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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第一章 白川誠
15/61

15

夏休みも終わって、少し涼しくなった。


僕と小夜の生活は続いていたし、詩葉さんは答えを保留にしたままどころか、会うこともなかった。連絡をしても、全く反応がない。完全な無視だ。


「フラれたんだよ、まこちゃんは」と小夜にからかわれても、返す言葉もない。


僕は一切の活力を失ってしまい、部屋でぼんやりしていることが多くなってしまった。


「なんか最近のまこちゃんはあまり美味しくないなぁ」


そんなことを小夜に言われるほど、僕の気力は失われていた。


「まこちゃん、そんなに気を落としても仕方ないよ。リフレッシュしよう。私、まこちゃんとデートしたあそこ、また行きたいなぁー。今から一緒に行かない?」


「……行きたくない」と僕は暗い声で答える。


小夜は僕の気を紛らわせようとしたが、そんな気分にはなれなかった。


「そうは言ってもね、部屋でずっとダラダラしているから、どんどん気分が落ちちゃうよ。ちょっと出かけてみよう。ねっ!」


「一人で行ってきなよ」


「それじゃあ、意味がないんだって。私はまこちゃんに元気になってほしいの。まこちゃんが落ち込んでいると、胸が苦しくなって、じっとしていられなくなるんだから。笑ってほしい、って思うの。そういうの、まこちゃんにも分かるでしょ?」


分からなくもなかった。僕だって詩葉さんの表情の変化で一喜一憂するのだから。


「それにさ、まこちゃんが元気ないと、ご飯が美味しくないんだって」


気持ちはどん底だったが、ぶれない小夜のそんな言葉に、僕は少しだけ笑みをこぼしてしまった。


「あ、可愛い笑顔! まこちゃんは笑っているのが一番だよ。ほら、ほら!」


「分かった、分かったよ!」


僕は小夜に腕を引っ張られながら、立ち上がり、彼女の言う通り少し外に出掛けてみることにしたのだった。


詩葉さんのプレゼントを探したあの街をぶらぶらと歩く。あのときと同じように、小夜があっちだこっちだと歩き、僕はそれに付いて行くだけではあったが、はしゃぎ回る彼女を見ていると、確かに僕は心が安らいだ。少しだけだけど。


あのネックレスが売っているお店に行ってみたら、同じものが売っていたので、僕は小夜にプレゼントしようと思った。しかし、彼女は首を横に振る。


「良いよ。あのとき見つけた、あれが欲しかっただけだし。それに私なんかのために、お金を使わなくて良いよ」


小夜は僕の言い分は聞かず、その店から離れてしまったので、ネックレスを買うことはなかった。


歩き回って、少し疲れたので二人でベンチに座って、近くで買った飲み物を口にした。何となく、駅前の人の流れを眺めていると、色々な人が右へ左へと動く様が目に映る。その中に、文庫本を持っている女性の姿が目に止まった。


詩葉さんみたいだ、と思うが似ても似つかない。すると、その女性に話しかける男性がいた。待ち合わせの相手だろうか、と思ったが、反応から違うらしかったし、ナンパでもないようだった。偶然、思わぬ場所で顔見知りに出会った、という雰囲気でもないようだった。


「運命だなぁ」と僕は呟く。


「何か言った?」


小夜の声を聞いて、僕は突然、過去の記憶が蘇る。何となく、いつだか詩葉さんは運命について話していたことを思い出した。確か、悪魔の話をしていたときのことだ。運命を変える悪魔だとか、そんなことを話していただろうか。


「小夜は、運命って信じる?」


何気なく聞いただけだったのだが、小夜は意外な反応を見せた。


「なんで?」


僅かな違いでしかないが、彼女の声色は、いつもよりも鋭く、不穏な響きがあった。


「い、いや…何となくだけど」と僕は誤魔化すように言った。


そして、なぜそんなことを聞いたか、という経緯を説明した。ただ、詩葉さんがその言葉を口にしていたことだけは伏せておいた。何となく、だけど。


すると、小夜は「ふーん」と言って、少し考え込んだようだった。いつもの小夜であれば「私とまこちゃんが出会ったことが運命そのものだよ」なんてことを言って笑いそうなものだが、どこか神妙で、どこか不快に思っているようでもあった。


「そうだね、私はあまり好きではない言葉かな。結びつけようと思えば、良いことも悪いことも運命に結び付けられるし。素敵な出会いを運命とするなら良いかもしれないけど、悪い結果が先に見えてしまって、どうあがいてもそれを変えられないなんて思ったとき、運命という言葉は重くのしかかる。私はこうやって誰かの命を拘束し続ける運命に縛られてしまったけど、それを永遠に繰り返されるとしたら、やっぱり嫌だな」


小夜はどれだけの人間と死別したのだろうか。一人だけ別の時間を生きると言うことは、僕らの想像を超えた苦しみがあるに違いない。


「……ごめん。僕には小夜の苦しみを少しも理解できない。かける言葉も、見つからない」


「良いんだよ、それで」と小夜は笑った。


小夜は立ち上がる。


「私みたいな悪魔は人を不幸にすることしかできない。きっと、みんな私を恨みながら死んだ。実際に、何度も恨みの言葉なんてかけられたしね。それで、時々その恨みが重たく感じることがあるんだ。なぜ、そこまでして生きようと思うんだ、って誰かにずっと言われている気もする。それでも、私は空腹を我慢できないし、目を閉じて自分がなくなってしまったら、って思うと怖い。そんな自分勝手な気持ちで、多くの人を犠牲にして、恨まれて当然だよね。まこちゃんだって、本当は嫌なら嫌って言って良いし、恨み言もたくさん言って良いんだよ。あ、それで私がまこちゃんを自由にしてあげられるかと言ったら、別の話だけどね」


小夜は笑ってみせるが、僕はとても笑えなかった。彼女がどれだけの人間にどんな恨み言をかけられたのかは、想像もできない。なぜ、そんなことになってしまったのか、その経緯すらも。だって、僕にとって小夜はいつでも明るい存在だったし、皮肉や現実を突きつけてくることはあったが、それは決して僕に対して悪意があるものではなかった。彼女は本質的には優しいのだ。それを僕は知っている。


「僕は…小夜を嫌ったり恨んだりはしないよ。もし、僕たちが別れる日がやってくるなら、それはお互いが納得する形で別れることにしよう」


「あはははっ。ありがとう。でも、無理しないで良いよ。いつかは、本当に嫌になることが、絶対に起こるからさ。今のは、聞かなかったことにしてあげるよ」


「なんでそんな風に」と僕は向きになって立ち上がる。


僕の言葉に嘘はない。そう言いたかった。


でも、僕は何かを感じて、視線を別の方へ向けた。何を感じたのか、自分でも分からない。ほとんど、勝手に顎が動いて、そちらの方向に向いてしまったような感覚だった。


次の瞬間、僕は信じられないものを見てしまった。それを見て、僕は凍り付く。見間違いではないか。そう思いたかったが、それは実際に目の前で起こっている、と受け入れるしかない状況だった。


小夜は僕の表情の変化を汲み取り、自分の背後で何かが起こっていると悟って、振り向いた。そこには詩葉さんがいる。一人ではない。横に、僕の知らない男がいた。そいつは、髪は金色に染めて、ウソみたいに大きなサングラスをした、派手な男だった。いかにも詩葉さんが嫌いそうな、派手好きそうな男だったのだ。それなのに、詩葉さんはその男に腕を絡めて、楽しそうに笑っていた。


僕の前で笑顔を見せてくれることは、もちろんあったが、それとは何かが違った。僕には決して見せてくれなかった、女としての顔がそこにあったのだ。


そんな彼女の視線が動き、茫然と立ち尽くす僕を見た。その瞬間は一秒ほどあっただろうか。次に、小夜にその視線は向けられ、何事もなかったように逸らし、隣にいる男に微笑んだ。詩葉さんは僕たちの目の前を横切り、賑やかな通りへと消えて行った。


二人の姿が完全に見えなくなっても、僕は何も考えられず、小夜の隣に腰を下ろした。


あれが、詩葉さんがずっと想い続けている男だと言うのか。どう考えても、僕と正反対の男だった。詩葉さんにとって、理想の男が、あんな軽薄そうな男だというのか。いつだか、詩葉さんが嫌いだ、と言っていたタイプにしか見えなかった。だとしたら、僕と言う存在は、彼女にとって、どう映っているのだろうか。


僕の胸の辺りから、何かが込み上げてくる。それは上へ上へと蠢き、僕の頭を破裂させようとした。僕は頭が割れてしまわないように、頭を抱えて、歯を食いしばる。しかし、それは絶え間なく胸から頭へと突き上がり、僕を破滅させようとした。


何なら破裂してしまえば良いのに。そうすれば、この苦しみに耐える必要はない。


黒く染まる。感情が何かに蝕まれて行く。このまま、壊れてしまえば良い。壊してしまえば良い。どこでも良い。自分を叩きつけてしまいたかった。壊れるまで何度も。何度も。


「まこちゃん」と小夜の声が聞こえた。


同時に、頭を抱える僕の両手に冷たい感触があった。小夜の両手が僕の手を優しく包み込んだのだ。彼女は僕に何が起こったのか、一瞬で悟ったらしい。そして、彼女の手は、僕の中で激しく蠢く何かを宥めたのか、気持ちが少しだけ落ち着いた。人の体温は心を落ち着かせる、と言うが、今の僕には絶大だった。彼女の体温は、僕よりも低くて、温かみを感じることはなかったが、その冷たさが、僕の気持ちを落ち着かせてくれるのだった。


「大丈夫。どんな状況だろうと、私はまこちゃんを裏切ったりしない。だから、自分を否定しないで」


「でも、僕は……」


「詩葉さんに、認めて欲しかったのは、分かるよ。でも、あの子の評価が、まこちゃんのすべてじゃない」


「すべてだよ。すべてだったのに」


声が震える。そんな僕を包み込むように小夜は言った。


「大丈夫。本当に大丈夫。私は知っているよ、まこちゃんのこと」


「僕の何を知っているんだよ。誰も僕のことなんて分かってくれない。知っているんだ。詩葉さんも、父さんも…僕のことなんて分かってくれない」


「だったら、まこちゃんのこと、私にも教えて。本当の、まこちゃんを教えてよ」


「本当の僕って…」


「ピアノを聴かせて」


「え…?」


その言葉は、何度も僕の心を奮い立たせてきたものだった。そして、たった今、僕を裏切った言葉でもある。


「あのときの、ピアノ…まこちゃんが弾いていたんでしょ?」


僕は一度も小夜の前でピアノの話をしたことがなかった。唯一、あの不思議な家に迷い込んだ時、僕は彼女の近くでピアノを弾いたかもしれない。あのとき小夜は意識が朦朧としていた。きっと、夢の中で聞いたように、忘れているだろうと思っていた。


「気付いていたの?」


「うん。あの日、まこちゃんの大学で出会った日も…私はまこちゃんのピアノを聴いてたんだって…気付いた。触れて欲しくなさそうだから、言わなかったけど」


「そうだったんだ…」


小夜は頷き、さらにこう続けた。


「きっと、まこちゃんは、ピアノを弾くことで、本当の自分を表現できると思う。今みたいな、つらいときこそ、本当のまこちゃんを表現するべきなんじゃないかな」


「どうして…?」


「誰かに、自分のことを知ってもらうことは重要なことだよ。何が得意で何が苦手なのか。今が嬉しいのか、つらいのか。ちょっとしたことでも、理解してもらえるってだけで、人は安心できるって私は思うよ」


小夜の言葉は優しく、僕の心に染みて行く。それでも、僕はピアノを弾く気にはなれなかった。しかし、小夜は僕を引っ張るように、ある場所へと移動させた。家電量販店の楽器コーナーだった。


そこにはピアノはないが、キーボードであれば、いくつか並んでいる。


「弾き始めれば、少しは気持ちが変わるかもしれないからさ」


「わかったよ。少しだけ、弾いてみる」


もう、観念するしかないらしかった。僕はいくつかあるキーボードの中から、一つを選び、その前に座る

詩葉さんの家にあるものと、同じメーカーのものを選んだ。これだったら、慣れているので、他のものよりも弾きやすいだろう、と思ったのだ。


鍵盤に手を置く前に、小夜の方を見た。どんな表情で、僕のピアノを聴こうとしているのか、それが気になったのだ。小夜はただ穏やかに微笑んでいるようだったが、どこか寂し気で懐かしむようにも見えた。


その表情の意味が、少しだけ気になったが、自分の鬱屈した気持ちが勝り、小夜の感情について深く考えることができない。


僕は深く溜め息を吐いてから、鍵盤を叩き始めた。ピアノとつながることはできないし、荒々しくて、自分でも最低な演奏としか思えなかったが、だとしても誰にそれが分かるというのだ。誰も僕のことなんて、理解できるわけがない。だから、どうだっていいのだ。僕はただ鍵盤を叩いた。


一曲弾き終えて、僕は自身にうんざりしつつ、また小夜を見た。どうせ、これで満足しただろう。そんな気持ちで、僕は小夜を見た。小夜は変わらず穏やかな笑みを浮かべていたが、先程とは違って、どこか憂うような表情があった。


「今のは…まこちゃんのピアノじゃないよ」


「……どうして?」


「何となくだけど、分かるよ。まこちゃんのピアノは、もっと人に寄り添うようで、優しいものだと思う。人を癒す力があるんだよ。私には分かるし、他にも分かる人は、たくさんいるよ。だから、投げやりにならないで」


小夜は、僕が心がける演奏のスタイルを確かに言葉にしていた。僕のピアノとは、確かに、そういうものだったのだ。たった一人のために、そうあろうとした演奏。そしてそれは、意味のないものだと、つい先程思い知らされたのだ。だから、そんなピアノをもう一度弾けるとは思えなかった。


「大丈夫だよ。まこちゃんが思っている以上に、他人は優しいはずだよ。だから、もう一度やってみて。きっと、この世界と共鳴できるはずだよ」


「できたとして…それが僕にとって、どんな価値があるんだろう。僕は…この指と鍵盤の間に生まれる世界が、もう無価値なものだとしか思えないんだ」


「もし、まこちゃんがすべてを信じられなくなって、ピアノを弾けないのなら、今は私のことだけを考えてみて。私は絶対にまこちゃんを裏切らない。まこちゃんが許してくれる限り、ずっと傍にいる。そしたら、少し弾ける気がしてこない? そうやって集中できたら、まこちゃんはきっといつも通りにできるよ」


僕は一度、目を閉じて、小夜が言う通りにしてみよう、と思った。


突然、小夜が上から降ってきたあの日のこと。二人で夜から昼までずっとベッドで過ごしたこと。たまに一緒に出掛けたり、変な道に迷い込んだり、そんな冒険もあった。


小夜と過ごした日々を思い返しながら、僕は鍵盤を叩き始めた。ゆっくりと、静かに。不思議と気持ちも落ち着き、小夜と過ごした日々以外は、嬉しかったことも、悲しかったことも、僕の意識に浮上することはなかった。


すると、小夜の言う通り、僕はピアノとつながることができた。ピアノの意思が流れてくる。僕はそれに対し、小夜のためにこんな風に弾いてみたい、と提案してみた。すると、ピアノがそれに応える。そして、一つのビジョンが浮かんできた。それは、小夜の意識に違いない。彼女の意識は、雲の間から差し込む、光の筋のようだったが、所々が石化していた。まるで、小夜の持つ輝きが、何かしらの影響で封じ込められてしまったかのように。そうだ、あの不思議な家で見た、小夜の意識も、こうやって石化していたではないか。


きっと、今の僕なら、彼女の光を取り戻すことが、できるのではないか。僕は小夜の意識に干渉してみた。彼女の輝きを封じ込めようとする石を剥がすためには、どのようなメロディが適切だろうか。僕は演奏の強弱を変えたり、選曲を変えたりと、いくつかのパターンを試してみた。


すると、頑なに光を拘束しようとする石に綻びが見えたような気がした。反応があった演奏パターンで微調整しつつ石の反応を見守る。僕の演奏とシンクロするように、亀裂が入り、乾いた泥のように、石が少しずつ剥がれて行った。そして、すべての石が剥がれ落ち、光は煌々と輝くのだった。


僕の演奏は、きっと彼女に大きな影響を与えたはずだと、期待を抱きながら演奏を止めた。一息を吐いてから小夜を見る。彼女は、僕の演奏をどう感じたのだろうか。理解はされないかもしれない。それでも、少し喜んでくれれば、悪くないかもしれない。そんな風に、期待をせず、彼女の反応を確認してみたのだが、僕の想像とは全く違った反応を見せるのだった。


彼女は泣いていた。ただ、立ち尽くし、目を見開いたまま、流れる涙を拭うこともなく。彼女の口が少しだけ動いた。僕の名前を呼んだらしかったが、嗚咽に近い何かが、それをかき消してしまう。彼女は僕の方へ一歩前に出た。しかし、その歩みはまるで子供のように拙い。僕は彼女が転んでしまう気がして、すぐに立ち上がってから駆け寄った。僕が彼女に手を差し伸べる寸前で、やはり彼女の膝が折れ、その場に沈み込んでしまった。僕は必死に手を伸ばし、彼女の体を抱きかかえた。


小夜は僕の体に顔を埋め、声を出して泣き始めた。まるで、迷子の子供が親を見つけたときのように、彼女はただ泣いた。小夜があまりに大きな声を出して泣くものだから、周りの人間は怪訝そうな目を僕に向けていた。どう見ても、僕が小夜に酷いことをして、泣かせてしまったようにしか見えないだろう。


小夜が何とか落ち着きを取り戻し、家に帰ることはできたが、彼女から精気と言えるものが、完全に失われていた。いつもの小夜なら、何かがあってもすぐに元気を取り戻して、僕の不幸を期待していたかのように「フラれたね、まこちゃん」と笑うはずなのだが、そんな様子は微塵にもない。ただ黙って、虚ろな目でどこか一点を見つめるだけなのだ。彼女が生きてきた、二百年以上の疲労が、突然伸し掛かってきたのか、と思うほど、ぐったりとして動かなかった。


深夜に近い時間、詩葉さんからメッセージがあった。僕は開くのが恐ろしかったが、見ないわけにもいかなかった。恐る恐る内容を確認すると、それは短いものだった。


「一緒にいた女性は誰ですか」


これだけだ。すると、ずっと口を開かなかった小夜が、突然こんなことを言った。


「どうせ、自分のことは棚に上げて、まこちゃんを非難するようなメッセージだったんでしょ」


小夜は僕とは全く別の方向を見ていたのに、メッセージが送られてくるタイミングも、内容までも分かっているかのようだった。


「……そういうわけじゃない」と僕は否定する。


「まこちゃんが他の女と一緒にいたことが、気に喰わなかったんだろうね」


詩葉さんは、ただ僕に質問しただけであって、決して責めているわけではない。そう捉えることだってできるものだ。ただ、もう少しあの状況を説明し、彼女自身を擁護するようなことがあっても良かったのではないか、と僕は思った。メッセージを見て、何をどう返信すべきか迷う僕を見て、小夜は大きく溜め息を吐いた。


「ねぇ、まこちゃん」


その声は、どこか苛立ちが含まれているような気がした。


「私のことは、知らない人から募金をお願いされたとか、何とか言えば誤魔化せると思うよ。その後、まこちゃんが目にしたことを忘れてしまえば、二人の関係は上手く進展するかもしれない。でもね、詩葉さんは絶対にまこちゃんを苦しめるよ。あの子は控えめで賢くて清楚に見えて、それでいてユーモアもあって一緒にいると楽しいのかもしれない。でも、男にこだわりがある。そのこだわりを捨てることは、この先、何年経っても絶対にないよ」


僕は何も言い返すことができなかった。詩葉さんがあの男に見せていた笑顔は、僕に見せるものとは違っていた。それは、僕には覆すことができないような、決定的な何かであることは、自分でも分かっていた。あれが小夜の指摘する詩葉さんのこだわりで、僕はそれを持っていない、ということなのだろう。


「あの子は、頭が良い様で実際は頭が悪いよ。他人が何を言ったら傷付くのか、分かっているつもりで、分かっていない。たぶん、頭に血が上ってしまったら、平気で他人を傷付けてしまうだろうね。そしたら、まこちゃんのことを平気で要らない物として、切り捨ててしまう。自分が好かれる部分をちゃんと理解していて、それを上手く使って男を誑かす、悪女のようで、さらに言えば男好きだよ。それは一番嫌な女なんだよ」


どうしてそこまで、詩葉さんのことを悪く言うんだ。そうじゃない。詩葉さんはいつだって、優しくて、賢くて、僕にとっては初恋の人で、恩人で、憧れの人だ。僕の否定する気持ちを煽るように、小夜は続けた。


「それに、まこちゃんは女の子を引っ張っていくタイプじゃないし、あの子に振り回されてしまって苦労するよ。付き合ったとしても、まこちゃんはストレスを溜める一方で、上手く行かない。そんな未来がない相手を選ぶのは、やめておきな。まこちゃんは、絶対にもっと良い相手がいるはずだよ」


良い人がいる。どうして、そんな無責任なことが言えるのだろうか。僕が生活してきた中で、友達と呼べる人間はいたが、決して僕のことを理解してくれることはなかった。唯一の肉親である父もそうだ。そんなときに、唯一僕を理解してくれたのが、詩葉さんなのだ。そんな詩葉さんより、僕にとって良い人とやらが存在するのであれば、いつどこで出会うのかを教えてくれ。そうすれば、少しはこの気持ちだって抑えられるはずだ。それができないなら、ただの無責任で信頼できない言葉でしかないのだ。


「受け入れられないのは分かるけど」と小夜は続ける。


もうやめて欲しかった。これ以上、詩葉さんのことを…僕の気持ちを否定しないでくれ。そう思ったが、小夜は続ける。


「まこちゃんは、あの子と上手くやれないよ。私には、分かるよ」


「……お前に言われたくない」


言葉が勝手に出た。明らかな怒りと憎しみが凝縮された声が、僕の口から勝手に出たのだ。小夜も目を丸くして「え?」と小さく呟いていた。彼女の驚きは、差し伸べた手を噛みつかれたような、そんな驚きがあっただろう。悪気があったわけではない。僕のことを想って、言ってくれたのは、分かっている。


それなのに、僕は自分の気持ちをコントロールできなかった。胸の中で渦巻いていた黒い何かが、ゆっくりと頭に移動してくるような感覚があり、頭が急に熱くなった。それは、僕の劣等感が刺激され、自尊心が反発したことによって発生した熱だった。その熱を僕は放出しなければならなかった。僕がどれだけ我慢しようとも、それは耐えられない衝動だった。


「お前に、詩葉さんのことも、僕のことも、言われたくないって言ったんだよ! お前が急に現れて、邪魔しなければ、僕はもっと上手くやれたんだよ! 今日だって、お前がいたから、こんなことになったんじゃないか!」


大きな声を出したら、一瞬だけ胸はすっとした。でも、それは本当に一瞬でしかなかった。小夜の驚いた顔が、僕に誤りを気付かせ、後悔させたのだった。彼女は僕の憎悪を受け止め、一瞬だけ茫然としたようだった。それでも、すぐに無理やり微笑みを作って「ごめんね」と言うのだった。


「まこちゃんの言う通りだよ。いつも邪魔して、ごめん」


「いや……今のは違うんだ。僕の方こそ、ごめん」


「うん、分かっている。まこちゃんは、謝らなくて良いんだよ。まこちゃんは、少しも悪くないんだから」


取り返しのつかないことを言ってしまった、と気付く。僕は今日、小夜に恨み言なんて言わない、と口にしたばかりだった。それなのに、こんなにも容易く、その誓いを破ってしまうなんて。彼女は僕の誓いなんて期待していないと言っていたが、少しは信頼してくれていたかもしれない。それがこの様だ。彼女を深く傷付けてしまった。


「本当に、ごめん」


「気にしなくて良いんだってば。それより、早く詩葉さんにメッセージを返しなよ。私のことは、たまたま声をかけられた知らない人だって言えば良いし、一緒にいた男性のことは聞かなければ良いよ。私は、先に寝るから」


そう言って、小夜は狭いソファで横になってしまった。その後も何度か小夜に謝ったが、彼女は「大丈夫」「平気」と言うばかりで、僕の言葉を聞くようで、聞いてくれなかった。


当然だ。僕が感情に流され、彼女を傷付けるつもりで言葉を使ったのだから、不快な相手でしかないだろう。


室内に不穏な空気が流れる。お互いが、この空気を窮屈に思い、息苦しく感じている。どうしようもないことだ。口にしてしまったことは、二度と引っ込めることなんてできないのだから。




詩葉さんからのメッセージは数日経っても返事はなかった。

あれから、小夜の調子も戻ることはなく、ずっとベッドで寝ていたし、黙って過ごすばかりで、食事も殆ど取っていない。


「まだ、怒っている…よね?」


ある日の夜、そんな風に聞いてみると、小夜は少しだけ笑顔を見せてくれた。


「怒ってないよ、最初から。ごめんね、ちょっと考えたいことがあって静かにしていただけなんだ。今日は久しぶりに一緒に寝ようか」


そんな言葉が返ってきて、僕は少し安心する。最初は一緒に寝ることだって抵抗していたのに、どうしてこんな風になったのだろうか、と少し不思議にもなった。


次の日、詩葉さんからメッセージが返ってきた。就活が忙しくて返信が遅くなってしまった、と書かれていた。


「この前はごめん。私が男の人と一緒にいるところを見たと思います。あの人とは少し前にお付き合いしていたことは事実です。でも、お互い違う道を選ぶと決めました。あの日は、最後に一緒の時間を過ごそうと約束した日でした。今はきっぱりと別れています。白川くんに誤解を与えてしまったと思うし、私の態度も良くなかったと思います。今度、ご飯を一緒に食べませんか? そこで私は白川くんに伝えたいことがあります。どうか前向きに考えてもらえると助かります」


僕は自然と笑みがこぼれてしまった。そのメッセージを見たのは、大学で授業を受けていたときだった。自宅で見たのではなくて、良かったと思う。なぜなら、小夜は機嫌が直ったとは、とても言えるような状態ではなく、ずっと部屋の隅で黙っているからだ。僕が詩葉さんのメッセージで口元を緩めるようなことがあったら、小夜としては内心穏やかではないだろう。


しかし、そんな僕の心配は何の役にも立たなかった。家に帰ると、小夜はすぐに僕の変化に気付いたのである。


「詩葉さん、返信あったの?」


「えっ、な、なんで……」


小夜は僕が帰ってきても、テレビに目を向けたまま、見向きもしなかったのに、僕の心の内を読んだらしかった。


「まこちゃんが帰ってきたときの、足音で分かった」


「ウソ……」


「まこちゃんは分かりやすいんだよ、本当に。それで、詩葉さん、なんだって?」


「う、うん。今度、ご飯一緒に行こうって」


「ふーん。もう日付も決まったの?」


「うん。今週の金曜日」


三日後である。


「そうなんだ。夜?」


「うん」


「ふーん」


小夜は興味があるのかないのか、よく分からない返事をした。ただ、それだけでまた黙り込んでしまう。しかし、今日も小夜はベッドに入り込んできた。栄養を取っているのか、僕にへばりつくように密着していた。


そう言えば、彼女は数日、まともに食事を取っていない。そのせいか、僕も微熱が続き、体調は優れなかったが、我慢できないほどではなかった。だからと言って、僕の方から「食べた方が良いのでは?」と言うのも何となく憚られる。そんな状態が二日続き、詩葉さんと会う日の前日の夜のことだった。


「ねぇ、まこちゃん。明日は午前中学校で、そのまま詩葉さんに会いに行くつもりなの?」と小夜が突然聞いてきたのだった。


「うん。そのつもりだけど」


僕が答えると小夜は「ふーん」と言ったあと、急に後ろから僕の体に腕を絡めてきた。


「ねぇ、一生のお願いなんだけどさー」


「な、なに?」


「あのさー、明日は大学お休みしてさー、詩葉さんとの約束の時間まで、まこちゃんのこと好きなだけ食べさせてよー。今夜から、ずっと」


わざとやっているのか、小夜の吐息が耳にかかる。そして、彼女から発せられる匂いは、やはり僕の判断力や抵抗力を奪うのだった。この感じは久しぶりだったし、彼女への罪悪感があったせいか、僕は簡単に了承してしまいそうになった。


「だ、ダメだって。どうして、急に」


「だって、最近、私は全然ご飯食べてないじゃん。まこちゃんだって、少し具合悪くなってきたでしょう?」


「そうだけど…別に、まだ平気だし」


「本当に平気かなぁ? 体は平気でも、心の方はどうかなー? 本当は最近、私のことばかり考えてたりして」


「そ、そんなこと…」


なくはなかった。実際、小夜のことばかり考えていた。いや、同じ時間を過ごしているのだから、当然だし、出会った直後からそれはそうなのだけれど、ここ最近のそれは、また少し違ったものになっていた。気が付けば、小夜が元気かどうか、小夜が何を感じているのか、小夜が腹を空かせていないか、そんなことばかりを考えている。


「良いんだよ、正直なことを言わなくても。まこちゃんが素直じゃないって、私は知っているんだから」


僕は抵抗をするような素振りは見せたものの、いつも通りの小夜が戻ってきたようで、正直嬉しかった。好きなようにしてくれれば良い。そんな風に思ったのである。


結局、僕は次の日、大学には行かず、小夜に栄養を供給し続けた。朝方、僕は疲れ果てて、瞼を開いていられなかった。そんな僕に小夜は言う。


「ねぇ、まこちゃん。私がいなくなったらどうする?」


「え?」


「私が、いなくなったら、どうする?」


「死んじゃうよ、そんなの」


「寂しくて?」


「……うーん」


「寂しいの?」


「うーん」


眠くて、何も考えられなかった。返事がまともにできないだけではなく、小夜が喋る内容も、まともに理解できなかった。


「私がいなくなれば、きっとまこちゃんは喜ぶよね。まこちゃんなら、きっと良い人と巡り合うだろうし、私が傍にいる必要もない。だから、きっと、大丈夫だよね」


その後も、小夜は僕に何かを伝え続けたが、僕はやがて眠りについてしまった。


それから、僕は昼間に目が覚めることになったが、小夜は起きていた。僕が目を覚めるなり、食事を求められ、僕が言われるがままだった。夕方、約束の時間があるので、僕は急いで用意した。


「まこちゃん」


靴を履いて家を出ようとする僕に小夜は声をかける。


「頑張ってね」


「……うん」


小夜の笑顔を背に受けて、僕は急ぎ足で駅の方へ向かった。

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