11
街を適当に歩いた。
小さな川の上にある橋を通過しても、街並みは変わらず、ここは本当に都内なのだろうか、と疑うほどに閑静な住宅街だ。この辺りが詩葉さんの実家に近いのなら、彼女は静かで穏やかな暮らしができるだろう、と僕は思ったが、彼女が家族について語りたくはないと言ったときの表情を思い出すと、そうとは限らないか、と思い直すのだった。
「まこちゃん、また詩葉さんのことを考えているね」と横を歩く小夜が言った。
「そんなことはないけど…」
「そうか、この辺は詩葉さんの地元だったんだよね。それは思いも馳せるわけだ。男と上手く行ってないタイミングに、上手くつけこんで略奪愛だものねぇ。今が一番、燃える時期かもしれないね」
「僕はそんなことを考えていたわけじゃない。ただ、詩葉さんが悩んだり苦しんだりすることを、僕が少しでも和らげることができたら、って考えていただけだ」
「優しいねぇ。でもさ、それはいつまでも続くわけじゃないよ。まこちゃんが優しさや愛情を貫いたとして、詩葉さんは表面上の感情しか返してくれないんだよ。心の奥底では、ずっと別の男のことを想っている。そんな状況、まこちゃんはただの奴隷でしかないよね。それでも耐えられるのかな?」
小夜は時折そうするように、悪魔のような微笑みを浮かべながら、こう続けた。
「自分を犠牲にしてまで、詩葉さんを愛し続ける。それだけの価値があるのかな。あったとしても、まこちゃんはそれを徹し続けることができる? 私は人間である限り、誰かに愛情を注いでもらうことを知らなければ、誰かに愛情を注ぎ続けるなんてできない、と思うよ」
「……そうかもしれない。だったとしても、僕は自分の中にある何かが尽きるまで、彼女に愛情を注ぎ続けるつもりだよ」
小夜は真剣な僕の眼差しをどう思っているのか、暫く黙っていたが、やがて溜め息を吐くと、からかうような笑みを見せながら言う。
「……ふーん。そんな愛情の一割でも良いから、私に向けてくれれば良いのになぁ。そうすれば、息抜きさせてあげるよ?」
「結構です! それをしたら、僕の愛情は何か邪なものになってしまう気がする」
「良いんだよ、まこちゃん。相手に気付かれなければ、それは邪になることはないんだから。正義も悪も相手に認識されるまで存在しないのと同じなんだよ。詩葉さんさえ気付かなければ、それまでは全員が幸せじゃない」
「それからは全員が不幸になる」
「私は構わないけど」
「僕は構う。詩葉さんも構う…たぶん」
「どうかなぁ~?」
「うるさい」
僕は、彼女が安心してもらえるような存在になりたかった。本当の意味で安心できて、信頼できて、そして好いてもらえるような存在だ。
きっと、彼女はあまり幸せとは言えない子供時代をこの街で過ごしたのだろう。そして、誰かに出会った。もしかしたら、その人物は詩葉さんにとって光のような存在だったかもしれない。
でも、彼女はそれに救われることはなかった。だから、彼女は光を手にするために、絶望の中でさ迷い、何かに怯えているように暮らしている。
ならば、僕が助けなくてはいけない。小夜が言うように、僕の気持ちは一生、彼女に届くことはないかもしれない。けど、だとしても僕は彼女を助けたいのだ。彼女がもう何かに怯えなくて良いように。
そんなことを考えていると、やけに周りが静かであることに気付いた。いくら閑静な住宅街だったとしても、そこに暮らす人たちの気配はあるだろうし、たまには誰かとすれ違うだろう。車だって通過するはずだ。さらに言えば、いつも何かしら喋っている小夜ですら、一言も喋っていない。何かが妙だ、と僕は小夜の方を見た。すると、彼女も異変を感じているのか、どこか神妙な顔つきをしていた。
僕は改めて辺りを見回す。今日は曇り空だったから、もとから比較的に暗かった。しかし、曇り空だから、という理由にしては、あまりに暗すぎる。空は灰色だが、雨雲と言うわけではない。ただ、濃い灰色なのだ。それに少しずつ霧が出てきた。都内で、しかも昼間から霧が出ることがあるだろうか。
「まこちゃん。私から絶対に離れないで」
「うん」と僕は素直に従う。
なぜなら、その声はいつもの小夜ではなかったからだ。小夜は今までにないくらい厳しい顔つきで、緊張しているのは確かだったが、この状況に怯えているわけではなさそうだった。むしろ、この異常事態に潜む悪性を知り、現状がどれだけ危険かを察知し、それを切り抜ける術を知っているかのようだ。
そんな小夜の表情を見て、僕は気付いた。彼女の瞳が赤く染まっていることを。それは彼女が人では考えられない力を見せるときの、美しくも危険な色だった。
しかし、そんな小夜が顔を一瞬だけ歪め、こめかみの辺りを右手で抑えた。
「どうしたの?」
「頭が痛い……それと、向こうから、何かを感じる」
そう言って、小夜は道の向こうを指差す。
「何か…って?」
「分からない。どこかで、見たことが、あるのかも」
「……小夜の過去に関係するのかな?」
「…行ってみよう」
「待って。危ないかもしれないよ」
僕の言葉を聞かず、小夜は前へと歩き出してしまった。背後を振り返るが、引き返すのも不安になるほど濃い霧に包まれている。引き返すのは危険だし、小夜を一人で行かせるのも危険であるような気がした。
小夜は早足で前へと進んだ。僕としては恐ろしくて、もっと慎重に進みたかったが、それでは置いて行かれてしまうだろう。
途中、僕は人影を見た。何だ他にも人がいるではないか、と楽観的に思えたのは、一瞬だった。なぜなら、その人影は、どれだけ近付いてみても、人影でしかなかったからだ。真っ黒なただの影が、何かに操られるように、ふらふらと動いているだけだ。
「な、なんだあれ」
「怨霊みたいなものかなぁ」と小夜は平然と答える。
確かに小夜の言う通りで、それは怨霊のようだ。人の黒い意思だけが、現世に止まってしまったような、そんな存在に見える。いや、ここが現世かどうかは、怪しいものだが。
「知っているの?」
「昔、見たような…見てないような」
「こっちを見ているよね」
「見ているね。でも、大丈夫。私の方が強いから、あいつは怯えているよ」
「へ、へぇ…」
何だか得体の知れない存在に対し、小夜は自分の方が強いと言い切る。それが本当かどうかは知らないが、彼女の言う通り、怨霊らしき存在は警戒するようにこちらを見るだけで、寄ってくるようなことはなかった。
小夜はその影の存在を、まるで意識していないように、再び歩き出した。
暫く歩いてから「たぶん、ここだ」と小夜が足を止めた。
彼女が視線を向けたのは、何気ない二階建ての一軒家だ。都内では珍しくない、平凡な家族が暮らしていそうな、普通の家だ。
「入るつもりなの? 不法侵入で怒られるんじゃないかな?」
「大丈夫。たぶん、誰もいないよ。周りにも、誰もいない」
小夜はまるで以前もここに来たことがあるかのように言う。小夜がその家の玄関ドアに手をかけた。ゆっくりとドアノブを捻ると、鍵がかかっていないらしく、ガチャリと音を立てて開かれた。
広い玄関には、靴はない。その先には廊下があり、奥がリビングのようだった。小夜が家の中へと一歩踏み出した瞬間だった。小夜の体が突然、宙に浮く。僕の見間違いだろうか、と目を疑う間もなく、今度は小夜の体が猛スピードで家の中に引き込まれた。
「小夜!」と僕が手を伸ばしたが、届くことはない。
彼女は巨大な腕にでも掴まれてしまったかのように、家の奥へと吸い込まれてしまった。小夜の体は廊下の途中で右に曲がる。そこは階段らしく、彼女は二階へと引っ張られてしまった。
「小夜!」
もう一度叫ぶが、返事はなかった。それどころか、異様なまでの静寂に包まれてしまう。小夜の声や抵抗する音すらなく、僕を恐怖させるに十分過ぎるほどだ。足は震え、声も出せなくなってしまう。誰か助けを呼ぶべきだろうか。背後を見てみると、あの怨霊らしき影の存在が、複数人でこちらを見ていた。そして、小夜がいなくなることを待っていたかのように、僕の方へと近付いてくる。
そうなると、僕にとって逃げ道は、この家の中だけだ。僕は小夜が吸い込まれてしまった異常な家に踏み込むことが恐ろしかったが、外にいる怨霊のような存在たちに捕獲されてしまった後のことを考えると、やはり恐ろしくて仕方がなかった。
だとすれば、もう道は一つだ。僕は家の中に足を踏み入れる。それからすぐに玄関ドアを閉めて、鍵も閉めた。怨霊のような存在が、壁をすり抜けて入ってくるのではないか、とも考えたが、どうやらそれはないらしい。
少しだけ安心できたが、この家の中にも大きな問題があるのは間違いない。小夜を引き連れてしまった何かが存在し、僕はそれと対峙してから彼女を助け出さなければならないのだ。
深呼吸して心を整え、僕は一気に廊下を駆けて階段を上がる。二階に上がると一階よりも広い印象を受けた。部屋も四部屋はあり、すべてのドアが閉まっている。不気味ではあるが一部屋ずつ調べるしかなかった。
まず、階段から一番近い部屋のドアを開ける。子供部屋だろうか。勉強机と小さなベッドがあった。小夜がいる様子はないので、次の部屋へ移動した。
次の部屋は書斎だったのか、立派な木製の机と、書物が並ぶ大きな本棚がある。ここにも小夜はいない。次はこの家の父と母が利用しているだろう寝室らしい部屋だった。やはり、ここにも小夜はいなかった。
最後の部屋。恐らく、ここに小夜がいるはずだ。僕は一呼吸おいてから、勢いよくドアを開けた。その部屋は、この家で一番広い部屋だった。驚くことに、部屋の真ん中にグランドピアノがあり、それ以外は何もない。
しかし、この部屋にも小夜はいなかった。確かに二階へ引き込まれたはずなのに、どうしていないのだろうか。僕はパニックになりながらも、まだ各部屋を隅々まで探さなければ分からない、と言い聞かせるが、なぜかグランドピアノの存在が気になった。
もしかしたら、今の僕ならピアノを弾くことで、小夜の存在を探すことができるのではないか。ピアノを弾くことで、詩葉さんや父の意識に触れられたように。
僕はピアノの前にある、木製の椅子に座る。このピアノがまともに音を出せるかは分からない。とても手入れされているようには見えないからだ。それでも、僕にとって誰かを救う方法と言えば、やはりこれなのだ。
鍵盤に指を置く。恐怖で集中が難しかったが、今はやるしかない。僕は呼吸を整えつつ、鍵盤を叩き始めた。ピアノには問題はなさそうだ。しかし、指先が震え、演奏がままならない。それでも、僕はピアノを弾けば心が落ち着くようになっている。
少しずつ僕の集中力は高まった。そして、指先と鍵盤の間に、宇宙が広がり始めた。ピアノの宇宙を漂っているうちに、誰かの意識を感じた。二つだ。小夜の他にも誰かがいる、ということに動揺を覚えたが、集中力を途切れさせるわけにはいかなかった。
意識の一つは石のようだった。年月を経て、何かが石になってしまったみたいだ。もう一つは沼。黒くてどろっとした油上の液体が、池みたいに溜まり込んでいる。何となく、これには干渉してはならないような気がした。
だとしたら、前者が小夜の意識であることを祈るしかない。僕は小夜と思われる意識へ語り掛けるようにピアノを弾いた。すると、確かなリアクションがあった。その意識は僕の演奏に興味を示しているようだった。だとしたら、スムーズに小夜を助けられるかもしれない。
僕は小夜の意識が、どんな演奏が好みなのか、探りながら鍵盤を叩いた。すると、無機質な石から、妙な感覚が発せられているように感じた。これは視線のようなものだ。きっと、石は僕を見ている。だとしたら、もっと聴かせてやれば良い。さらに意識に寄り添うように、だけど激しく演奏をする。すると、石に亀裂が入ったような気がした。
そのときだった。どこかで、ごとりと何かが落下するような音がした。もちろん、ピアノの宇宙で発せられた音ではない。僕は演奏を止めて、辺りを見回すが、何かが床に落ちたような形跡はない。
「小夜、いるのか?」
僕は小夜がどこかから戻ってきたかもしれないと判断し、部屋を出た。さっきの音は、二階のどこかで発せられたはずだ。その証拠に、誰もいなかったこの家で、気配を感じることができた。書斎らしき部屋だ。僕は直観的に、その部屋のドアを開けた。
「よかった…」
小夜が倒れていた。僕はすぐに駆け寄り、彼女の無事を確認する。ちゃんと息をしているし、どこからか出血しているわけでもなかった。名を呼びながら、揺さぶると少しだけ反応があった。
「早くこの家から出よう」
僕は小夜の肩を担いで、何とか階段を降りる。日ごろ鍛えているわけではない、ひ弱な僕からすると、かなり重労働だった。しかし、その重労働をクリアして、この家を出たとしても、あの怨念らしき連中に囲まれることになるのではないか。かと言って、ずっとこの家にいたとしても、再び小夜が何者かに、引っ張られてしまう恐れは十分にある。
僕は意を決して、玄関のドアを開いた。奇跡と言うべきなのか、外にはあの連中がいなかった。だとしたら、全力で走るしかない。僕は余計なことを一切考えず、この不気味な家から少しでも離れることに集中した。小夜を担いで、とにかく動いたのだ。
必死だったので、いつの間にか辺りの霧が消え、明るさが戻っていることにも気付かなかった。普通の人間が歩く姿や、車が音を立てて走る姿を見て、やっと気づいたのである。
「戻ったのか…」と僕は呟いた。
それから、家に戻ってやっと気持ちが落ち着いた。
小夜もあの後、すぐに目覚めて、特に変わったところもないようだった。
「それにしても、何だったんだろう、あの場所は。小夜はあの家に入ってからのこと、覚えている?」
小夜は首を横に振った。
「気付いたら、真っ暗だったよ。寂しくて、怖かったのに、声も出なかった。手足の感覚もなくて、真っ暗の中で、ただ浮かんでいるみたいだったんだ。でも、ピアノが聴こえたんだよ。どこかで、聴いたことがある、優しい音だった。そっちに行かなくちゃって思って、また気付いたらまこちゃんと一緒にいた。なんだったんだろう、あの音は…」
「そうか。とにかく…戻ってこれて良かったよ」
このとき、僕が自分の演奏であることを伝えなかった理由は特にない。どうでも良いと思ったのかもしれないし、今更ピアノが弾けることを言うのが照れ臭かっただけかもしれない。
「うん、でも…」と小夜は言った。
彼女の目は何かに恐怖しているわけでも、闘志を燃やしているわけでもなかった。ただ、起こるだろう事実を淡々と口にするようだった。
「でも、私はまたあそこに導かれてしまう気がする。」
小夜は、少しだけ目を細めた。憎い相手の顔でも頭に浮かんだのか、不快感らしき表情だった。そして、癖なのか右手を胸元に置くと、呟くように言った。
「そのときは……ちゃんと戻ってこれるのかな」