかった。
それでも無言は避けたいと思って「だってさ」と拓也は言った。
「なんか、あの転校生…ずっと一人じゃん。もしかして、誰かから外されているのかな、って思って」
「……ふーん。拓也がそんなこと気にすることが意外だけど」
「気になるだろ、そりゃ。何か知らないのか?」
「知らないこともないけど、教えなーい」
「なんでだよ、教えろよ!」
つい声が大きくなった拓也の声に、小夜は驚いたのか目を丸くする。恐怖を覚えたのか、少し身を固くしていることも分かった。そこで謝れば良かったが、小夜に対してそんな言葉をかけるのは、なぜか恥ずかしくて、口にできなかった。
「どうせ、沙知か日向でしょ」
やや決まり悪そうに、小夜は言った。
「それは、何となくわかるけど…」と拓也は呟くように言った。
実際に、拓也もその二人のどちらかだろうとは踏んでいた。
「もう少し、踏み込んだ話はないのか?」
「……そうだね。まず、沙知の方だけど、詩葉ちゃんのことを話しかけにくいって言ってた、とは聞いているよ」
「珍しいな。沙知は誰でも気兼ねなく話すタイプじゃないか」
「そう。だから、何かあったのかな、って何人かの子は言っている」
詩葉を「外している」かもしれない人物として、名前が挙がった中島沙知は、拓也のクラスの女子の中でも、かなり目立つ人物だ。まず、彼らのクラスの女子は、主に三つのグループに別れている。中島沙知がリーダー各となるグループは、最大派閥とも言えた。強い特色がないことが特徴的で、良く言えば幅広い層を仲間としているのだ。
中島沙知その人は、良く言えば明るく、悪く言えば耳障りなほどに声が大きい。女子の割にはやや長身で、言いたいことは、はっきりと口にするが、逆に自身にとって耳が痛いことを言われてしまうと、機嫌を損ねてしまうようなナイーブなところもある。しかし、自分の派閥と言えるような人間に対しては、分け隔てなく声をかけることから、信頼は厚いと言えるのだ。
そんな彼女自身は男子から人気がある、とは決して言えないが、大人しく可愛らしい女子が周りに多いことから、男子からも声はかけられることが多い。つまり、女子は中島沙知にさえ話を合わせておけば、クラスの中で居場所を失うことはないし、男子からの人気もある程度は約束されるのだ。
男子からしてみても、彼女の機嫌を取って置けば、クラスの女子と不仲になることがなく、意中の女子がいれば近づきやすい。女子に対し、肩身の狭い中学三年間を過ごす必要もなくなる。それが故に、中島沙知の発言力は強い。彼女が誰かを「外そう」と言えば、その人物の居場所はかなり限定されてしまうことだろう。
「日向の方は?」
「あの子はいつもあんな感じだから」と小夜は溜め息を吐く。
「あんな感じって?」
「少しでも自分に理解できない行動を取る人がいると、気持ち悪いって言い出すんだよねぇ」
もう一人の候補者は、日向由佳。五人ほどの小さなグループのリーダー各だ。彼女のグループは、このクラスの中でも一番大人びた雰囲気の女子が集まっている。中学生だが、自分たちは高校生だと言わんばかりに背筋を伸ばしているのだ。
歳の離れた姉でもいるのか、教師からも注意されることがないような、薄い化粧を施し、中学生とは思えない雰囲気がある。そんな大人びた彼女たちは、他の生徒たちを「幼い」と見下している傾向があった。それ故に、彼女らの異性への興味は、一つ上の先輩に向けられるか、同学年でも大人びたタイプの男子しか相手にしないのである。
女子についても、自分たちと同格と見做した容姿やセンスの持ち主でなければ、積極的に口を効こうとはしなかった。だから、彼女たちの存在はクラスの中で浮いている。しかし、彼女たちはそれを孤高であると認識していた。自分たちは他のクラスメイトよりも、一段上の存在である、と。
そんなグループのリーダーである日向由佳は、特にその傾向が強かった。自分が「幼い」と評価した相手に対しては、軽蔑の視線や侮蔑の言葉を惜しまないのである。その感覚がグループの女子全員に共有されてしまうと、さらに厄介なことになる。
対象となってしまった人間は、彼女たちによる一つ上の目線から、強いプレッシャーを受けることになるのだ。もう一つのグループのリーダー各である中島沙知も、これには逆らうべきではないと判断しているらしく、日向たちのグループが不穏な空気を出したとしても、不干渉を徹底する。つまり、この二つのグループは拮抗した力関係にあり、どちらもその状況を崩すつもりはないのだ。
「確かに楠木は転校生で、変わっているように見えるかもしれないけど、外される理由があるとは思えないな」
「何かあったんでしょ、この二人のどちらかと」
「どっちだと思う?」
「……さーねー」
小夜は顔を背ける。これ以上、話す気はないらしい。それもそのはず、拓也は乱暴な態度を取ったことを彼女に謝ったわけではないし、心当たりを話してくれる彼女に礼もなければ労いもないのだから。拓也も自分自身の理不尽な態度に気まずさを覚え、それ以上、何かを聞くことはできなかった。
だが、小夜は再び拓也に顔を見せると、何かを思い直したように笑顔を見せた。拓也はこれから語られるだろう、小夜の思い付きを想像し、少し不安を覚える。
「もっと知りたい?」
「別に……」
「拓也が知りたいなら、調べてあげるよ。理由もしつこく聞かないし、誰にも拓也の名前も出さない」
確かに、どこの派閥にも属さず、そのくせなぜか多くの人間と関わりがある小夜なら、中島沙知と日向由佳の詩葉に対する動向を追えるのかもしれない。しかし、小夜が何かを企んでいるのは、明白だった。
「条件が、あるんだろ」
「うん」と小夜は笑顔を崩さず、拓也を見つめる。
「言えよ、早く」
「えっとさ、いつかで良いから、私のために一曲作ってよ」
「はぁ?」
「拓也、いつか自分で曲作ったりするでしょ?」
「……どうかな」
「きっと、そうなるよ。拓也はカッコイイし、ギターも上手いから、音楽やれば有名になるよ」
「バカじゃなねぇの? そんな簡単じゃないだろ」
「そうかもだけど、拓也ならできるよ、絶対」
絶対、と簡単に口にする小夜が、本当に馬鹿らしく思えた。しかし、嫌味のない笑顔を浮かべ、自分を肯定されるのは、悪い気はしなかったし、自分なら確かにできるかもしれない、という気持ちさえあった。
「約束するだけならな。守るかどうかは、知らないぞ」
「本当? 約束だよー!」
小夜はそう言うと、廊下を走り出す。しかし、それは音楽室とは別の方向だった。
「音楽室、行かないのか?」
彼女の背中にそう声をかけると、小夜は振り返りつつ笑顔で言った。
「うん、大丈夫。すぐに今の件、解決してあげるから。じゃあ、練習がんばってねぇ!」
小夜はすぐに廊下を曲がってその姿を消した。
「なんなんだ、あいつ…」
誰もいなくなった廊下で、拓也は一人呟いた。小夜は馬鹿だ、と思う。実際に授業は殆ど出ていないし、テストの点も低い。始めたばかりの拓也のギターを上手いと言い、下らない約束をしてはしゃぐ。本当に馬鹿な女だし、哀れだとすら思う。
それなのに、拓也はこの件を小夜に任せれば、何となるような気がしたのだった。




