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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第一章 白川誠
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「白川くんのピアノが聴きたい」


詩葉さんからメッセージに気付いたのは、深夜と言える時間だった。だから、僕は終電の時間を気にしながら、忙しなく家を出る支度を始める。こちらを見つめる、悪魔の視線を気にしながら。


「ねぇねぇ、また詩葉さんのところに行くの?」


突然の外出が決まって、慌ただしく着替える僕の背中に、小夜が甘えるような声が。


「好きな女の子からのお願いを断れないのは、分かるけどさ、こんな遅い時間にお出かけするより、昼まで私と一緒に眠る方が、心身ともに充実すると思うよー」


小夜はそんなことを言いながら、呑気に欠伸をした。どうも引き止める割には、僕が出て行くことに、それほど関心がないように見える。


「詩葉さんが呼んでるんだ。そういうわけにはいかない」


着替えを終えた僕は、髪の毛におかしな癖がついていないかチェックをする。


「ふーん……。朝には帰るんだよねー?」


「うん」


「朝までに帰ってくれるなら良いけどさ。でも、本当かなー? 約束できるかなー?」


「帰るってば」


僕は返事をしながらも、いつまでも癖が直らない強情な髪の毛に苛立っていた。そんな僕の神経を刺激するように、小夜はのんびりと言う。


「まこちゃんさ、そんなに髪ばっかり気にしたって仕方ないよ。まこちゃんの良いところは、心だよ、心。詩葉さんが、髪の毛のちょっとした違いで男を判断するような人なら、私は好きになっても仕方がないと思うけどなぁ」


「詩葉さんは、そんな人じゃない」


「だったら、髪型なんて気にする必要ないじゃん。行くなら早く行ったら? もう終電もなくなるよ」


「わかっているよ! いちいちうるさいなぁ」


続く小言に、僕は思わず声を荒げた。苛立ったのは、ただ彼女がうるさかったからではない。こんな遅い時間に家を出ることになったのも、小夜のせいだったからだ。小夜が星を見に行きたいなんて言って、無駄な夜道の散歩に付き合わなければ、僕は一時間も前に詩葉さんからの連絡に気付いただろうし、こんなにも終電を恐れて時間に追われることもなかったのだ。


「まこちゃんさー、本当に詩葉さんのこと好きだよね。一途だよねぇー」


「うるさいな、もう寝てろよ」


僕はもう小夜のことは相手にするべきではない、と判断して支度に集中する。支度、と言ってもしっかりと服を着て、携帯電話と財布を持っていれば問題ない。あとは家を出て、都会に住む学生にとっては唯一の移動手段である電車に乗り込むだけだ。


「詩葉さんてさぁ、まこちゃんの高校のときの先輩なんだっけ? だったら、もう五年くらい思い続けているわけだ」


と小夜はからかうようにへらへらとした笑みを浮かべて言った。


小夜の言う通りで、僕は高校のときに、詩葉さんに出会った。僕にとって、詩葉さんは恩人でもあるし、初恋の相手でもあるし、神様のような人だった。あのとき、僕は彼女に出会ってなければ、高校をやめて、引き篭もりになり、人生を台無しにしていたかもしれない。


だから、彼女は僕にとって絶対であり、僕と言う人間を形成する要素の中でも最重要と言えるのだ。僕は彼女が好きだ、と五年前のあの日から、誰に臆することなく、そう言ってのける自信がある。自分で言うのも変だが、それだけ一途に想っているのだ。


そんな僕の想いを鼻で笑うように、小夜が言う。


「別に彼氏ってわけでもないのに、夜中に呼び出されたら、ほいほい出て行ってさ。詩葉さんからしたら、まこちゃんって、手を叩いたら駆けつけてくる、可愛いペットみたいなもんだろうね。まこちゃん、子犬っぽいもんね。あ、そういう男って、都合の良い男で終わることも多いんだよねぇ」


意地悪な笑みを浮かべながら小夜は続ける。


「世の中の女の子はみんな、ちょっと自分勝手で、ちょっとバイオレンスで、ちょっとナルシストなタイプが好きなんだよ。まこちゃんは、全部逆。人の顔色ばかり気にして、虫一匹殺せないし、自信なさそうだもんね。でも、大丈夫。誰でも年取ればね、まこちゃんみたいなタイプの方が良かった、って思うんだよ」


「うるさいって」


僕は突き放すつもりで、強めの口調で言うが、完全に小夜の挑発で頭に血が上っていた。いつもは、僕が何をしようが干渉しないくせに、今日は変に突っかかってきている気がするからだ。


小夜はいつもそうだ。予想できないような突拍子もない行動で、僕を混乱させる。こいつの気まぐれさに、どうして振り回されなければいけないのだ、と頭を悩ませなかった日は、出会ってから一度もない。


睨み付けるような僕の視線を小夜は冗談でも聞くような表情で受け止め、普段通りの口調で続けた。


「それにさ、まこちゃん」


僕は小夜を傷付ける意思があって、言葉を発したことにきまりの悪さを感じながら、ぶっきら棒に言う。


「なんだよ」


「詩葉さんには、私のこと、秘密にしているんでしょう?」


その言葉は、頬を打たれるよりも、僕に十分なダメージを与えた。


「五年も片思いしている相手に、今変な女と同棲しているんです、なんて言えないもんね」


「……とにかく、もう行くから」


小夜の相手をしている時間は、もうなかった。いや、小夜の言葉から逃げ出したかったのである。


「まこちゃーん」


ドアノブに手を伸ばした僕の首に、小夜が後ろから腕を回してきた。後ろから抱き寄せられ、背中で小夜の体温と胸の膨らみを感じ、思わず唾を飲み込む。


「こんなに引き止めてるのに、それでも行くって言うならさー」


わざとやっているのか、小夜の吐息が耳にかかる。僕の膝から力が抜けそうになった。そして、僕の神経を支配するかのような甘い吐息と共に彼女は言うのだった。


「これ以上、我が儘は言わないから、キスだけしてよー」


「はぁ?」


僕は信じられない、と言わんばかりに拒否の意を含んで聞き返したが、頬が緩んでいることに自分でも気づいていた。僕は小夜の方に振り向いた。なぜか頬を少し赤くして、目を潤ませた小夜が、少し照れ臭そうに笑っている。こんな風に、突然少女のような表情で、甘く強請られると、僕は拒否する力が弱まり、心臓が早くなってしまうのだった。


仕方ない、とか何とか言いながら小夜の肩に手を置いた。すると、小夜の表情が変化する。少女のような微笑みから、人を勾引かす悪女のように。瞳に赤みがかかり、人ならざる表情を見せるのだ。


「一人にさせるんだから、とびきり濃厚なやつをお願いね」


いつもは動きも口調ものろい小夜だが、こうやって人を堕落させるときは、繊細な心の機微を見逃すことがない悪魔のように、怪しい微笑みを浮かべるのだ。


そして、僕たちはキスをした。小夜が言う、とびきり濃厚なやつを。しかし、これは正常な男女が愛情を確かめ合うようなキスとは、違うものだ。


僕は悪魔に餌として喰われているのだ。人の精気を吸う悪魔に。


小夜という悪魔にとって、僕は餌を育む苗床でしかない。初恋の相手に対し、やましい気持ちを抱えてしまうような方法で、僕は毎日のように悪魔に喰われているのである。




好きでもない女の子にキスをして、五年も一途に思い続けている初恋の相手に会いに行く。電車を降りて階段を昇れば、改札の前できっと彼女が僕を待っている。僕は気持ちが高揚し、頬が緩むのを感じた。


改札の向こうで立っている彼女を見て、僕の表情と心は溶けるように変化した。そんな僕に、彼女は気付いていない。何やら文庫本を熱心に読んでいるらしかった。きっと、彼女の愛読書である、芥川龍之介だろう。


僕は彼女の目の前まで移動したが、声をかけられずにいた。なぜなら、彼女のまつ毛、白い肌、艶のある黒髪を見つめて、動けなくなってしまったからだ。つまりは、見惚れているわけだけれど、彼女の方は目の前にいる僕に気付きそうになかった。


「詩葉さん」と声をかける。


驚かせてしまったか、彼女は肩を震わせながら顔を上げた。そして、ゆっくりと文庫本をしまいながら「びっくりした」と言って微笑んだ。


「ごめんね、遅くに」


「大丈夫です。詩葉さんのためなら、いつでも」


「でも返事くれるの、遅かったよね? 本当は、用事があったんじゃない?」


僕は大袈裟に首を横に振った。詩葉さんが言ったことを否定する、という意味もあったが、それだけではなく、僕がここまで遅くなった理由を作った、あの女が意地の悪い顔で笑う姿が思い浮かんでしまったため、それを振り払いたかったのだ。


「そんなことはありませんよ。少しだけ眠ってしまって、気付くのが遅くなってしまったんです。ほんと、すみません」


「謝らないで。私の我が儘なんだから」


僕のことを決して責めない、彼女の優しい笑顔を見ると、同じ我が儘でも、誰かの我が儘とは、全く違う印象を受けるものなのだ、と妙に感心した。


「ねぇ、お腹空いていない? お礼したいし、何か奢らせてほしいな」


「え、良いですよ。僕が好きで来ているんですから」


「そうは言っても、私の気持ちが済まないよ。お願い!」


と詩葉さんは顔の前で両手を合わせた。


「大丈夫ですよ。お腹も空いていませんから」


「えー、悪いよ」


「それより、ピアノ…弾きますよ。詩葉さんが聴きたいって言うなら、僕はすぐにでも弾きたいです」


「……そっか。じゃあ、行こうか」


僕と詩葉さんは、二人で彼女のアパートへ向かった。彼女のアパートは駅から少しばかり離れている。なぜなら、一日中、楽器の演奏が許された完全防音の部屋だからだ。設備が良い代わりに、駅からの距離が犠牲となっているらしい。


だからと言って、彼女は音大生でもなければ、ピアノを弾くというわけでもない。それなのに、キーボードが一台あり、時々僕はそれを弾かせてもらっているのだ。


アパートまで歩きながら、彼女は自身の近況やら、友人の失敗談などを話す。僕は彼女の声を聴くだけでも嬉しくて、黙ってそれに耳を傾けていた。


詩葉さんの声は特別だ。名前の通り、詩を葉の上に乗せたかのように、儚く繊細で、美しい声なのだ。


弾むような音を奏でる詩葉さんの声だったが、少しずつトーンダウンしていくのが分かった。そして、少し伏し目がちになる。時々、彼女はこういうことがあった。彼女は明るく話していても、何かを思い出してしまって、急激に気持ちが落ち込んでしまうらしい。特にピアノが聞きたいと言って、僕を呼び出したときは、これが頻繁に起こる。そんなとき、彼女は決まってこう言うのだ。


「ねぇ、どうして私が白川くんのこと呼んだのか…聞きたい?」


そう聞かれて、僕はいつものように首をすくめ、いつもと同じ言葉を返した。


「詩葉さんが話したいなら、聞きます。義理とか誠意として、話そうと思うなら、話さなくて良いですよ」


「そう……なら、良いのかな」


きっと、彼女は僕に聞いてほしいのだろう。なぜ、呼び出したのか、ということを。しかし、僕は聞かなかった。聞きたくなかった。理由を聞いてしまったら、僕の世界が暗転してしまうような、そういう予感があったからだ。


「入って」と彼女の許しを得て、部屋の中へ踏み入れる。


詩葉さんの部屋は、いつも綺麗に整理され、あまりものがない。家具も最低限で、女の子が好みそうな雑貨や小物なんかも皆無と言えた。つまり、生活に必要最低限なものだけしか、この部屋には存在していないのである。ただ、唯一の無駄であり文化的なものと言えば、部屋の隅に置かれたキーボードなのだった。


「私、お茶を入れるね。えーっと…適当に、くつろいでて」


「はい、わかりました」


僕が笑顔を見せると、詩葉さんは頷いて、キッチンへと移動した。たぶん、彼女は僕に自分の表情を見せたくなかったのだ。今にも不安で押しつぶされそうな気持ちが隠せない、自分の表情を。


部屋には彼女の心の患いだけが残ったかのように、空気が重たい。この空気の正体が何なのか、僕は知らない。知りたくない。だけど、僕の気持ちもとても重たくなる。だからこそ、それを振り払ってやりたかった。


キーボードの前に座り、鍵盤に触れてみた。すると、僕の指先から、鍵盤の神経のようなものが伸びて、僕の脳とつながるような感覚があった。そして、指先と鍵盤の間にある、僅か数ミリ程度の接地面に宇宙が広がった。僕はその宇宙の中なら、どこまでも移動できるし、欲しい情報は好きなだけ取り出せる。だから、僕はこのキーボードを自由に弾ける。そんな確信があった。


キーボードに電源を入れた。そして、僕は小さく深呼吸をして、ゆっくりと鍵盤を叩き始める。リストの愛の夢第三番。小さい頃から、何度も弾いた曲だ。


演奏の途中、詩葉さんがキッチンから戻ってきた。音を立てないように、ゆっくりと歩き、お茶が入っているだろうカップを慎重にテーブルへ置く。僕はそんな彼女の気配を感じながら、ピアノを弾き続けた。


もう二曲ほど弾いてから、僕は演奏を止めた。僕の脳とつながっていた鍵盤の神経が、ゆっくりと戻って行く。このキーボードの意識が、完全に僕から抜けたのを確認して、指を離した。僕はまた小さく深呼吸をしてから振り返ると、詩葉さんは穏やかな顔で微笑んでいた。


「本当に素敵」


「ありがとうございます」


僕にとって、ピアノを弾くことは、とても複雑な感情を抱かずにはいられないものだが、詩葉さんに褒められると、自然と喜ぶことができた。


「才能だよ、白川くんの」


「僕は…まだまだですよ。と、言うよりも…才能と言うほどのものは、ありません」


「そんなことはないよ。こんな風に弾ける人は、なかなかいないよ。特別な何かだと思う」


「そうでしょうか」


「そうだよ。そうではければ、私の心がこれだけ癒されることなんて、ないよ」


そんな会話をしながら、僕は詩葉さんが入れてくれたお茶を飲んだ。


「私、特に音楽に詳しいわけではないけれど…白川くんの弾くピアノには特別な何かがあるって、分かるんだ。どんなにつらい気持ちになったとしても、濁った心が洗われるような、そんな気持ちになる。音楽を聴いて、そんな風に思ったのは、初めてだもの」


詩葉さんは、彼女が言う通り、音楽に詳しいわけではなかった。僕の知る限りでは、という意味になるが、この部屋がそうであるように、音楽を愛しているような形跡が、彼女にはない。しかし、なぜ完全防音の部屋に住み、キーボードが一台あるのか、不思議でしかない。不思議でしかないが、僕はその理由をずっと聞けずにいる。ただ、このキーボードは、彼女にとって、傷の一種ではないか、という予感だけはあった。


そんなキーボードを、なぜ僕が弾くのか。それは、彼女がそれを望んだからだ。僕が弾くピアノが、彼女の傷を癒す効果があると、彼女が言うのであれば、それを惜しむつもりはない。例え、どんなときでも、僕は彼女のためにピアノを弾こう。そんな風に、誓ったのだ。


「ねぇ、もっと聴かせて。白川くんのピアノ」


「はい。何曲でも弾きますよ」


「じゃあ、最初に弾いた、あの曲をお願い。私、あれが一番好きかも」


「リストの愛の夢ですね」


そんな風に、僕は何度目になるか分からない、深夜の演奏を始める。彼女の癒しとなることを祈って。ただ、僕にとってピアノを弾くことは、決して善意だけのものだけではなかった。僕にとって、それは自分自身の忌まわしい感情や過去と対峙するものでもあった。

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