妹
僕には妹がいる。僕より五つ下の、中学生になったばかりの妹だ。名前をナミという。
ナミは僕によくなついた。いつも僕のそばを離れず、お兄ちゃん、お兄ちゃん、と声をかけてくる。鬱陶しく感じることもあるけれど、その時に僕に向ける笑顔があまりに可愛らしく、つい笑って許してしまう。ナミが僕を慕ってくれる分、もしかしたらそれ以上に、僕はナミのことを愛している。
ところが他の家族、父と母はそうではない。親としての愛情があるのかどうか疑わしく、それどころか、娘であるナミを嫌っているのではないかと思わせることさえあった。
例えば、家族四人で食卓を囲む際、父と母、それから僕の分はあるのに、なぜかナミの分だけ食事が用意されていない。僕が「ナミの分は?」と訊くと、父も母も気まずそうに僕から目をそらして、俯くだけである。仕方がないので、食事が終わったあと、ナミを自分の部屋まで連れて、残しておいたご飯やおかずを与えてやる。ナミはとても嬉しそうに食べる。それが僕の習慣になっていた。
家の中では、父も母もナミと言葉を交わすことはない。ナミが寂しそうにしているときは、いつも僕が話の相手をしてあげた。しかし、話が盛り上がっているとき、ふと視線を感じて振り返ると、母がやはり気まずそうにして、僕から目をそらすのだった。
ナミは自分の部屋を持っていないので、寝る場所はいつも僕の隣である。僕は夜寝る時には彼女が眠りに落ちるまでそっと頭を撫でながらそばで見守り、朝起きたらまず朝日に照らされた頰にキスをして、彼女の目を覚ました。
学校から家に帰る道すがら、僕は楽しみに胸を弾ませていた。左手には、大きなケーキの入った袋を提げている。その日はナミの誕生日であった。僕の帰りを待ちわびているナミのことを考えると、思わず頰が緩んだ。歌でも歌い出したくなる気分だ。
夕暮れの大通りには、帰宅の途につく人々の、朗らかな笑顔と明るいざわめきがあった。人々の往来の間を縫って、一匹の黒い猫が走っている。猫は僕の目の前で動きを止め、その黄色い目で僕をじっと見つめた。僕も立ち止まり、猫を見つめ返した。「ニャー」と低い声で鳴いてみた。猫は走り去った。取り残された僕を、往来の人々は怪訝そうにジロジロみた。
帰宅するや否や、僕は玄関で出迎えてくれたナミを連れて食卓へ向かい、そこでケーキの包みを開いた。ナミの喜びに満ちた笑顔が、僕を幸せにした。ナミは僕の耳元で囁いた。
「お兄ちゃん、ありがとう、私、お兄ちゃん、大好き」
しかし、僕ら二人の幸福な時間は、長くは続かなかった。母が、蒼い表情で立ちすくんで、僕らの様子をみていることに気がついた。
「あんた、どうしたの、そのケーキ…」
母の声は震えていた。
「買ったんだよ、ナミのために。今日はナミの誕生日じゃないか、忘れたのかいかあさん」
僕が言うと、母の表情はみるみる歪んでいき、今まで溜めてきたものが堰を切って溢れたように、テーブルに突っ伏して嗚咽交じりに泣き出した。そして、そこに置いてあったケーキを何度も拳で叩いて潰してしまった。母のこれほどのヒステリーは、今までみたことがなかった。僕はナミの身体を、守るように抱いてやった。ナミの身体は震えていた。
今、僕は家から離れた、大きな白い建物の一室で一日を過ごしている。家に帰ることも学校へ行くこともできず、外へ出ることすら許されていない。両親はたまにやってくる。ナミの様子が気がかりだったが、それを尋ねても答えは返ってこない。ただ、悲しそうな表情が浮かぶだけだ。
ナミは今頃、どうしているのだろう。ナミのそばには僕がいなければいけないのに。ナミに会いたい。ナミに会わせてくれ。
部屋の白い壁に、ナミの笑顔を思い描いた。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、ナミが僕を呼ぶ声が、耳元で繰り返された。