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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第二章 児玉拓也
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1

「お前って、女子から人気があっても、何か普通だよな」


それが、誰にかけられた言葉だったのか、児玉拓也は覚えていない。幼い頃、誰かが悪気もなく、何となく思って口にした言葉なのだろう。ただ、その言葉は彼の奥底に残ることになった。ただ、その言葉が彼の自尊心を傷付け、彼の未来も否定されたような、そんな感覚はいつになっても忘れられない。


つまり、自分は普通という大勢の中に埋もれ、誰からも特別視されていないのかもしれない、という恐怖が、この言葉によって植え付けられてしまったのだ。


自分の両親を見ても「普通」という言葉が、まず思い越された。父親はどこにでもいるサラリーマンで、聞いたこともないようなメーカーの営業をやっていて、朝は八時前に家を出て、夜は七時過ぎに帰ってくる。母も午前中はスーパーでパートをして、夕方までに帰って家事、そして食事の準備をする。


拓也にとって彼の両親らは、文句のない良い親だった。ただ、一つ不満があるとしたら、とにかく「普通」ということ。そういう生活をしている人間が、自分の他にも五万といるのは知っている。だが、その五万に自分も含まれ、注目を集めることなく、平凡な一生を終えることが、恐ろしくてたまらなかった。


金曜日の夜に放送されるテレビ番組では、流行りの曲を歌うミュージシャンたちが紹介されている。観覧に並ぶ人々は、ミュージシャンたちに手を伸ばし、歓声を上げていた。特別なものだけが、このように視線を集めることができるらしい。


それを見る度に、拓也は思う。自分もこのような視線を受ける日がこないだろうか、と。いや、自分を普通だと評した人間たちを見返すためには、そうならなければならない。特別な人間になり、特別な何かを得るのだ。拓也は誰かにかけられた、心もとない一言から、そんな生き方を常々求めるようになったのだ。そして、彼が楠木詩葉へ恋心を抱いたのも、そんな劣等感が起因していたと言えた。


「ねぇ、拓也ー」と甘えるような声色で彼を呼び止めたのは、クラスメイトの小夜だった。


拓也は最近、放課後になると親に買ってもらったばかりのギターを背負って、音楽室へと向かうのがお決まりだった。そして、そんな拓也に小夜が付きまとってくるのも、最近のお決まりだった。


「拓也はさぁ、彼女とか欲しいと思わないのー?」


「ないない。中学生に彼女とか、早すぎだろ」と拓也は答える。


実際に、彼は彼女が欲しいとは思ったことはなかった。今はギターに打ち込みたい、という気持ちが強かったのだ。そうは言っても、ギターを弾けるようになりたい、と思った理由は、彼の普通でありたくない、という劣等感から脱却するためだった。


拓也は中学生になってから、自分が異性から好意的な目で見られる外見を持っていると確信するようになった。小学生の頃から、女子に人気がある、と噂では聞いていたが、自分がモテるタイプの顔付きだと、最近は自覚できるようになったのだ。


その証拠に、中学二年生になったばかりの春は、何人もの女子から告白を受けていたし、彼のことを好きと言っている女子が複数いる噂も何度と聞いた。選ぼうと思えば、誰であろうが、自分の女として、選ぶことができただろう。しかし、彼はそうしなかった。


その理由は、ギターに打ち込みたい、という、普通からの脱却に忙しいことと、さらにもう一つあるのだった。特別と思えるような女が、目の前に現れなかったからだ。平凡な女は、選びたくはなかった。そんな女を選んでしまったら、自分が普通になってしまうから。


例えば、目の前で首を傾げる小夜も、拓也にとっては平凡でどこにでもいる、少しませた女でしかなかった。


「なんで? 逆にさ、中学になって好きな子もいないとか、おかしくない?」


そんな拓也の絶対的な反普通主義を知らずに、小夜は食いついてきた。


「おかしくないだろ」と拓也は答える。


「おかしいよ。好きな子がいないとか、逆に気持ち悪いって私は思うけどなぁ」


「はぁ? なんでだよ。じゃあ、お前はいるのかよ、好きなやつ」


拓也は突き放すように言ってみせた。小夜のことだから「ひどいよー」なんて言いながら、へらへらとした表情を見せるのだろう、と思っていたが、意外な反応を見せた。


「そんなの」と言って小夜は拓也を睨み付けるように見てきたのだ。


一瞬だけ、拓也は緊張した。


「そんなの、拓也に決まっているじゃん」


「……はぁ?」


聞き違いだろうか、と耳を疑った。しかし、小夜は言い直すこともなければ、拓也から目を逸らすこともない。


「バカじゃねぇの、お前」


拓也は本気でそう思い、本気でそう言った。小夜は、別のクラスだったとは言え小学校も同じだった。だから、拓也にとって良く知る存在だったし、普通というカテゴリーから突き抜けた存在だとは思えなかった。小夜にとっても、拓也はそういう存在だろうし、とても恋心を抱くような対象ではない、と拓也は考えていたのだった。


しかし、小夜からしてみると、素直な気持ちを否定され、嫌な気分でしかなかったらしい。小夜は少し顔をしかめる。


「えー? 好きって言っただけなのに、なんで馬鹿とか言われるの?」


「……別に」


しかし、冷静に考えて、おかしいのは自分の方かもしれない、と拓也は思い直す。中学に入ってから、周りでは、誰が好きだとか、誰と付き合うだとか、そんな話が多くなった。今まで、当たり前のように近くにいた異性に対して、そんなことを言う彼らが拓也に理解できなかった。自ら、平凡に身を落とすようにしか、思えなかったのである。


ただ、それが普通であって、非難すべきことではないと理解していたし、彼らとは違う考えを持つことで、拓也自身が特別な存在であると考えられなくもなかった。


「私、どうすれば拓也と付き合えるのかなー?」と何が嬉しいのか笑顔で質問する小夜。


「その前に、なんでお前は俺が良いんだよ?」


「ええ? かっこいいじゃん。あと、ギターとか弾くし」


「それだけかよ」と小夜の普通の回答にうんざりする。


「他にもあるけどさ、わかんないよ。好きだな、って思うから好き。それで良いと私は思うけどなぁ?」


「意味分かんねぇし。やっぱ、お前バカだろ?」


「なにそれ、ひっどーい」


小夜はバカと言われても、悔しくないのか、へらへらと笑っていた。それどころか「実際、バカだしね」と言って、前回のテストがどれだけ酷かったか、ということを話し出す。それについては、拓也も同レベルだったので、何とも言えなかった。


拓也は小夜のことを軽視していた。決して軽蔑していたわけではないが、軽視していたのである。しかし、後にこの小夜が、特別と平凡の間で拓也を葛藤させるとは、思いもしなかった。そして、二人のこの会話から一か月後、拓也の人生をさらに大きな葛藤をもたらす人物があらわれることになる。拓也にとって、特別な女が。


「初めまして。楠木詩葉です。よろしくお願いします」


そう言って、黒板の前で頭を下げる少女は、まるで非現実的な出来事、彼らの年齢で言えば「青春」の訪れを感じさせた。新学期、転校生が拓也たちのクラスにやってきたのだ。拓也は彼女を見た瞬間、これだと理解した。艶のある黒髪、白い肌、美しい立ち振る舞いは、拓也が知る女子生徒たちとは、まるで違う存在だったのである。


拍手を浴びる彼女は、控えめに微笑む。拓也だけは、その微笑みに見惚れ、拍手をすることを忘れていた。すると、一瞬だけその少女が自分を見た気がした。しかし、それはすぐに別の方へ向けられ、彼女は拓也よりも後ろの席に座ってしまった。


彼女が教室に入ってから席に着くまで、たった数分の出来事でしかなかった。それなのに、拓也は確信していた。彼女こそ、自分が特別になるための、特別な女である、ということを。

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