わんこにチョコをあげてはいけません!
「犬上先輩! これ、受け取ってください!」
二月十四日。
放課後の屋上で俺に差し出されたのは、ピンクでラッピングされた小箱だった。
……何かなんて考える必要もない。
だとしても、俺は問わずにはいられなかった。
「……もしかして、チョコレート?」
「は、はい。お口に合えばいいんですけど……」
目の前の少女は少し震えながら。
様子から見ても、誠心誠意作ってくれたのは間違いないだろう。
だとしても、俺の返事は決まり切っていた。
「悪いな、俺は受け取れないんだ。……持って帰って欲しい」
「っ……! 酷いです、先輩!」
突き返せば、少女は涙目になって走り去る。
俺はそれをただ見送ると、唇を噛みしめ、宙を向いた。
……悪いことをしたと思う。
深く傷つけたとも。
でも、こちらにも事情というものがあった。
それは、俺が生来抱えているトラウマについて。
あまりにオカルトすぎて、信じられないような話だが――。
俺は前世、人ではなく、ガルというシベリアンハスキーの子犬だったのだ。
◆
それは、奇しくもバレンタインデーのこと。
「おう、ガルは今日も元気いっぱいだな! でも悪いな、散歩は昼寝してからだ!」
「わふっ、わふっ!」
いつもの様に帰ってきたご主人様にガシガシと撫でてもらった後、ご飯を食べる部屋に向かうと、テーブルの上に置かれた小箱が目についた。
……もしかしたら、おもちゃ箱かもしれない。
そんな期待を込め、俺は椅子を経由して、ぴょんと机に飛び乗った。
そして、紐を口で引っ張って――。
ごとん。
床に落とせば、衝撃で偶然箱が開いて、中に入っていた沢山の粒がばらまかれる。
それは、どれも茶色くて、丸々として。
なんだか、とっても美味しそうに思えたのだ。
……大きな音を立てたけど、誰も気づいた様子はない。
欲望のまま、ガブリ。
まずは一個。
続けて二個目。
俺は調子に乗ってパクパクと食べていく。
……我に返ると、小箱に入っていたそれは、ひとつ残らず俺のお腹に収まっていた。
「わ、わふっ……!」
美味しいけど、マズい。
全部食べてしまったら、流石に怒られる気がする。
俺は前足で器用に小箱を隠し、何食わぬ顔で寝たふりをして――。
そして、数時間後。
ご主人との散歩の途中で泡を吹いて、驚くほどあっさりとその生涯を終えたのだった。
◆
次に目覚めたとき、俺は人間の赤ん坊になっていて。
字が読めるようになったら真っ先に文献を漁って、あれがチョコレートという、犬が食べてはならないものなのだと知った。
以来、俺はあの匂いを嗅ぐと、えづきそうになってしまう。
それどころか、存在を認識するだけでアウトなぐらいだ。
……だって、自業自得とはいえ、俺の命を奪った食べ物なのだ。
どんなに周囲が美味しそうにしていても、正気の沙汰とは思えない。
正直、さっきの女の子に差し出されたときですら、吐き気を堪えるので精いっぱい。
だから、自然とそっけない態度になってしまったわけだった。
「……うう、だからこの季節は嫌なんだよ」
罪悪感からぼそっと呟いて、寒々しい屋上から離れようとする。
すると、入口のあたりに、さっきとは別の相手が仁王立ちしていた。
身長は140センチぐらい。
真ん丸とした大きな目が特徴的な、ショートカットの女の子だ。
……新手だろうか。
その子の手には、似たような箱が握られているし。
自惚れ交じりに言わせてもらうと、人間になった俺の容姿はそれなりのようで。
好感を持ってくれる女の子も少なくないのだ。
「ごめん、俺はチョコレートは受け取らないから」
でも、ただでさえきついのに、連続では無理。
先手を打って通り過ぎようとする。
だというのに、無情にも俺の手はむんずと掴まれてしまう。
「は、離してくれよ……」
きつい。
吐きそう。
前世と違って、粗相をしても面倒を見てくれるご主人はいないんだ。
リバースしたそれの処理って、すごい惨めなんだぞ。
そんな想いを込め、振り払おうとするのだけど。
「何を勘違いしているんだ? これ、チョコレートじゃないぞ?」
「へ?」
顔に小箱を近づけられ、つい嗅いでしまう。
……確かに、カカオの匂いは全くしなかった。
箱から漏れ出るのは、生臭い魚介特有の香り。
これは──
「……まさか、煮干し?」
「そうだ。だって、お前、昔から好きだっただろ? ちょっとあげたらガジガジ噛みついて」
「な、なんでそれを……?」
いや、確かに俺は前世から継続して――母さんに頼んでお弁当に入れてもらうぐらい――煮干しが好きだけど。
なんで面識もない彼女が知ってるっていうんだろう。
っていうか、わざわざプレゼントに煮干しをチョイスする女の子ってどうよ。
混乱する俺に、少女はニカリと微笑んで言うのだ。
「そりゃあ、オレはお前のご主人様だからな。……探したぞ、ガル!」
と。
◆
常識で考えるなら到底、あり得ない話。
でも、前世の名前を知っていて、それどころか好みまでも把握している。
あてずっぽうな妄想というには正確過ぎて、自然と納得してしまっていた。
「……でも、俺の知ってるご主人は高校生だったけど、そんな見た目じゃあないんだけど。確か、人間のオスだったはずだし」
もっとも、疑問がないかといえば話は別で、それを問いかければ、少女はちんまい見た目に似合わず、がははと豪快に笑う。
「お前なあ。あのバレンタインデーが何年前だと思ってる? 生まれ変わったガルが高校生になるぐらいだぞ? 生きていたら未だに高校生なわけがなかろうが」
「た、確かに……。って、もしかして……!?」
続けて、俺の視線に鷹揚にこくり。
「大体お前の考えている通りだ。あの後、オレも死んでしまってな。同じように生まれ変わったというわけだ。まあ、同時期に死んでも、一年ぐらいの誤差はあったみたいだがな」
な、なるほど。
何せ、犬だった俺が人間になっているのだ。
オスだったご主人が、メスになるぐらい、何の不思議もない気がする。
でも。
「食中毒で死んだ俺はまだしも、なんでご主人が……? ま、まさか、後追い――!?」
「阿呆。そんなわけないだろう。いや、ガルが死んだのは、まさしく死ぬほど悲しかったがな……。とはいえ、それで弔いもせず命を絶つほど、オレは弱い人間ではない」
「じゃあ、なんで?」
度々質問すると、ご主人は頬をぽりぽりとして、一拍の間を開けてから言う。
「……恥ずかしながら、ガルが泡を吹いたのに動転してしまってな。動物病院に向かっている途中、事故に遭ってしまったというわけだ」
「ご、ご主人……」
「ま、まあ、それは兎も角だな。この高校の入学式のとき、一目見てわかったぞ。図体はデカくなってたが、辛いときツンと上を向く仕草とかガルの頃にそっくりだったしな」
……そんなに前から、ご主人は俺のことに気づいてくれていたんだ。
嬉しいような、恥ずかしいような、こそばゆい気持ちが込み上げてきて。
ちょっと泣いてしまいそうだった。
「で、だ。それ以来、ずっとお前に煮干しをあげたかったんだよ。お前が嬉しそうに食べるを見るの、好きだったからな」
「……それなら、わざわざこんな日に渡さなくても良かったんじゃあ。それに、四月に気づいてたとしたら、もう二月ですよ?」
「馬鹿もん。見知らぬ相手にいきなり食べ物渡されても、怖いだけだろうが。オレは子犬だったお前に、拾い食いをするなと厳しく躾けたぞ」
疑問を口にする俺に対し、大きく腕組みして返事をするご主人。
だけど、すぐに破顔して、
「おすわり」
と。
「う、うわっ」
条件反射的にしゃがみ込めば、そのままぎゅっと抱きしめられ、俺の口からは情けない悲鳴が漏れた。
「それに、昔みたいにこうやってしてやりたかったんだ。オレは気にしないが、周りがうるさいからな。出来るだけ人目につかないところがいい」
そんな反応を無視して、ご主人はガシガシと俺の頭を撫でつける。
い、いや。
確かに懐かしくて気持ちいいけど!
それ以上に、顔にはふんにゃりとした柔らかな感触が!
……今のご主人は、背丈に反して随分とご立派な胸をお持ちなのだ。
その上、前世よりも効かなくなった鼻でもわかるほど、女の子のシャンプーの甘ったるい香りもして。
もう俺はされるがまま。
ただただ、硬直することしかできなかった。
◆
……結局、解放されたのは、ご主人が心行くまで堪能してから。
一方、俺は……。
うん。
なんというか、刺激が強すぎて、ぺたんとコンクリの床にへたり込んでしまっていた。
もっとも、嫌だったわけではない。
久々にご主人と触れ合えたのだ。
もし、今の俺に尻尾があったとしたら、多分、ぶんぶんと左右に揺れていたと思う。
「……煮干しを渡して、ワシャワシャして。ご満足いただけましたか?」
それでもちょっとだけ恨み言を呟けば、何故だがご主人は眉をへの字にする。
雰囲気でわかる様に、あくまで冗談でしかないのに。
「いや、まだオレにはやらなければいけないことがあるんだ」
「……ご主人?」
次に口を開いたとき。
ご主人は、さっきまでの自信に満ち溢れた表情とは違い、今にも泣き崩れてしまいそうだった。
「実はな。オレはずっと、お前に謝りたかったんだ。だって、不注意でガルを殺してしまったようなものだから……。まだ子犬だったのに苦しかっただろう……? 本当に、すまなかった」
それだけ言って、勢いよく頭を下げるご主人。
その手は震えていて、なんとなく俺は理解する。
ご主人はさっき、都合がいいからバレンタインにしたって言ったけど。
もしかしたら、それは理由の一つでしかなく、八カ月も間が空いたのは――。
「大丈夫ですよ、ご主人。俺は気にしてません。変な言い方ですけど、人間に生まれ変わってまた会えましたし……。元はといえば、子犬だった俺が悪戯してチョコを食べたせいですしね」
だから、今度は俺が抱き寄せる番だった。
出来る限り優しく。
そして、体温が――俺が生きているって伝わる様に。
「……そうか」
「そうです」
顔を袖でごしごしと拭うご主人に、俺は笑いかける。
ありがたいことに彼女も笑い返してくれて、すでに頬を伝う涙は止まっていた。
……ご主人と別れて、空白の十数年間。
積もる話はまだまだあるのだけど。
生憎と、俺にはそんな時間は与えられなかった。
「……おーい、キッコ! もう話は終わったか? 帰るぞ!」
グラウンドから屋上に聞こえてくるのは、野太い男性の声。
視線をやれば、精悍な顔つきの、大柄な学生が一人立っていた。
……多分、キッコというのは今のご主人のことだろう。
今更ながら、お互いに名乗ってすらいなかったことに気が付いた。
一方、ご主人はその男性に
「わかったー! すぐ行く!」
と同じぐらいの大声で返す。
その横顔は、とても嬉しそうで、親しみに溢れていた。
……まさか、彼氏なんだろうか。
いや、ご主人はあくまで俺に煮干しをあげて謝りたかっただけで、何もおかしな話じゃないんだろうけど。
何故だか酷く、ちくんと胸が痛んだ。
「……じゃあな、ガル。話せて嬉しかったぞ!」
それだけ言って、屋上から立ち去ろうとするご主人。
……その手を、さっきとは反対に、俺が取る。
殆ど無意識に引き留めてしまっていた。
「あ、あ、あの! ご主人!」
「ん? どうした?」
振り返ったご主人は、不敵であり、親愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
前世と同じだけど違う、人間の女の子のそれ。
見た途端、叶わないとはわかっていても、想いを口にしてしまっていた。
「に、煮干しだけじゃ嫌です! 彼氏さんがいる以上、馬鹿な考えだってわかってるけど……。お、俺のためにチョコレートを作ってください!」
ご主人は絶句した様子で俺を見る。
断られるのはわかりきっていたけど……。
この沈黙は、痛い。
だけど、次の瞬間大爆笑。
「馬鹿だな、ガルは。あれはな、今の俺の兄貴だ。彼氏なわけないだろう!」
「……へ?」
「そうだな。そんなにチョコが食べたいなら、明日にでも用意してやる。……食わず嫌いを克服させるのもかつての飼い主の務めだしな!」
◆
それから一週間後。
一年生の教室にて。
「とは言ったがなあ……。何故毎日毎日、オレのところにチョコレートを貰いに来るんだ?」
満面の笑みでチョコレートを頬張る俺を見て、ご主人は大きく息をつく。
そんな彼女に、俺はしれっとした顔で。
「……だって、俺、ご主人のチョコじゃないと食べられませんから。それ以外、怖いんですよ」
「それは……そうかもしれないがな」
……ご主人には悪いんだけど、思いっきり嘘だ。
トラウマを払拭して食べてみたチョコレートは、とっても甘くて、苦くはあるんだけど、それこそ蕩けてしまいそうなほどだった。
いや、忘れていたというべきか。
だからこそ前世の俺は、文字通り、死ぬほど食べてしまったわけなのだから。
でも、一部は嘘じゃない。
ご主人から貰うチョコは、それ以上に甘くて、格別で――。
これを知ってしまえば、もう他のは食べられない。
ちょっとしたズルをしてでも、おねだりをしてしまうのも仕方のないことなのだ。
「ふぅ。こんなことになるなら、食わず嫌いを克服させるなんて、変な約束をするんじゃなかったな」
呆れたように言う彼女に、俺は笑う。
「……だから、言うじゃないですか。『わんこにチョコをあげてはいけません』――って」