出来そこないの希死念慮
私は死にたいと思うことがある。しかし死んでいない。だからここにいる。なぜ死にたいという思いを抱くのかと聞かれると、それに対して明確に答えることはできない。なぜなら、自分自身なぜ死にたいと思うのか、理由がはっきりとはわからないからだ。
―――罪悪感からかもしれない。私は、理性においては他者を思いやる精神など持ち合わせていない。そのような、観音菩薩の大悲のような心は、私の理性にはない。むしろ私の理性にあるのは利己主義である。私は、理性としては、自分さえよければよい、自分の感情や感覚が最善であればたとえ他者がどれだけ苦しもうが知ったことではないという思想を有しているエゴイストである。また、それを敢えて自分の心の中で推進している。私の罪悪感というのは、あるとすれば、私の理性に存するものではなく、もっと心のわけのわからないところに存するのだと思う。私は未だ親を生活の基盤として生活している。親の労働によるその収入によって生活している。理性的な面においては、私は親を「物言う道具」として見ている。すなわち、私の生活の基盤を維持する点において、私にとって好都合な存在、そのように親を見ている。しかし、理性とか意識などとは違う心の部分があって、そこでは、私は親に対して申し訳なく思っているのだと思う。というものである。(・・・そもそも理性や意識とは何か?そんなに明確なものではないだろう。今回の文脈では、とりあえず、概ね言語的に把握された自己の心的活動という程度に受け取ってもらえばよい。)
―――劣等感からかもしれない。偏差値の相当程度低い普通科の高校になんとか入れはしたものの、人間関係を形成できず、また勉強にさえついていけず中退した私だ。その高校での私の成績は、約200人の中で195位あたりだったと記憶している。しかしだ、私は、私は未だにそうだが、自己愛が強い。私は多くの他人よりも“頭がいい”とおぼろげながらに信じている。私はときに自分を人類史の偉大なる人物であるかのように夢想することがある。一方で私は自己の劣等性をある部分では自覚しており、ときに劣等感に浸ることがある。徹底的に自分が他人よりも劣っていると見做すときは不思議と快いものである。ところで、人は量的に敵わないと知るや、質的な固有性をもって勝とうとする性があるのだろうか、少なくとも私の精神はそのような方向に動いたように思われる。そのような心理状態の極端な例は救世主妄想(自分は救世主であるという妄想)であろう。自己と関連付けた陰謀論的な空想の体系もその類であろう。
さて、そもそも私は死にたいなどと思うているのか。実はそんなことはないのではないか。(死にたい)という想念が生起するのは、家にいるのに「帰りたい」とつぶやくことと同類の現象なのではないか。
このようなことを考えつつ、今夜も床に就く。