憧れのダイヤモンド
この話は、表現上空白行が多数入ります。
ご了承下さい。
では、どうぞ本編をご覧下さいませ。
あたしが夢見たこと。
それは、『男になること』。
何故かって?
………野球がやりたかったから。
焦がれ続けた。あのダイヤモンドの中に。そこで動き回るユニフォームに。飛び交う白球にさえも。
追いかけたけれど届かなかった、ダイヤモンドに。
妬んでいたのかもしれない。あたしはあの中にはもう入れないから。
ずるい、と。
憧れたダイヤモンドは遠く、いくら手を伸ばしたって届かない。
あたしは諦めるしかなかったんだ。
あたしの父は無類の野球好きで、仕事から帰ってくるとテレビにかじりついてプロ野球を見、休日になれば草ソフトボール(あたしの地域には草野球チームが無くて、父は泣く泣くソフトボールのチームに入った)に出かけていくような人だった。
そんな人が自分の息子とのキャッチボールに憧れないわけがない。あたしの母が身ごもったと知った時は父はそれはそれは喜んだという。ただし、あたしが生まれるまでは。
母は、「生まれるまでの楽しみに、性別は言わないで下さい」と医者にお願いした。父もそれに賛成した。なぜならあたしが「男」だと信じて疑わなかったからだ。
しかし生まれてみて仰天したそうだ。あたしを取り上げた後、医者が分娩室の外で待っていた父(父は出血が苦手で、見ると卒倒するのだ)に告げた言葉……。
『おめでとうございます。可愛い女の子ですよ!』
それを聞いた瞬間、父はかなり呆然と立ち尽くし卒倒してしまったらしい。今でも母が笑い話にしているくらいに。
憧れていた「息子とのキャッチボール」。しかし現実は甘くなかったわけだ。
……けれど父はしぶとかった。なんと、あたしに野球をやらせたのである。
「たまの、お前は男女の壁を破るんだぞ!」
という文句と共に。当時純真無垢だったあたしは、
「分かった!!」
と勢いよく答えていた。これはいつの間にか父の野球毒に浸食されていたためであろう。
名前のせいもあるかもしれない。「たまの」という名前は、“野球”を逆さまにして訓読みしたものなのだ。
小学1年生から地元の少年野球チームに入り、毎日素振りとランニング、父とのキャッチボールをやり、髪の毛はもちろんベリーショート。試合に負けたときは坊主にしたことだってある。これには監督が目を丸くしていた。
「たまの…お前、そこまで…」
と言って、監督はこの後男泣き。チームメイトからは「監督を泣かせた女」として賞賛されたのだった。ちなみにその後監督には「頼む、坊主にだけはしてくれるな」と懇願され、それ以来坊主にはしていない。監督にも娘さんがいるみたいで、どうやらあたしの坊主姿を娘さんと重ね合わせてしまったみたいだった。
5年生頃になるといきなり身長が爆発的に伸び、それまで148センチだったにもかかわらず、一年で165センチまでになった。同級生の男子よりもでかくなってしまったあたしは多少傷ついたのだけれど、普段からの練習で細身、しかも男顔だったため、女子から「たまのお姉様」と宝塚のスターのように憧れの的にされた。
それはちょっと気分が良かった。
廊下を歩いていれば「きゃー」、テストで100点を取れば「きゃー」、あいさつをすれば「きゃー」、体育で転んでも「きゃー」。あたしの行く先々では必ず黄色い声が上がり、ファンクラブができ、バレンタインなんか下駄箱がチョコで一杯になった。
あたしは乙女として複雑な思いを抱えつつも、まあそれなりに楽しいし害はなかったので普通に生活していた。ちょうどその頃試合でホームランを連発してもいたし、すこぶる調子と機嫌が良かったのだ。
そんな時、事件は起こってしまった。
いつものように試合を終え、チームメイトと帰ろうとしていた時だった。
その試合は隣の市のチームとで、細っこいもやしみたいなピッチャーから繰り出される速球が圧巻の一言。あたしの気分は高揚した。
チームメイトが速球に苦しめられる中、
こんな奴がいるんだ。あたしも、負けたくない。
そう思って打ったところ見事ホームラン。
試合には負けたけどモチベーションは上がって、家に帰ったらいつもよりも多くトレーニングしようかななんてうきうきしていた。
荷物をセカバンに詰めて、さあ帰ろうと腰を上げた、まさにその時。
あいつは現われた。
それはあのもやしっこピッチャー。
「あ、あの……」
遠慮がちにあたしに話しかけてきたそいつは、あたしより5センチくらいでかかった。そこは気に入らなかったけど、左目の下に泣きぼくろが二つあるその顔は割といい方で、頬がちょっと染まったのが分かった。
「………何」
でもぶっきらぼうにそう返す。だってチームメイトがにやにやしながら見ていて恥ずかしかったのだ。
「いや、あの、えっと…」
「何。はっきり言いなよ」
「………」
もやしっこピッチャーは黙り、喉をごくん、と上下させた。よく分からなかったが緊張しているみたいだった。
そして意を決したように話し始めるそいつ。
「…俺、ずっと自分の球には自信があったんだ」
・・・は?
口にこそ出さなかったものの、内心「なんだこいつ」って気持ちで一杯。
「小1から野球始めて、ピッチャーになりたくて、練習続けてやっと成果出て…。レギュラーになってから、一回もホームラン出されたことなかったんだ」
ああ、なるほど。
つまり自分の球に自信があったのに、しかもホームラン打たれたこと無かったのに、今日あたしが豪快にホームランをかっ飛ばしたから、腹が立ったわけだな。そして抗議にきた、もしくは喧嘩しにきた。・・・それにしては随分弱腰だけど。
「喧嘩なら買うけど?」
ちょっと強めに言う。喧嘩は男子にだってなかなか負けない。
「え?けんか………って違えよ!そういうことじゃなくて!」
「はあ?じゃあ何だっていうんだよ」
「俺………お前に惚れたんだ!」
「・・・は?」
今度は思わず口に出して言ってしまった。
「お前のスイングに惚れたんだ!あんなに豪快にかっ飛ばされたの初めてだった。すごいって思ったんだ。でさ、はじめはびっくりしたんだけど、お前の顔見てもっとびっくりした。だって女だったんだから……し、しかも、その……び、び美人で……っ」
「・・・」
今度彼はトマトみたいに真っ赤になりながらそう言った。ついでにあたしも真っ赤になって、見ていたチームメイトからは「ひゅー!」という歓声と口笛があがった。
美人なんて言われたことがなかったし、照れたけど、嬉しかった。
スイングを認めてもらえたことも嬉しかった。
あたしはその瞬間心臓がどくどくし始めるのを聞いていた。
「だからさ、お前のこと好きになっちゃったんだ。あの、その、だから付き合ってっていうんじゃないけど、えっと……」
彼は再びそこで黙りこみ、直後満面の笑みをあたしに向かって浮かべたのだ。
「また野球やろうな!」
「・・・うん」
「中学行ってもやろうな、絶対。で、大人になっても」
「・・・うん」
「へへ、良かった」
私がうなずくと、彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。いっそう心臓がどくどくと鳴る。
「なあ、名前聞いていい?メンバー表見られなかったんだ」
「え?ああ、うん。たまの。如月たまの」
「俺は荻原孝文。じゃあ、またな、如月!」
そうして荻原は言うだけ言って自分のチームメイトの元へ帰って行った。
あたしはその後ろ姿をぼんやり眺めていたけど、堰を切ったようにチームメイトが騒ぎ始めたからそれどころじゃなくなった。
人生初めて告白されて、嬉しくならないはずがない。
私はその夜家に帰ると、リビングでソファに座り野球を見ていた父に、そのことを報告したのだった。
「お父さん!あたし、告白されたの!」
「ふーんそうかあ良かったな………って、は、告は………何いいいい!!?」
「凄い速球ピッチャーに!あのね、あたしのスイングに惚れたんだって!今日ホームラン打っちゃったんだよ、そいつの球」
「おいたまの…、ちょ、待て」
「でね、そいつ……あたしのこと美人だってー!!どうしよう!」
「しかも口説いたのかー!!たまの、こら!ちょっと落ち着いてそこに座りなさい!!」
「・・・」
そこまで調子よく喋っていたけれど、いきなり父が大声を出したから、あたしは素直に指定された場所に座った(父の隣)。
「…で、たまの。あと何を言われたんだ?ん?お父さん…怒らないから…正、直に……っ、う、うう…っ」
「え、何で泣くの?」
またいきなり泣き出した父。あたしは父の奇行に口を開けるばかりだった。
するとちょうどそこに母がやって来た。
晩ご飯の準備が終わったみたいで、あたし達を呼びに来たんだろう。
「お父さん、たまの、ご飯……ってどうしたの?」
「お母さん。いや、なんかあたしが今日告白されたって言ったらお父さん泣いた」
「ああっ…う、たまの…あんまり露骨に…ひっく、言うんじゃありません……っっ!」
「あら重症ね」
「どうしよう…」
「まあいいわ。何、たまの告白されたの?ちょっとお母さんに詳しく聞かせてよ」
「うん、それがね………」
父に言ったのと同じことを母にも言う。母はさすが女性なだけあって、目を輝かせながら聞いてくれた。
「美人なんて言われたの、あんた。やったじゃーん!」
と喜んでまでくれた。思わず照れ笑い。すると父がまた泣いたんだけれど。
「で、続きは?」
父が泣き始めたためにそびれていたことを、あたしは話し始めた。
「うん。それであいつね、『また野球やろうな』って言ってくれたの。そんで、中学行っても、大人になってもやろうな、って!」
その瞬間、父が泣くのを止めた。
「あたし嬉しくてね、『うん』って約束したんだ。だからこれからもっと練習してあいつと大人になっても試合したい!ね、いいでしょ?」
「素敵じゃない。ね、お父さん」
母が同意を求めると、父は、何故か顔を歪ませた。
「・・・お父さん?」
「たまの、中学からは野球ができないんだ」
突然のことに思わず固まってしまった。
お父さんはいきなり何を言い出すんだろう、と、しばらくしてやっとそう思えた。
「・・・何言ってるの、お父さん」
「ソフトボールならできるぞ。どうしても野球ってんなら高校でマネージャーは大丈夫だと思うけどな」
「待って、待ってよ。ソフトじゃない。野球だよ?それにマネージャーだなんて言ってない。あたし、試合するんだよ」
「それはできないんだよ」
「何で!?嘘だ!」
「お前は小学校で野球を・・・やめないといけないんだ」
「なんで・・・?」
泣きそうになりながらそう訊くと、父は益々顔を歪めた。
野球に疎い母でも父の言いたいことが分かったらしく、沈痛な顔をした。
「お前が女だからだ」
瞬間、あたしの世界は反転した。
女は野球ができない。
小学校までしかできない。
女が野球をやることは許されない。
もう、荻原と野球ができない。
そう理解した途端に、あたしは悲しみよりも怒りを感じていた。
ソファから立ち上がり、放り出していたセカバンを拾い上げると、ドアを開けて力任せに閉めた。
ドアからはバンッ、という大きな音が出たけれど、あたしの口からは小さな嗚咽がもれるだけだった。
唇を噛みしめて、涙が零れるのを天井を向いて我慢する。
そこでは泣きたくなかった。
あたしはセカバンを抱え、家を飛び出した。ユニフォームのまま。
そして着いた先はいつも練習しているグラウンド。
粗末で簡易なベンチにどかりと腰を下ろすと、うっすらと暗くなっているにもかかわらず、見慣れたダイヤモンドははっきりと目に浮かんできた。
あそこがベース、あそこが一塁、ちょっと先に行くとそこだけ窪みができててよく転ぶ。それで…それで…
涙が落ちた。
誰よりも練習している自負がある。バッティングは男子に負けないつもりだ。守備だって、最近任されたセカンドをしっかり守っているのに。
女には野球ができない。
それはなんて酷く、悲しいことだろう。
あたしは、あたしの名前を「野球」を逆さまにして訓読みした「たまの」にした両親に苛々した。あたしに野球をさせた父に腹が立った。
そして何より、女に生まれた自分が悔しかった。
男になりたい。
でもそれは叶わない。
じゃあ野球はできない。
涙は後から後から零れて、なかなか止まらなかった。
何とか止めようとして拭ったユニフォームの袖がびちょびちょになり、目はひりひりした。きっと明日ひどい顔になるなと思ったけど、やめようとはしなかった。
でないとまた世界がぐらぐらする気がした。
ようやく涙が引いてきて、ぼんやりとした頭で考えると、今までの野球生活が走馬燈のように浮かんできた。練習、試合、チームメイト、監督、キャッチボール・・・。それらは頭の中をくるくると回り、浮かんでは消え、浮かんでは消え…としていた。
最後の場面が浮かび、突然あたしの頭はすっきりとした。
そしてあたしは、野球を辞める決意をしたのだ。
走馬燈の最後に浮かんだのはもやしっこピッチャー、荻原孝文の満面の笑みと、
『また野球やろうな!』
という眩しい言葉。あたしには閉ざされてしまった、未来を約束する言葉だった。
ダイヤモンドがカシャンと音を立てて歪んだ。
野球をやめたあたしは髪を伸ばし始めた。
中学三年間で多少切ったりしたけど肩より上にしたことは無くて、高校に入学する今は二の腕と同じくらい。少し巻いて、栗色だ。
部活に励んだり(バドミントン部だった)、女友達と服を買ったり、彼氏とデートしたり。結構楽しい中学生活を送って、高校もそれなりに楽しむ予定でいる。彼氏とは別れちゃったから、新しい恋の予感とか・・・ね。
今日は入学式。あたしは県内でも有名な進学校に入った。野球部は県内一弱小。それがあたしにはとっても魅力的だった。
クラス分けが掲示され、自分のクラスを確認したあたしは、うきうきと教室に行き出席番号順の席に座った。
すると前の席にはもう人が座っていて、あたし結構来るの早かったのにな、とちょっと悔しかったり。まだ入学式の一時間前だ。教室にはあたし達二人の他にまだ誰も来ていない。
前の人の名前は確認しなかったけど、あたしは如月で“カ行”だから、『か』のつく名字の人か“ア行”の名字の人だとは分かる。
その人は男子の制服を着ていて、身長も結構高い。細いけどしっかりした体格で、何かのスポーツをやっているのは一目瞭然だった。バスケか、バレーか。はたまた弓道とか。
あたしはその人に興味が湧いてきて、思わず背中をとんとんと指でつついた。
「あの、すみません。初めまして」
その人がぴくりとした。何故か振り向かない。
不審に思いながらも、あたしはそのまま話しかけた。
「えっと、あたし如月たまのっていうんだけど、今日から後ろの席になったんです。よろしく」
そう言っても振り向く気配がない。
「……よろしく」
と低音でややハスキーな声で返事をしたのみ。しかも不機嫌そうだった。
もしかしてうざったいと思われてるのかな、と思い、あたしは即座に謝った。
「ごめん、…うざかった?」
「あ、ごめん。そういうんじゃなくて…」
“うざい”というのは急いで訂正したその人。でも言葉尻は濁して、なんだかはっきりしない。
このはっきりしない物言い、なんだか似た奴が居たような。
「じゃあ何?どうしたの?もしかして具合悪い?」
少し心配になり、あたしは席を立ち上がって身を乗り出すと、その人の顔を覗き込んだ。
直後、
「うわあっ!ちょ、待ってたんま!まだ心の準備が…っ」
とその人は体を反転させ、顔を腕で覆い、あたしから見えないよう隠している。
何なんだ一体。
初対面でこんなことをされるのは初めてで、正直腹が立った。
「・・・何で顔見せないの」
「いや、ほんとごめん。心の準備がついてなくて」
「心の準備とかいらいなよね、顔見せるのに。何?赤面症なの?それとも単に恥ずかしがり屋?あ、もしかしてあたしのこと知ってる?そしてあたしのこと嫌いとか?何それそういうことかよそんなら早く言え!」
苛立ちが募り質問しているうちにボルテージが上がってしまった。最後はほとんど怒鳴っている。
まだ誰も来ていなくて良かったと心底思った。
「わ、ごめん……嫌いとかじゃなくてさ、」
「じゃあ何!」
「………はあ。分かった。じゃあさ、如月も心の準備しろよな」
いきなり名字を呼び捨てにされたが、それは興奮していて気にならなかった。むしろ特大ため息の方が気になった。
「おうよ!してるぞ!」
そう勇ましく答えると、その人は再び大きなため息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「俺は荻原孝文」
「・・・は?」
「だから荻原孝文だって」
「いやいや何言ってんの。そんなわけ、」
するとその人が腕を下ろした。現われた顔を見ると、ちょっと日に焼けていて、あたしに向けられた真剣な眼差しは、眼差し………
左目の下に、泣きぼくろが二つ。
心臓がどくんと大きく鳴った。
「……う、そ」
「嘘じゃないよ。お前は如月たまのだろ。三番、セカンド。俺からホームラン一号取っていった如月」
「え、そうだけど、でも」
「何で野球辞めたんだ」
「・・・っ」
「…もうすぐ人が来る。ここだとゆっくり話せないし、グラウンド行こう」
断ろうとしたけれど、それよりも早く荻原孝文があたしの腕を掴んで引っ張っていた。
有無を言わせない力。
あの頃のこいつには無かった力があった。
あたしはただ引っ張られるままに、グラウンドへ行った。
「さすが県内一の弱小部。グラウンド超閑散」
荻原孝文が苦笑いしながら言った。グラウンドに背を向け、フェンスに体を預けた。目は少し離れたところに立ち尽くすあたしに向けられている。
あたしは荻原孝文の後ろに広がるダイヤモンドにちらりと一瞥を向けると、そのまま荻原孝文へと視線を移した。
「……あんただったら、強豪校の推薦一杯来てたんじゃないの?」
「知ってるんだ」
「偶然ね」
知っているも何も、あたしは荻原孝文の野球情報には結構詳しい。それというのも元チームメイトで同じ中学に入った奴らが、荻原孝文の情報を逐一あたしに伝えていたからだ。
そいつらは何でだか知らないけれど、あたしが野球を突然辞めてしまったのが嫌で、しかも小学校最後の試合でたまたま荻原孝文のチームと再戦した際、荻原孝文に「あれ、如月は?」とか訊かれたのをずっと気にかけていたらしかった。多分、荻原孝文がまだあたしのことを好きでいるとでも思い続けていたのかもしれない。あたしがバスケ部のエースと付き合った時なんか激怒していたから。
「お前、荻原が泣くぞ!」
「付き合うならせめて野球部にしろ!他のスポーツは敵だと思え!」
とかなんとか。
その時は「あたしバド部だし、じゃあ敵だね」と返したらもう何も言わなくなったけれど。
とにかく、そのせいで知りたくなくても知っている。
中学最後の大会では優勝したとか、速球ピッチャーとして結構注目されていたとか、県内外の強豪校からの推薦が跡を絶たなかったとか。
・・・まだホームランは打たれていないとか。
そんなことが頭に浮かんで、あたしは振り切るように口を開いた。
「何で、こんな高校に来たの?」
「うん」
「うんじゃ分かんないよ」
「うん…」
そう言ったきり、荻原孝文は黙ってしまった。
こういう場面で黙ってしまうのは彼の癖なのだろうか。
そして黙った後は決まって、大事なことを言うのだろうか。
それは彼が昔と変わっていなければの話だけど。
「何、早く言ってよ、入学式始まっちゃうから」
待っている義理もないのでそう急かした。
実際あと三十分程で入学式が始まる。早く教室へ戻らないと、“入学初日”という友達を作るチャンスをも減らしてしまうかもしれない。
「…何であの時野球辞めたの?如月」
「・・・」
やっぱり大事なことだった。
昔と変わらない荻原孝文に少し安心しつつ、今度はあたしの黙る番となったことに気づき苛つく。
思わず舌打ちをした。
「…別に、どうだっていいじゃん。あたしが野球辞めたってさ」
「よくねえよ」
「関係ないでしょ。はい、話これだけ?じゃさっさと教室戻ろうよ」
そう言って背を向けた。
教室へ歩きだそうとしたあたしは、それが叶わなくなって、荻原孝文を見た。
彼があたしの手をがっちりと掴んでいたのだ。
でもさっきとは違う。流されたくはなかった。
思いっきり手を引っ張って手が離れるようにしたけれど、荻原孝文の手は離れない。
握力が強いんだ、と間抜けなくらい場違いに思った。
痛いくらいに強い力。
あたしとは違うんだ。途中で野球を投げ出したあたしとは全然違う。
こいつは、荻原孝文は、今までずっと練習して試合してを繰り返して、野球と向き合ってきたんだから。
あのダイヤモンドの中で野球をしていたんだから。
諦めたあたしとは、違うよね。
「え、ちょ、ごめん!痛かった!?」
「へ・・・?」
急に慌てて手を離した荻原孝文。何で慌てているのか分からなくて、あたしは首を傾げる。確かにちょっと痛かったけど……。
「だって泣いてるから」
「え」
自分の目元に手を当ててみると、水に触れた。本当だ、あたし、泣いてる。
言われて初めて気がついた。
「あれ、何でだろう」
涙は自覚した途端ぼろぼろと零れ、止まらなくなった。
あの日以来泣いていなかったから、もしかしたらその分もまとめて出てきちゃったのかもしれない。
落ちた涙が地面にしみを作るまでにそんなに時間はかからず、あたしは制服の袖で目を擦った。新しい制服だけどそんなの気にしていられない。
ハンカチは教室にあるバッグの中だし、とにかく涙を止めたかった。
それに荻原孝文に見られているのもちょっと嫌だ。
「え、どうしよ、まじごめん、えっ」
・・・・・・慌てられるのも嫌だ。
「…とりあえず、これ使って!」
そう言って差し出されたのは、青いハンカチ。彼はピッチャーだというのが頭をかすめ、泣いていたにもかかわらず途端にあたしは吹き出した。
「ぶ、あは、は、ハンカチ王子……!」
「るっさいな……使わないならいいけど」
「ごめんごめん、使う。使うよ」
遠慮なくハンカチで目元を押さえ、水分を吸い込ませる。ほんのりとだけど、荻原孝文の匂いがして気恥ずかしかった。
でも拭っても拭っても、やっぱり涙は流れてきて。
「・・・ほんと、どうしたんだよ」
今度は心配されてしまった。自分でも分からなかった。何でこんなに涙が出てくるのか。
自分でも困惑しているあたしに気付いたのか、荻原孝文は少し黙ると、一つ小さな息を吐いて、意を決したようにあたしに眼差しを向けた。
「なあ、野球辞めた理由……聞かせてくれない?」
その時ちょうどよくチャイムが鳴り、あたし達は互いに顔を見合わせ、苦笑した。おそらく体育館への入場が始まる時間だ。今から戻っても恥ずかしいだけ。
あたしはもう話すしかないらしい。
…そして、あたしは『野球』と向き合わなければいけないみたいだった。
「・・・ちょっと長くなるけど」
「うん。いいよ」
「ありがとう。………あのね、告白、凄く嬉しかった」
「う、うん…」
荻原孝文は、僅かにはにかんだ。その顔はとても幼く見えて、ちょっと懐かしくなった。
「また野球やろうって言ってくれたのも、凄く嬉しかった」
「うん…」
「あたしずっと野球やるつもりだった。中学でも高校でも、大人になっても。でもね、あたしその夜に分かっちゃったんだ。その時まで知らなかったのもどうかと思うけどね」
少しだけ間を置いて、気分を落ち着かせる。涙がまた少し零れた。
「女は野球ができないんだよ」
「・・・」
「女は野球ができない。試合に出られない。投げられない。守れない。打てない。許されていない。……悲しかった。男子より練習してたつもりだったし、負ける気もしてなかった。でも、本当はそれ以前の問題だったんだね。どんなに素振りしてもさ、試合に出られないんだったら意味ないよね。無駄だよね・・・だから、辞めたの。野球」
同じようにあたしもフェンスへと歩み、それに体重をあずけた。
「それに、あんたの球も打てないしね。それじゃ意味がない」
精一杯にやりと笑ってみせた。ただ、泣いているからちょっと格好がつかない。
でも荻原孝文はあたしを真剣に見つめていた。だからあたしも視線は外さない。
「正直ね、あたしはあんたがちょっと好きだった。あんたの投げる速球も好きだった。凄いと思ったし、何度でも闘いたい、ぶつかりたいと思った。それに…そんな球を打った自分が少し誇らしかったの」
「・・・でも、野球はできない」
「そう。どうあがいたって駄目。ソフトとかマネージャーっていう道もあったけど、それじゃ益々意味ないしね。あたしがやりたいのは野球。でもあたしは女だし、男にはなれない。あんたとはもう野球ができない・・・辞めるしかないでしょう?」
涙はいつの間にか止まっていた。あたしは青いハンカチをたたむ。
もう話すことも無いし、正直話すこと自体が辛くなった。
『野球』と向き合おうと思ったけど、話していてもっと分かった。女は、あたしは野球ができないって。
これ以上は意味がないように思えた。ここに居ることも、こいつと向き合っていることさえも。
荻原孝文に教室に戻ろうと言おうとした、その時だ。
突如、横からガシャーン!という派手な音がした。
荻原孝文がフェンスを拳で殴ったのだ。
あたしは驚いて、思わず体を引いた。対照的に、カシャンと小さな音がする。
「俺は!俺は……っ、如月とまた野球がやりたい」
絞り出すようなかすれた声でそう呟いた荻原孝文は、眉間に皺を寄せて、苦しそうな顔をしていた。
そんな顔をしても、事実は変わらないのに。
「だから言ってるでしょ、駄目なんだって…」
「・・・俺がこの高校に来たの、実は如月と野球やるためなんだ」
「へ!?」
いきなりの言葉に、あたしは拍子抜けした。
強豪校からの推薦を蹴った理由って、それなのか、それでいいのか。
「何でだか知らないけど、お前が野球辞めてしかも野球と俺を完全に避けてるみたいなこと言われたんだ。お前の元チームメイトにさ」
あいつら……と、思わずため息が出た。
その余計なトリビアが、こいつの野球人生を狂わせたように思われてならない。
「俺はそれを聞いて、とにかく如月の事情っていうか、本音が聞きたくなって……で、高校は絶対野球部弱いこの高校に来ると思ったんだお前は。カンで」
「カン!?外れてたらどうしたの」
「その時はその時。でも結果として大当たりだから万事オーケー」
「いやいや。・・・あ、で、“心の準備”になったんだ」
「うん。めっちゃ緊張した。どう話しかけようか迷ってて、そしたらいきなり二人っきりになるし。困った…しかもお前から話しかけてくるしな。心臓ちぢんだ」
「…ごめん」
「ほんとにな。俺の苦労は何だったんだって。でもこうして話せたし、お前が野球辞めた理由も聞けたし…ついでに如月が泣き虫なのも新発見で大収穫?」
そしてにやりと笑うこいつ。
その笑顔に心臓がまたどくんと鳴って、かなり不本意だ。
・・・あたしはまだこいつのことが好きなのかもしれない。ううん。むしろ、ずっと好きだったのかもしれない。
だって焦がれたのは、ダイヤモンドと、野球と・・・。
「それに今の話聞いたら、女が野球諦めなくちゃならないって知らなかったあの時の俺も悪かったんだって分かったし。それは本当に悪いと思う。ごめんな、如月」
「いいよ、そんなこと…」
あたしの言葉を聞いて、荻原孝文はくすりと笑みを漏らした。おそらく、「ありがとう」というのが込められているのだろう。凄く優しい笑みだった。
またどくりとする。
「・・・俺如月とまた野球がやりたかったんだ。どうしても。如月が野球辞めてからずっともやもやして。とりあえずがむしゃらに野球やったけど、お前みたいな豪快なホームランには出会えなかった。不完全燃焼だな。だからずっとお前のスイングと、お前のことが忘れられなくて……それで、ええっと・・・」
荻原孝文はそう言ったきりまた黙り込んだ。
今度は何を言うのだろう。
また大事なことを言うのかな、荻原孝文。
「その、俺まだ、ってかずっと…如月のこと好きなんだ」
やっぱり大事なことだった。
荻原は、あの時みたいに真っ赤にはならなくて、静かに微笑んだだけ。
だからあたしも静かに微笑みを返した。
言葉はすぐにするりと口から出てきた。それはあたしがずっとしまっていたものだったのだろうか、或いは諦めていたものだったのだろうか。
とにかくその返事はまるで用意していたようにすんなりと発せられたんだ。
「あたしも、荻原と野球がやりたい。荻原が……好き」
そうして二人ではにかんだ。告白の照れくささと、想いが通じた嬉しさと。
随分変な道を辿ったけど、あたし達はやっとあの時に戻った気がした。
また始められるんだ、荻原と。
野球を。
・・・しかし課題が一つあるのを忘れてはならない。あたしは女なのだ。
「でも野球、やれないよね」
「何で?出来るっしょ。ここ弱小だしさ、混ざればいいと思う」
いきなり突飛なことを言う荻原。その発想は一体どこから来るのだろう。
「いやそういうわけにも……」
「ある程度実績があるところなら女子イコール駄目、ってなるけどさ。この高校は実績皆無。試合に出る予定もない。何故なら部員は」
「五人」
「お、やっぱり調べてたんだ」
「重要でしたから」
「だからさ、まず第一に部員数確保なわけだ。で俺と如月が入るだろ?それで七人。あ、でも俺のチームメイトが二人ここに来てるんだ。そいつらも入るかもしれないし……それで九人か。まあ練習試合くらいならできるか?」
荻原はうんうん唸りながら考え始め、そこまで真剣だったのかと今更に呆れた。
「荻原さん、推薦蹴ってまでしてあたしと野球したかったですか」
だから思わず聞いてしまった。
「もちろん。なんたって俺のホームラン一号をかっさらっていった運命の人でしたから」
すると荻原は満面の笑みを浮かべ、何の恥ずかしげもなくそう答えた。
その笑みはまるであの時のもののようで、素直に嬉しくなった。そこまでしてあたしとの野球を望んでくれた荻原にも本当に“感謝”の一言だ。
「よし、ノープランだけどなんとかなるっしょ」
「うんそうだね。なんとかなる!でもとりあえず入学式かな!」
「あ、忘れてた」
「今から行ったらかなりの重役出勤。ってか式はもう終わってるでしょ、これ」
腕時計を見てみると、もう式開始から一時間は経過している。終わっていてもおかしくない。
「じゃあホームルームか。うわ、二人そろって登場とかすげえ怪しいな」
「でも荷物は教室だし仕方ない。時間ずらしても変だしね。ここはひとつ、腹をくくるか孝文」
「・・・仕方ないな。そうするか、たまの」
そうして、あたし達は教室へと歩きだした。体重をあずけていたフェンスから体を離すと、カシャンと音がして。
ふと振り返ったあたしは、視界一杯に、春の陽光に照らされたグラウンドを見た。
眩しいくらいのその場所は、もう歪んだりはしなかった。
とりあえず髪を切ろう。
あの頃みたいにベリーショートにして。髪の色はそのうち戻る。
そんで、あの日段ボールに突っ込んで押入れの隅っこに詰め込んだグラブとバットとボールを出そう。グラブはカビが生えてるかもしれないけど、まあなんとかなる。
あとお父さんに報告しようかな。あの時みたいに、突然「野球またやるから!」って。今度は「告白された」じゃないだけましだと思う。実は両想いになったんだけど、それは今回秘密。
さあ、忙しくなる。
また野球を始めよう。
ねえダイヤモンド。あたしはあんたが嫌いになったんだ。
あんたはあたしを受け付けないものだって分かったから。
そこに居られるのはお情けだって、そうあんたが言っている気がしたから。
でもやっぱり諦めきれないよ。
あたしはダイヤモンドが好きだ。そこで動き回るユニフォームも、飛び交う白球も全部。あんたの中でする野球は最高に面白くて楽しいって知っているから。
いくら拒絶したって、そうすればするほどあんたに焦がれてしまったんだ。
だから今度はぶつかってやるよ。
どんなに拒まれても弾かれても、あたしは諦めない。
ねえダイヤモンド。
あたしの憧れをどうか許してね。
そんで、最後まで足掻かせてよ。野球と向き合わせてよ。
ねえ、ダイヤモンド。
こんにちは、あめこと申します。
今回は少し長めのお話を書かせて頂きました。
私自身が野球好きでして、どうしても野球のお話は書きたいなあと思っていました。
それでこの「憧れのダイヤモンド」を書きました。
いかがでしたでしょうか。
私の技量の稚拙さ故に読みづらかったと思います。言いたいことが伝わりにくかったとも思います。
ですが、この話を読んで「野球っていいな」と思って頂ければ幸いです。
また、野球について多少の矛盾点があるかもしれません。
私は野球が好きですが、ルール等に明るい訳ではありません。もし間違っているところを見つけられた方は、私の方までご報告して頂けると嬉しいです。すぐに修正したいと思います。
では、ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。
感想等頂ければ至福の極みです。
ありがとうございました。
あめこ