12
「ねぇ、また詩葉さんのところに行くの?」
小夜の甘えた声が僕の背中を撫でる。それでも、僕は淡々と支度を続けた。小夜の言う通り、今日も詩葉さんからの呼び出しがあり、彼女のためにピアノを弾きに行くところだった。またしても、終電に近い時間。それでも、僕に行かない、という選択肢はない。
「最近、何か多いよねぇ」と小夜は少し呆れたように言う。
確かに、大学で詩葉さんから失恋を告白された日から、呼び出される頻度は高くなった。きっと、それだけ彼女の心は、乱れているのだろう。
「二人がラブラブになったのは、おめでたいかもしれないけどさ、流石にちょっと嫉妬しちゃうなぁー」
拗ねたように口を尖らす小夜だが、その後に「私のお腹のこと、考えて欲しいよ」なんてことを言うのだから、可愛らしいとは思えない。
「人のこと餌としか思ってないくせに、よく言うよ」
対抗するように言った僕の言葉に、小夜は納得いかなかったらしく、心外だと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。
「そんなことないよー。私はいつだってまこちゃんのこと愛してるってば」
「はいはい」
僕は地団太を踏み出しそうな小夜を適当にあしらい、家を出た。すぐに電車へ乗り込み、詩葉さんが住む街の駅まで、十分ほど移動した。
いつものように改札の前で待っていてくれる詩葉さんだったが、普段と様子が違うのは、一目瞭然だった。まず、文庫本を手にしていなかったし、お酒が入っても顔色が変わらない詩葉さんの顔は赤くなっていたのだ。
「白川くん、遅いぞー」と少し呂律もおかしいように思えた。
「お酒、飲んでいたんですか?」
「飲んだよ、飲んだとも。私が飲んじゃ悪いの?」
「そういうわけじゃないですけど、珍しいな、って」
「世の中、珍しいことだって起こるよ。そうじゃなきゃ、珍しいなんて言葉も生まれてこなかったでしょう? そんなことは、どうでも良いから、行こうよ」
詩葉さんは足元が覚束ないのか、一歩前に踏み出したかと思うと、ふらっと僕の方へもたれてきた。
「行くって、どこへ?」と支えながら僕は彼女に聞いた。
「うちだよー。コンビニでお酒買って、飲みながら、いつもみたいにピアノを聴かせてよ」
「けっこう酔っているみたいですけど…まだ飲むんですか?」
「私はね、今、白川くんと一緒に飲みたいの! 良いでしょー?」
そんなことを言いながら、詩葉さんは僕の服の裾を引っ張る。こんな風に甘えられるのは初めてで、とても断れなかった。
詩葉さんはコンビニでビールやら酎ハイを買おうとしたのだが、財布をまともに出せなかったので、僕が支払った。今まで一度だってこんなことはなかったけど、詩葉さんは明らかに荒れていた。やはり、失恋がかなり堪えているらしい、と思わずにはいられない。
詩葉さんの家も、この前とはやや違う雰囲気だった。もちろん、綺麗に整理整頓されてはいたのだがお酒の缶がいくつもテーブルの上に転がっていたのである。
「取り敢えずさ、座ってよ」
言われるがまま、僕が座ると、目の前に缶ビールが置かれた。
「今日は飲もう! 私が許すから!」
僕は二十歳になったばかりで、あまりお酒の味は理解できていないのだが、詩葉さんの前でそんな情けないことは言えなかった。
「乾杯!」と言って、詩葉さんは缶酎ハイを勢いよく喉に流し込んだ。僕はやむを得ず、ビールを喉に流し込む。しかし、詩葉さんは僕が飲んでいるかどうかは関係ないらしく、脈略のないことを話しながら、一人ハイペースで飲み始めた。なので、僕は詩葉さんの話を聞くことに徹し、目の前のビールには、それほど口は付けずに済んだ。
脈絡もない話題が出ては消えたが、それと同じようにして、彼女の中学時代の話が突然始まった。
「中学の同級生に、ちょっと苦手な女の子がいてさ」
彼女がそんな風に過去の話をするのは初めてだった。
「その子は、女の子だけど少し不良っぽい感じでさ、中学生なのに髪も染めてて、授業もさぼって保健室で時間潰してさ、先生に何か注意されても適当に返事するだけでね。でも、男の子から人気はあったんだ。顔も可愛くて、甘えたような声も出してさ、とても中学生とは思えない女らしさ、みたいなのがあったんだよね」
自由奔放で甘え上手な女、と聞いて僕は何だか、非常に近しいタイプの人間が近くに生息しているような気がしたが、それは頭の片隅へと追いやった。
「私は真面目に勉強してさ、先生の言うことも聞いて、周りの人に愛想を振りまいて、上手くやっているつもりではあったんだけど、そんなことをしなくても、その子は評価されていた。それが何となく、嫌だったんだよね。今になって思うけど、私はその子に劣等感を抱いていたのかなぁ。彼女には負けたくなかった。……負けたくなかったんだよねぇ」
「その人は、今何をしているんですか?」
「……さぁ?」
それ以上、詩葉さんが言葉を続けなかったので、僕が何かを言うべきなのだ、と思った。
「あの、思うんですけど、詩葉さんはその人に、劣等感を抱く必要なんて、ないと思います」
「……ふーん、どうして?」
「上手くは言えませんけど、詩葉さんは特別な人間だと思います。特別な感性を持っているし、特別な価値観も持っていると思います。だから、特別に愛される人だと思います」
「そうかな」
「はい。高校のとき、詩葉さんの周りにいる人を見て、僕はそう思いました。皆、詩葉さんの一挙手一動を見て、優しく包み込むように笑っていたんです。それは、皆が詩葉さんを好きだと思っている証拠だと、僕には見えました」
「……そうだったかな。覚えてないや」
僕の言葉に短く答える詩葉さんは、一点を見つめて僕に視線を向けることはなかった。そして、呟くように言うのだった。
「そうかもしれない。そうだったかもしれないけど……私は」
そこで、詩葉さんの目に涙が溜まっていることに気付いた。
「私は、運命の相手に…たった一人に振り向いてもらえなければ、意味がなかったんだよ」
そう言った詩葉さんの瞳から、一粒の涙が零れた。彼女はそれを隠すように俯き、両手で顔を覆ってしまった。僕は彼女に声をかけたくても、どんな一言が適切なのか、全く分からなかった。ただ、彼女を悲しませた何かが憎く、何もできない自分が情けないばかりだった。
それでも、彼女の傍にいる限りは、何かをしたかった。それが正しいことなのか、彼女にとって必要なことかは、分からない。それが彼女のことを思ってしたことなのか、自分がしたいだけだったのか、それも分からない。でも、迷いながらも、僕はそうするべきだと思ったのだ。僕は彼女の横に座ると、震える手を持ち上げ、彼女の背に触れた。そして、慣れない動きで、彼女の背を撫でた。
少しでも彼女の気持ちが落ち着けば良い。そういう風に、自分へ言い聞かせたが、本当はただ彼女に触れる口実ができた、と思っているのではないか、と疑いもした。僕はそんな葛藤を抱えながら、詩葉さんの背を撫でていると、彼女はその身を僕に寄せてきた。僕の左の肩辺りに、彼女の額が触れ、重みを感じた。そして、彼女の左手は僕の服、胸の辺りを握りしめる。悔しさに耐えているのだろうか。それは凄い力であるように感じた。僕は撫でるのを辞めて、ただ彼女の背を温めるように手を置いていた。それは殆ど、抱きしめていると同じではないか、ということに気付くと僕の心臓が過剰に動き出してしまった。まずい、これでは下心があると思われるのではないか…と考えれば考えるほど、それは激しくなる。
だが、緊張も絶頂を迎えようとしたとき、詩葉さんの額が僕の肩から離れる。詩葉さんは顔を上げ、僕の目を真っ直ぐ見ていた。彼女がゆっくりと瞳を閉じる。
これは、この感じは……。
僕は慌てる。自分が何をすべきか、僕は理解しているはずだ。初めてと言うわけではない。落ち着いてやれば、大きな失敗はないはずだ。詩葉さんの顔はいつもと違って赤く、涙で濡れていた。それが余計に愛しく、僕の躊躇をかき消した。
口付けの後、彼女は真っ直ぐと無機質な瞳を僕に向けた。それが、どういう意味を含んだものなのか、理解できず、居心地が悪くて目を逸らしてしまった。間違っていたのだろうか。そう後悔したが、次の瞬間には詩葉さんが「でへっ」と今まで彼女から発せられたこともないような音を発した。何が起こったのか、と彼女を見てみれば、失笑していたのだ、と理解する。
「な、なんで笑うんですか……」
「ごめんごめん。だって、白川くん…凄い震えてたから」
「……だ、だって」
「ごめんね、笑うつもりはなかったんだけどさ」
彼女は目元を人差し指で拭う。笑われてしまったことは不本意ではあるが、彼女の笑顔が戻ったのであれば、僕としても一安心だ。詩葉さんはやっとのことで笑いの波が去ったらしかったが、一息吐いたあと、やはり可笑しそうに言った。
「ねぇ、白川くんってさ……キス、初めてだった?」
「……はい」
これ以上、詩葉さんに嘘は吐きたくはなかったが、こればかりは、本当のことは言えなかった。こればかり、なんてことを言っておきながら、詩葉さんに秘密にしてあることが、山のようにある自分が憎らしくてたまらなかった。
「そっか。初めてのキスなのに、こんな顔ぼろぼろで、ごめんね」
詩葉さんは自分の顔を隠すように、何度も指先で髪をすいた。
「そ、そんなことありません。凄く……緊張しました」
「白川くんって、優しいよね」
見つめ合う。また、そういうタイミングなのだろうか…と僕は逡巡する。覚悟を決めて、身を乗り出そうとした瞬間、詩葉さんが微笑みを浮かべて「ねぇ」と言った。
「ピアノ、聴かせて。いつもみたいに」
少し肩透かしをくらったような気もしたが、ほっとしたのも確かだった。慣れない状況でボロが出てしまうよりは、慣れた状況でこの時間を過ごした方が、大きなミスがなく、無難のような気がしたのだ。
「わかりました」
僕も笑顔を浮かべ、いつものようにキーボードの前に立った。鍵盤を叩く。舞い上がっているのか、いつものようには弾けず、上ずった演奏が続いてしまった。
それでも詩葉さんはいつもと変わらなかった。穏やかに笑みを浮かべていたが、眠くなってきたのか、少しずつ目尻が下がっていく。彼女はそのまま眠りについてしまった。
僕は眠くはならなかった。詩葉さんとキスをしてしまった、ということもあるのだろうが、ピアノが上手くいかなかったことも、ショックで落ち着かない気持ちになっていたのだ。それでも、詩葉さんは満足そうに聞いていた。
きっと、彼女には僕の演奏の違いなんて、分からないのだ。今まで気付かないふりをして、考えないようにしていたが、やはりそう思わずにいられなかった。
しかし、それは当然のことだ。ただ、改めてそれを認識してしまうと、少しだけショックだったのだ。
朝がきて、僕は眠そうな詩葉さんに見送られながら、始発の電車に乗るため、彼女のもとを去った。
一人、電車に乗りながら、あの詩葉さんとキスをしてしまった、と思い返す。ただ、その後も、別れ際も、彼女は普段と変わった様子がなかった。僕だけが、その事実に対して、過剰に意識しているのだろうか。それとも、そんな事実はなく、僕は何か幻を見ていたのだろうか。
それにしても、意外と言うべきか、当然なのかもしれないけど、詩葉さんの唇に触れた瞬間、僕はそれほどの感激を受けていなかった。あの詩葉さんとキスをしたのだ。僕はもっと大きな高揚感や達成感と言うべきか、とにかくもっと衝撃的な感動を受けるような気がしていた。しかし、実際は小夜とするときと、あまり変わらなかった。キスなんて誰としても、そんなに変わらない、というだけの話なのかもしれない。僕は小夜と詩葉さんとしか、キスの経験はないのだから、比較できるようなものではないのかもしれない。しかし、どこか肩透かしをくらったかのような、そんな自分でも意外な感覚があったのである。
「また朝帰りー? こんなこと続いたら、私はお腹空いて、死んじゃうよー」
帰るなり、小夜は不満を並べる。
「いくら詩葉さんが大事だからって言ってもさ、私だって生きているわけだよ。まこちゃんはね、一つの命に対して責任を背負っているの。それなのに、これだけ放っておいて平気でいられるなんて、人間じゃないね、まこちゃんは!」
人間じゃないのはお前の方だろう、というツッコミを入れたいところであったが、小夜がいつにも増して不機嫌であることは、一目瞭然であり、放置した僕が悪いのは認めなくてはならないことだったので「悪かったよ」と一言謝った。
しかし、そんな僕を見て、小夜は余計に不信感を深めたかのように、目を細めた。
「なーんか、いつものまこちゃんじゃないなぁ。ニヤニヤしちゃって、可愛げがない」
そう言って、小夜は僕に詰め寄ると、微生物でも観察するように顔を近付けてきた。僕は彼女の圧力から逃れようと後退するが、悲しいことに部屋は狭いので、すぐに壁際まで追い詰められてしまった。
「なんだろうな。いつも、まこちゃんって詩葉さんに会ったあとはさ、喜びきれないと言うか、どこか不安げなのに、今日は余裕があるよね。良いことでもあったわけ?」
そう言いながら、小夜は僕に鼻先を近付ける。匂いを嗅いでいるらしく、僅かに鼻孔から漏れる彼女の息が、僕の首筋をくすぐった。それだけではなく、僕の鼻の方も小夜の匂いを嗅ぎ取ってしまう。彼女の匂いは、判断力を奪い、男を従わせる、悪魔としての力がある。そのせいで、僕は頭の中が溶けそうになっていた。そんな状態の僕に、小夜はとんでもないことを言った。
「ムカつくから、今日はキスしちゃおう」
小夜は僕の顎を指で固定すると、唇を押し付けてきた。彼女の舌が僕の口内を撫で回す。少し誤差があったが、すぐに貧血でも起こしたように、頭が白くなり、足にも力が入らなくなってしまう。小夜が離れると、僕はその場に崩れ落ちた。
「うーん、流石はまこちゃん。手加減したとは言え、まだまだ平気そうだね」
「いや、今の僕の姿を見て平気そうに見えるとしたら、感覚狂いまくっているよ」
「何言っているの。普通の人だったら、気を失って二、三日は寝込むくらいのやつだったんだから」
「それを平然と人にする時点で感覚狂っているんだって」
「そうかなー」
小夜は僕を立たせると、肩を貸してベッドまで移動させた。これから、小夜に貪り尽されてしまうのかと思ったら、意外にも彼女は僕を解放してベッドから離れた。キス一回で終わるのであれば、ラッキーな方ではないか。シャワーを浴びたいところだったが、そんな気力もなく、横になってしまう。目を閉じて、瞼の上に手の甲を置き、光をシャットダウンした。このまま、眠ってしまいたかった。
「それにしてもさ、まこちゃん」
もう喋るのだって億劫だったが、小夜に声をかけられたので、目を開いた。すると、のんびりした小夜にしては珍しく、睨み付けるような目つきで僕を見下ろしていた。その視線に押し潰されるような感覚すらあった。もしかして、これが殺気というやつだろうか。
「な、なに?」
「さっきのキス、まこちゃんとは違う人間の味がしたよ?」
「え、あ……そんなこと、分かるの?」
「もしかして、詩葉さんと、したの?」
さっき、解放を喜んだばかりだったのに、またも詰め寄られることになった。今度はベッドに横たわっていたので、馬乗りの状態である。小夜と出会ってから、何度この状態で追い詰められたことか。
「し、してない。した、って何を?」
「ふーん」と言いながら、小夜はまた僕の体臭を嗅ぎ始める。
小夜の匂いが鼻孔から僕の中に侵入し、脳を侵食していくのを感じる。またも脳が溶けてしまうようなこの感覚。もしかしたら、麻薬のような効果があるのだろうか。僕は僅かに快楽を感じていた。好きなようにしてくれ、と。また僕の判断力と抵抗力は、悪魔によって無力化されてしまったのである。
「詩葉さん、絶対に別の男がいるよ」と小夜が言ったのは、それから一時間後のことだった。
僕が昨日の夜、どのように過ごしたのか聞いた後のことである。さらに小夜は続ける。
「しかも、ずるずると引きずって、縁を切らないタイプだと思うなぁ、詩葉さんは。自分の中では一度抱いた気持ちや想い出を大切にしているつもりかもしれないけど、単純に悪い相手の悪い部分をいつまでも理解できないお馬鹿なんだよね。もし、まこちゃんに隙を見せ始めたとしても、それはただの保険。しっかりキープの準備をして、どっちに転んでも痛くない状況を作りたいだけなんだよ」
「わ、分かっているよ」
「いーや、まこちゃんは分かってないよ。詩葉さんは思ったよりも、狡猾で小賢しくて計算高いよ」
「なんで小夜にそれが分かるのさ? まるで見てきたかのようじゃないか」
「見たとか見ていないか、そういう問題じゃないんだよ。私には分かるね。詩葉さんは寂しかったから、まこちゃんを求めただけであって、本質的にまこちゃんからの愛情を欲しているわけでもないし、まこちゃんを愛したいわけでも、もちろんない」
小夜は普段は馬鹿っぽいのに、急に賢そうな、テンポが早い口調になる。流石は長年生きて得た経験や知識があるのか、それとも普段は馬鹿なふりをしているだけなのだろうか。それにしたって、その内容は辛辣すぎて、流石に苛立たしい気持ちになったのだが、小夜はさらに僕を追い詰めようとしていた。
「それを分かっていたら、詩葉さんには近づかないはずだよ」
「どうして?」
「だって、詩葉さんはまこちゃんを利用しているだけじゃない。要らなくなったら、すぐに捨てるよ。何の躊躇いもなく。寂しい時は、まこちゃんに興味があるようなふりをして、本命が自分に振り向いたら、きっと言うんだよ。貴方が勝手にその気になっていただけだ、って。詩葉さんはね、少しもまこちゃんのことなんて理解していないし、するつもりもないよ」
「詩葉さんは……」
そんな人ではない。そう否定したかったのに、なぜか言葉が続かなかった。僕は思い出してしまったのだ。詩葉さんが僕のピアノを理解していないことを。黙ってしまった僕の代わりに続けたのは小夜だ。
「だからさぁー、まこちゃんは大人しく私と一緒にいれば良いんだよ。私なら身も心も満足させてあげるよ」
小夜は微笑みを浮かべながら、僕の顎を指先でなぞった。その笑みに、僕の体温が何度か下がったような気がした。でも、その身を任せてしまいたいとも思う。小夜の言う通りにしても良いかもしれない、と。
「そうなれば私もお腹いっぱい。それってお互いにとって良いことばかりなのになぁ」
それは無邪気な笑みのようにも見えるが、僕にはやはり悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「結局は自分の腹の心配じゃないか……」
「あはははっ」
「この悪魔め!」
からかうように笑う小夜だったが、僕の一言のせいだったのか、その目から感情が失われた。
「そうだよ、まこちゃん。私は悪魔だよ。人の命を食らう悪魔だ。私と関われば、その命は削られ、いつか死んでしまうかもしれない。どんなに上手くやっても、長生きはできないかもしれないね。それは私が生きるためには避けようがないことだよ。でもね、だからこそ人の心だけは食べない、って私は決めているんだよ。確かに悪魔は悪魔だけど、それなりの良心と良識はあるんだよ、私は。だから、まこちゃんの心は傷付けるつもりはないよ」
小夜の唇は、妖しい三日月のような、薄い笑みを浮かべているが、その瞳は悪魔らしく赤々と輝いていた。
「でもね、まこちゃんの大好きな詩葉さんは、どうだろうね。あの子は、まこちゃんの心を食べる。自分の心が空腹になれば、何の躊躇いもなく、まこちゃんの心を食べるんだ。そう言う意味では、その子は私と同じだよ。詩葉さんはまこちゃんの心を貪って、いつか食べ尽してしまうかもしれない。まこちゃんはさ、自分の中には、詩葉さんへの想いが無限にあって、優しさも憧れも、好きと言う気持ちも尽きることはない、と思っているかもしれない。だけど、それは無限じゃないよ。絶対に尽きるものなんだ。食べられて、食べられて、食べられ尽したら、いつかまこちゃんの中には穴が空いてしまうに違いないよ。それは、決して治ることのない、大きな穴だよ。その穴があるっていうことはね、心が壊されてしまった、ということになるんだよ」
まるで、人を堕落させる誘惑の言葉を並べる悪魔のような小夜だったが、最後の一言を付け加えるときだけは、慈愛に満ちた表情を見せた。人ではないことを示すように、瞳は赤いままだったが、柔らかい笑顔だ。
「そんなの、まこちゃんが可哀想だよ」
その表情を見て、僕は今までの小夜の発言を思い出す。確かに、小夜は僕の心を傷付けるようなことは言わなかったかもしれない。詩葉さんのことを悪く言うことはあるが、それはすべて僕のことを慮るものばかりだ。
僕は負け惜しみのようなセリフを一つ二つ残して、話を終わらせると、シャワーを浴びることにした。
もし僕がこのとき小夜が見せた表情にどんな意味が込められているのか、しっかりと考えていたら、未来はもう少し違ったものだったかもしれなかった。しかし、そんな風に僕が考えるようになるのは、もう少し後のことだった。