第二章 ナルヴァの英雄
アイリは起き上がった。白い部屋。白い壁。白いカーテン。白いベッド。ちかちかして目が悪くなりそうだ。しかしそれよりも、彼女が真っ先に手を伸ばしたもの。
「ハコ……ハコが無い」
ドラグーンの持ち運びのためのプラスチック製のケース。もしかして昨日コースへと置き忘れたのだろうか。だとしたら大失態だ。心血を注いで整備したマシン。誰が盗みに来るかわからない。
「ちきしょう……オレとしたことが! 無事でいてくれよヴァルネ!」
がばりと立ち上がり、視界にドアを確認すると一直線。ノブに手を掛ける。が、がきんと硬い音。開かない。引っかかったのかと思ってもう一度強く回す。開かない。逆向きに回したり、前後に動かしたり。一心不乱に音を鳴らす。だがびくともしない。
「くそぉっ……! こんなとき……こんなときにッ……!」
すると、手ごたえが突然変わり、ドアがひとりでに開いた。
「よしっ、ラッキー! これで……」
「脱走は無理だと何度も言っておいただろう……」
アイリはきょとんとした。
眼前には小男の姿。二十代前半ぐらいだろうか。メガネをかけた、その表情は薄暗い。天然痘を患っていたのだろうか、顔には無数のあばたが残っている。ぎょろりとした瞳、鼻は上向きでとんがっていて、大きい穴の中が正面からでも丸見えになっている。加えてかなりの出っ歯。のぞく前歯はなかなか健康らしく黄色い象牙質が透けて見えるが、それがどうしても歯垢のように見えてしまってあまり綺麗ではない。おまけに猫背の上、顎が上がっているので必然的に口が半開きになってしまうという、すこぶる悪い姿勢。こういってはかなり失礼だが、まるで古今東西の気味の悪い要素をすべて詰め込んだような男だった。
「まったく元気なことだ。あれだけ重症を負ったってのに、手術から一時間もしないうちに目をさますわ、傷がふさがるのもすこぶる早いわ……あまつさえもう脱走しようとするだけの元気が戻ってきたのか。お前のバイタリティーには驚きを通り越してあきれるよ……」
「えっとー……」
言葉を捜すアイリ。
「新しい使用人……さん?」
首をかしげるアイリに彼は怒り心頭に発した。
「違うわ! バジル! バジル・ブリュネル! 共和国将軍にして国家頭領たるヴィルフリート・ダンクルベールの親友であり秘書だ! お前らとの、タルトゥ王国との戦いで負傷した彼に成り代わり、内閣と軍の全権を委任されている! まったく、何度いったらわかるんだ?」
「きょうわこく……しょうぐん…………えーと……」
「お前が次に言う言葉はわかっている! 『そんなことはどうでもいい、オレのドラグーンはどこにある?』 それで次はこう、『じゃぁ、ここはどこなんだ?』、だ! もう聞き飽きた!」
「……あぁ」
アイリはやっと思い出した。敵軍に撃たれて、おまけに相手の捕虜になって、緊急手術を受けて……ということはそう、ここは、病室。共和国の首都、川の向こうに内閣府を臨むVIP専用の総合病院……
「……じゃぁ」
「『今日は何日だ?』だろ? 今日からちょうど八月だ! ほら、カレンダーもめくってやったぞ! ヒマワリの柄が綺麗だろう!」
「そうか? 何だか抽象的過ぎて、高速回転するオレンジ色のスポンジタイヤにしか見えないなぁ」
「お前だけだ!」
「しかし、もう一日か……建国祭のレースまでもう二十日しかない……」
「だーっ! それも昨日言った! 本当に規則正しいやつだ、お前は機械か! ドラグーンのやりすぎで自分までマシンになっちまったんじゃないか?」
「失礼な、ドラグーンは機械なんかじゃねぇよ! オレの大切な……」
「かーっ! 『仲間だ』っつーんだろ? 『友達だ』ってほざくんだろ? 《ドラグーン》ふぜいが!! もういい! もうしゃべるな! 俺が一番反吐出したくなる言葉だ!」
ばんばんと扉を何度も蹴りまくる。廊下の後ろで控えている看守が、怪訝そうにその様子を眺めている。
「何だよ……嫌なら来なけりゃいいじゃねーか」
「あのな、俺は心配してやってるんだ《王女様》」
彼の舐めるような粘っこい口調に、アイリは眉をひそめる。
「カワイソウだよなお前も。女らしいことが全くできずに、あまつさえ男の遊びの中でも一番下らないドラグーンなんてものにのめりこむ羽目になるなんて……」
そう言われるとさすがに気に障ったのか、アイリは一瞬口を尖らせる。そしてすぐさま反撃。
「可哀想だなお前……男のクセして、ドラグーンの楽しさを理解できないなんて……」
しかし、そう言われた途端、
「黙れこのガサツ女!」
バジルは反射的に、彼女の口を掴んでいた。
「む……むぐ!?」
うなり声を上げる彼女に気付き、バジルははっとして手を離す。アイリは「ぷはぁ」と息を吸うと、袖で口をごしごし拭った。
「と……とにかく、あまり大きな口をたたかないことだな。俺は今、実質的にこの国のトップだ。いくらお前が王女とはいえ、お前は捕虜だ。好き勝手するのに不自由はない」
そう言ってあさっての方向を向く。何かドラグーンにトラウマでもあるのだろうか。
「うえ……ちょっと舐めちったよ、お前の指」
アイリは少し怒った様子でバジルに目配せする。
「なんだ、そんなに嫌ならもう二度とここに来なきゃいい。大統領代理ってんだから、お忙しいんだろ?」
「俺だって好きで来てるんじゃねーよ。お前に教えておかないといけないからな、民主主義の絆がどれだけ優秀で、封建主義の歪んだ主従関係がどれだけ脆いものであるかをな!」
フン、と鼻を鳴らすバジルを見て、アイリも腕を組みながらふんと、鳴らし返して見せた。
「なるほど。それにはまぁ、興味がないこともない。お聞かせ願おうじゃないか」
命からがら首都から脱出した王家と家臣たちは、内陸部に拠点を移し建て直しを図った。徹底抗戦の構え。しかし、あの《空飛ぶ船》に代表されるような最新兵器を所持している共和国軍と比べ実力差は歴然。じりじりと戦線は後退していった。しかも王国軍の士気は高くない。もともと規律のゆるいところだったし、王家家臣があれほどあっけなく城を棄てたことに不満も溜まっていた。あの戦いで城内の警護の軍人たちはほとんど捕虜になったのだ。このままだと、上の奴らは、自分たちも簡単に見捨てるんじゃないか……言葉には出さずとも、厭戦の空気が広がっているのは事実。
「そうなると必然的に次はこうなる。『共和国のやつらの言い分はもっともだ。俺たちは一部の金持ちのしょーもない私欲に踊らされているだけなんじゃないか』ってな。平民だってそうだ。戦争はもうこりごり。もし自分の村が戦場になったらどうしよう、長引けば税だってきつくなる。徹底抗戦なんて望んじゃいないさ、王家に対する反発は強まる。反乱の芽があちこちに生まれる。俺たちががんばらなくても、お前の国がなくなるのは時間の問題かもな」
「そうかい……ま、オレが心配なのはまず、親父たちが助かるかどうかだ。無事に逃げてくれるといいが……」
「ほらみろ、そのいかにも視野狭窄的な思考! 自分が国一つ束ねる一族の娘だという意識がまったく欠如している! 自分の行動いかんで民が、国がどうなるかなんてまったく考えない! これが王政だよ! これが封建主義だよ!」
彼は高らかな韻律で謳いあげる。しかし、アイリは興味ないという様子で言葉を返す。
「それとはまったく別の話さ。オレだって自分の国が大好きだ。民のことも、とても心配。でもそれとこれとは別の話。オレだって普通の人間だ、やっぱり身近な人の心配が先に立つ。お前だって家族が大事だろう? 友達が、大切だろう?」
「あぁダメだ! 何も、何もわかっちゃいない! もう喋るな! お前の言うこと言う事みんな、封建主義にどっぷり毒されていて吐き気がする!」
「お前もほーけんほーけんうるさいなぁ、もっと肩の力抜けよ……楽に生きようぜ?」
「余計なお世話!」
イラついてがんがんがんと壁に正拳突きを繰り返すが、散々打ち付けてから痛みに気付いたのかふーふーと手に息を吹きかけている。どうやら軍の代表といえど本人はからきしなようだ。
「家族とか、仲間とか……そんな絆全部妄想だ……ッ」
アイリはその様子をきょとんとした様子で眺めている。
「まさか……オレが生きている間にそんなありきたりな悪役のセリフが実用されているのを聞くとは思わなかったぜ……」
「うるさいな!」
「何でだ? どうしてそう思い込むんだ。お前が言おうとしていることはわかる。でも、暑苦しく万歳する奴もいかれているが、そう依怙地に否定する奴らもどうにかしてる」
バジルは前髪に手をうずめながら、くくくと笑いはじめる。
「それこそ、それこそ王族特有の、根拠の無い、《持てる者》の論理だと、どうして気付けないんだろうな? よくそんな、《仲間》だとか《絆》だとか、恥ずかしげも無く、軽~く口にできるもんだ?」
「軽くないさ。ずっと、この身で感じてきた。ドラグーンが教えてくれた。コースの上に立ってマシンを駆る、その瞬間瞬間に居合わせたものは、何物にも変えがたい結びつきを感じずにはいられない。自分とマシン……それに一緒に戦うライバルたちとの……」
「あーぁ!」
いきなり大きな声を出してバジルが両手を広げる。さすがに看守も「こいつ頭がおかしいんでないかい」という顔をしている。
「ドラグーンが絆だって? 気狂いにしか思えないや。お前外を見てみろ? そこに太陽はあるか? えっ月だっておかしいんじゃないか今は昼だぞ! まぁしょうがないか、ドラグーンが絆だって言っちゃうような可哀想な奴だからな!」
アイリはため息をついて、
「どうしてそうお前はドラグーンを嫌うんだ。何かトラウマでもあるのか? ずっと生まれ育ってきた村をドラグーンに破壊されたとか? 生まれてきた弟がドラグーンで、そいつに両親の愛情が移ってしまって悔しい思いでもしたとか?」
共和国軍が、ドラグーンを子供たちの手から回収しているという話は彼女にも伝えられていた。何でも、彼らは中の竜眼石だけを取り出して転用し、後はスクラップにしているという。
バジルはアイリの言葉に一瞬絶句した後。アイリをぎっと睨み付けた。
「トラウマ? あるさ、お望み通りな!」
「え、まさか本当に村を!? 冗談だったのに……」
「違うわ! ……そうか、そんなに聞きたいなら教えてやろう、今まで俺が歩んできた、とても悲惨な境遇をな!」
「いや別に……」
アイリは目を逸らすが、バジルはお構い無しに続ける。
「俺は不幸になるべくして生まれてきたようなもんだ。もし前世があるなら、俺はとんでもない罪を犯したんだろうな? そうじゃなきゃ納得できねぇ!」
バジルは時折声を潰しながら自分の半生を語り始めた。
彼は生まれつき容姿に恵まれなかった。兄からは鼻をつままれ、弟にも見下され、顎で使われた。両親も、口には出さずとも彼を忌避していることが見て取れた。ある日、彼は父が母を罵倒するのを聞いたことがある、やはり、バジルは夢魔の子なのではないか……と。
学校に行き始めても友はまったく出来なかった。いつも、誰にも見られない校舎の隅に座って雲の形を眺めていた。
そんなとき、隣国からドラグーンのブームが押し寄せてきた。バジル自身もその近未来的なフォルムに魅せられた。それまで遊びといえば身体を使うものしかなった。運動音痴のため肩身の狭い思いをしていた彼にとって、自分ではなくマシンが走るということは革新的だったのだ。結局のところ、彼はその《未来》に自分の未来を見ようとしたのだ。誰からも疎まれたりのけ者にされたりすることの無い未来を。
だけど、その《未来》はついに現実のものにならなかった。
「むしろ……悪化したさ。ドラグーンのせいで。あいつらは俺のマシンをよってたかってバラバラにした。俺は確かに《仲間》にしてもらえた。一緒のコースを走ることができた。だけどあいつらにとって、俺はストレス解消の道具でしかなかった……ドラグーンと一緒さ。所詮は単なる憂さ晴らし。マシンを使って刹那的に欲望を満たしているだけ……あまつさえそれを《友達》だなんて呼びやがる。なぁ、教えてくれよ。お前らにとって《友達》ってのは、自分の都合のいいように動く駒に過ぎないのか? 何も言わず、ただ命令に従って走るだけの、ただの馬車なのか? もしそうなら……トチ狂っているのは俺じゃない。醜いのは俺じゃない。気持ち悪いのは、醜いのは、俺じゃない!」
言い終わると、彼はぜいぜい言いながら肩を上下させた。
彼はアイリの顔を見る。ぼーぜんとした表情で、口を半開きにして動かない。それを見てバジルはあーあとわめく。
「どーせ気持ち悪いって思っているんだろう! わかってるさ! 俺だってわかってるさそんなことぐらい! なのに皆俺を馬鹿にしたような眼で見てくるんだ、俺が『自分の気持ち悪さに自分で気付かないで調子乗っている痛い男』であるみたいな目で見てくるんだ! だけど俺はいつも心の中であざけ笑っているさ、お前らなんか、俺が『自分の気持ち悪さに自分で気付かないで調子乗っている痛い男』と気付いたつもりになって優越感に浸ってやがる相当に痛い奴だってな! だいたい……」
「ふぇ」
「ふえ?」
彼は絶句した。目の前で硬直している彫刻、その造形はまったく変わらないのに……その瞳から、まるで裏側にポンプでも仕込んだかのように滔々と……
「ふえ……え、ええええええ……」
涙が流れ出てきたからだ。その様子には今まで忍耐強く沈黙を守ってきた看守も思わず、
「……め、めっちゃ泣いとるがな――!」
と叫ばざるを得なかった。
バジルはこれほどまでに泣きじゃくる人間を赤ん坊以外見たこと無く、それはもうおろおろするしかない。こんなとき用の危機対応能力ゼロの彼が発した言葉がこちら。
「そ……それで同情したつもりか! これだけで俺の今までの人生を、俺のすべてをわかったような気分になりくさっているのか! 何たる上から目線! 何たる傲慢さ! もしそう思っているのなら可哀想なのはお前のほうだ! あぁ! 何てかわいそうなオツム! 気持ち悪い!」
「かわい……そう……」
アイリはかすれた声を絞り出す。
「だぁあ! 言うないうな! 俺はカワイソウなんかじゃない! 殴るぞ!」
「かわいそう……かわいそう…………」
彼女はぐしゃぐしゃと眼をこすりながら何度も繰り返す。
「そんなにドラグーンで遊びたいのに出来ないなんて、かわいそうにもほどがあるっ!」
バジルはずっコケてかわいそうなぐらいオツムを打ち付けた。
「お前なぁ……どうしてそんなにあんなオモチャにそれほどまで入れ込めるんだよ……」
そう聞いた瞬間、いきなり彼女は顔を上げ両目からキラキラと星をこぼした。バジルが「あ、やべ」と思った瞬間、アイリがうきうきした口調で畳み掛けてくる。
「聞きたいかッ、聞きたいんだなッ! じゃぁ話してやろう!」
返事するスキも無い。アイリのほうが一枚上手だ。
「お前は友達もドラグーンも道具でしかない、って言ったよな……お前をいじめたけしからん奴らを引き合いに出して……言わせてもらおう、当たり前だ! ドラグーンはオレたちの友達なんだ! 友達を大事に出来ない人間がドラグーンを大切に扱えるか? ドラグーンを道具のように扱う奴は、友達も道具のように扱うだろう! それだけだ! そいつらが根性ひんまがってただけなんだよ!」
「す、すっげぇ屁理屈キタ――!」
バジルはのけぞった。
「俺だったら、そんなことは絶対しないね! だって真のドラグーン・レーサーは人をそんなことで差別しない! レース中の、あの一体感はウソじゃないから。オーナーはマシンのモーター音を心の中で響かせる。マシンに入り込んで、敵とかち合ったときのあの感触を皮膚に感じる。それと同じように、コースにある他のマシン、そしてそのオーナーの鼓動も心の動きも受け取ることが出来る。その意味で他のオーナーは敵でもあるんだけど、仲間……ううんそれ以上だ、みんな一つになることが出来るんだよ! 協調性が無い奴はドラグーンでは大抵ザコさ。誇り高きオーナーは他のオーナーへの敬意を忘れない。お前がどんな奴だろうと受け入れてくれるさ! だから絶望するな!」
「あぁ……イカれてやがる」
天を仰ぐバジル。
「全人類がドラグーンをやれば世界は平和になるってか? 差別がなくなるってか? バカバカしい。なら、ドラグーン大好きのお前はこの俺の顔を見て気持ち悪くないって言えるのか?」
「言えるっ!」
アイリの歯切れのいい断言にバジルは後ろ向きに倒れそうになった。
「お前は確かに他の奴とはちょっと違うかもしれないけど、オレには関係ない。オレがお前を憎んでいるとしたら、それはタルトゥに攻め込んできたから。それだけだ」
バジルは上を向きながらくっくっくとひきつった笑いをもらす。顔を片手で覆って、狂気に駆られた為政者気取りのようだ。
「そんなこと言われて、俺が喜ぶとでも思ったか? そんなこと口先で言われたって、お情けで言われたって、オトコ女のお前なんかに言われたって、俺には何の得もない。じゃぁ俺と付き合うか? 俺とキスするか? 俺とケッコンするってぇのか? 出来ないだろう?」
「出来ないね!」
これまた気持ちのいい断言。バジルはすってんころりん後頭部を打ち付けた。
「なぜならオレはどんな野郎ともそんなことしたいなんて思ったこと無いからな!」
「あー、そう来ますか」
「少なくとも、今のお前じゃ……自分の不幸にばかり目を向けて、希望を探そうとしない、今のお前には、誰だって見向きもしないだろう。オレだってこちらから願い下げだ。だけど……」
アイリは指を立ててバジルを指し示す。
「もしこれから、お前がもしオレが他の奴よりもお前と響き合えると思ったら。お前と共に走ることが特別楽しいと思うことがあったら。オレはお前の恋人になるだろう、お前とキスするだろう、お前と……結婚するだろう」
あまりにもさらりと言われたのでバジルは飲み込むことが出来ない。どうしようもなく恥ずかしくなって、取っ手の緩いコーヒーミルのようにがたがたと震えた。(童貞だから)耐性がまったく無いのだ。
「そ……そそそそそそんなこと言って……! さては、俺に取り入って王を護ろうと必死なのだな……だが! だがしかし!! 残念だったな、そんなおべっか、俺には全く効果が無いぃい!」
「そんなつもりはねぇんだけど……」
アイリは呆れ顔だ。
アイリは良くも悪くも、自分の信条に対してバカ正直なのだ。彼女としては、バジルを動揺させるつもりも、まして篭絡するつもりも全く無い。ただ、彼の見た目だけで判断して、そして彼の将来性を見積もったつもりになって、彼を永久に拒絶する。そういう乱暴な考えは、彼女の中に用意されていない。ただそれだけ。
一方のバジルは、正直も何も、自分の思考回路さえ枝分かれして、どこにどれを繋いでいいかわからない状態だ。考えれば考えるほど、余計な思考の混乱やら妄想やらが喉の奥に堆積して、息が苦しくなって……
「うぎゃぁ」
バジルは思わず奇声を上げた。半分は、こいつどこまでバカなんだという精神の正常な防衛反応。しかし、もう半分は、身体のすこぶる不正常な過剰反応。血流が走り、全身の穴という穴からぶわっと汗が吹き出る。一秒ごとにどんどん血液が濃くなっていくのがわかった。
しかし、バジルは自分の心に言い聞かせる。
(お前はもともと申し分なく醜いんだ……こんな女の口車に乗せられて……これ以上、これ以上醜くなろうってのか! 顔も汚い声も汚い心も汚いお前が……自分の分相応不相応もわからないただのバカに成り下がってしまえば……ただの粗大ゴミ同然じゃないか! 目を覚ませ! 歯を食いしばれ!)
両足で踏ん張って、まるで向かい来る突風に耐えるような姿勢で声を吐き出す。
「誰が……っ。お前みたいな奴と……っ! 忘れるな! 俺は革命主義者だ。封建政治という腐敗しきった王城を破壊し、その上に民主主義という堅牢な要塞を築く、誇り高き共和国のナンバーツーだ。俺にとってお前は最も憎むべき敵の一人なんだっ! 俺が……俺が従うのは……ヴィルフリート・ダンクルベールだけでいいんだ、そうだ……!」
言葉を発するたびに、バジルの身体が軋むように悲鳴を上げる。心臓を取り囲む神経に電流が流されるようにびりびりと痛み、表情が歪む。そんな彼の様子を見てアイリは顔を曇らせる。
「どうしてだ? どうしてそんなに王家を憎む? そのダンクルベールって奴がどんな奴かは知らないが、宣戦布告もなしに攻め込んで、あまつさえ自分たちの正義を押し付ける。そんな奴が国民を幸せにできるとは思えないね」
「黙れ! ヴィルは……あいつのことだけは貶めるんじゃない……!」
ぶんぶんと顔を振る。後ろの看守は目を丸くしっぱなしだ。
「あいつだけだ。俺のことを認めてくれたのは。俺の容姿とは関係無しに、あいつだけは俺を《普通の友達》として扱ってくれた……俺にとって、仲間といえるただひとりの人間、それがヴィルだ。今の俺があるのはすべてあいつのおかげ。裏切れる、訳がないッ……!」
顔を手で覆いながら、苦悶の表情を浮かべる。
「それに……それに……」
息も、切れ切れだ。
「あいつの顔……見たことあるか? さらりと清潔感のある、シルクのような髪……背は少し低めだが、それが逆に謙虚で王子な印象を醸し出す。鼻は一本筋が通っていて、どんな美しい湖もかなわないほどに深いコバルトブルーの眼球は切れ長の目尻に彩られ……誰もが目を見張るほどの美少年だ。いつも、あいつの周りには女が集まっていた。もう、そんじょそこらではお目にかかれないような名花がいつもあいつの周りに咲き誇っていた!」
「いきなり語彙が激増したなオイ……」
「だから俺は……あいつのそばにいるだけで、そのおこぼれにありつけることができたんだ。もちろん触れることは出来ないけれど……だけど、見るだけで俺は満足だった。俺ひとりなら絶対に近づいてこないようなうるわしい奴らがわらわらと……それだけで、生きている心地がするってもんだ。それに……それに俺があいつの隣にいるだけで、女どもの態度が全然違うんだ、普通ならば俺が話しかけてくるだけで鼻をつまんで逃げ出すってのに! 俺はあいつの、モテるやつの友達だからってだけで、一人前に扱われるようになった。まるで俺自身もイケメンになったかのような気分だった……だけど、それは錯覚にすぎない。あいつらの目当ては全部ヴィル……俺と話がしたいなんて物好きはひとりもいない! でも俺は感謝してるよ。つかの間の優越感だけでも、俺にはかけがえのないものだから……」
彼は肩を怒らせる。どんどん、声ががらがらになってくる。
「逆に俺は思い知らされたんだ。俺はいつも、自分の人生の主役になれない。最近こう思うようになった。もしかしたら、あいつが俺と仲良くしていたのは、ただ、自分の引き立て役にしたかったからなんじゃないかって……だから、不安だ。不安で仕方がないんだ。これ以上、俺を不安定にさせるな。優しい言葉をかけるんじゃない……」
自分が泣いていることに気付いてないのか。涙をぬぐうことなど考え付かない風に、ただ地面を直視しながらぼろぼろ落涙している。
バジルはわからなかった。なぜこんなに吐き出してしまうのか。まるで悪いものにでも当たったみたいだ。胸がつかえて、じっとしてられない。
バジルは気力を消費し尽くして、足元がふらついている。とうとうがくりと膝を付いて静止する。その様子を、アイリは笑いも哀れみもせずに、ただじっと見つめていた。
その時、廊下を見やった看守の表情が引きつる。「お?」とアイリが視線を向けた、その先には……
「心外だな、ブリュネル君……他人を添え物にするなんて選民的な思考を僕が持つなんて、ありえるわけないだろう?」
「あ……」
バジルは思わず掠れた声を出した。
「ヴィ、ル……」
戦場での姿からは程遠い、簡素な印象の礼服に身を包んではいるが、まさしく。
共和国軍の最高指導者、ヴィルフリート・ダンクルベールその人。
アイリも思わずふぅん……と唸る。実際に目の当たりにしてみても、バジルの形容がただの被害妄想による誇張ではなかったことがよくわかる。絶世の美形といっても過言は無いだろう。
そしてその隣には、これまた瞬きが止まるほど美しい美人が付き添っていた。
「エミーも……どうして……?」
バジルの言葉には全く反応せずに、彼女は眼光を鋭くするアイリを妖しげな瞳で見つめ返してくる。
目を引くのはその髪。シルクのようなラグジュアリーな光沢を放つ長髪を、両側で結んでいる。あざとさの欠片も感じさせないそのたたずまい。それは、誰もが不可能だと信じてきた、ツインテールと高貴さとの融合を彼女が成し遂げていることをいみじくも示していた。まさに、ヴィルに相応しい、絵になるパートナーだ。
看守がまるでばね仕掛けの人形のように、直線的な動きで敬礼のポーズを取った。バジルは真っ青な顔でヴィルに問いかける。
「お前……退院にはまだ早いんじゃ……」
そう言ってやわらかく微笑む。まるで、笑顔が芳香を放っているかのようだ。
「あぁ、もう大丈夫になった。君が留守番してくれたおかげで安心して養生することができたしね……」
「……というのはもちろん嘘なんだけど!」
そう茶化すように言ったのは、隣で寄り添うエミーだった。まるで赤子のような幼い声色だ。
「本当のところは、バジルみたいな粗忽者に任せるのが不安で不安で、無理矢理にでもここに駆けつけたんだ……というのももちろん嘘なんだけどね。さて、真相は何でしょう?」
「こら、エミー」
ヴィルは苦笑する。しかし、やんわりとしたその口調は、特に彼女のことを強くとがめているわけでもなさそうだ。
バジルは青ざめた顔で自分のつま先のあたりをずっと凝視している。アイリはヴィルを怪訝な表情で見つめながら、バジルの代わりに回答する。
「はじめからケガは大したことがなかった。オレは見てたぞ、フェルセンの弾は外れていた。お前は弾丸を避けた勢いで落馬しただけだった。わざとこいつに権力を握らせて様子を見てたんだ。大方、こいつの忠誠心やら政策能力を量るため。違うか?」
ヴィルはからりとした笑顔を見せつけ、「どうでしょうね?」といった様子。アイリの問いには答えずに軽く一礼する。
「どうも、ご挨拶は初めてですね。元王女様」
「訂正を要求する。『元』じゃない。まだ国はつぶれちゃいない」
「仕方ないですよ。貴方の祖国がお決めになったことですから。貴方はもう、タルトゥの王女ではありません」
「な……なんだって?」
「貴方は死んだことになっているのですよ。こちらの発表を鵜呑みにして」
「な……」
アイリは息を呑む。
「何でだよ。お前らからすればオレを脅迫の道具にする事だって可能だし、その気がなければオレのことすぐに殺すべきだったんじゃないのか? 助けておいて死んだことにする。ワケわかんね!」
問いただすアイリに、とても満足そうな笑みを返すヴィル。
「ワケわかりませんよねぇ……一体どういう意図があったのでしょう? 将軍代理さん?」
「え……いや俺は、ただお前の言うとおり……」
バジルは何度も口を開け閉めするが、乾いているのか声が出ない。
「どーしよーもないよねこの腑抜け」
エミーは吐き捨てるが、ヴィルは表情を崩さないままだ。
「しょうがありませんね。それでは僕が代わりに彼の考えを代弁して差し上げましょう。さて、貴方はロミエとジュリエッテをご存知です? あの物語が真に悲劇的なのは、通常なら矛盾するふたつの悲しみが両立しているからです。深く愛し合っている二人。彼や彼女にとって一番の悲しみは愛する相手を失うこと。通常は、片方が先に死ぬのでこの失意を味わうのは片方だけです。しかしシェークスピウスは偉大ですね。仮死の薬で女が死んだふりをする、そのことがうまく男には伝わらない。女が死んだと思った男は後を追うつもりで死ぬ。それを目覚めた彼女が目にして彼女も自殺する……何たる文筆の才、何たる才気! おそらくバジルは、現実世界でそれを上演したかったのでしょう。王は娘が死んだのを知ってから死ぬ、娘は王の破滅を見届けた後命を絶たれる……あぁ悪趣味だ」
アイリはずっと割れんばかりに歯をがりがり鳴らしながら、ヴィルの顔を凝視している。
「ここまで容姿と心の品格に差がある人間は初めてだ、ヴィルフリート・ダンクルベール……」
「よく言われます、『お前は顔のせいで人生だいぶ損してるな』って。悪人顔なら自分らしく素直に生きられるのに、柄になく英雄や国家元首なんてやる羽目になって。難儀だなぁ……」
ぽりぽりと頭を掻くその姿も何か飄々としていて、あの白馬に乗った凛とした姿からは想像できない。
「でもバジル、僕の目に狂いはなかったよ。君は僕の右腕に相応しい人物だった」
「え?」
バジルは顔を上げる。
「ずっと抗ってくれていただろう? 僕を憎み、嫉妬し、利用されているんじゃないかと疑いながら、それでも僕に付いて来てくれたんだ君は。普通の人間ならば押しつぶされてしまうような疑心暗鬼。それは、やっぱり君が僕のことを心の底で友だと認めてくれているから、僕のことを好きでいてくれたから……なんて言ったら自惚れかい?」
「ヴィル……」
バジルはうまく返せない。なんと彼、素直にも感動しているのだ。ヴィルフリードがカリスマたる理由は容姿だけじゃない。口調、仕草、言葉の内容……すべてが統一されて、あきれるほどの説得力を持つ。普通だと歯の浮くような言葉も彼にかかれば、すっと心の中に浸透してくるように感じるのだ。だからさっきまでアイリに揺さぶられ陥落寸前だったバジルが……
「自惚れなんかじゃない……なんだかんだいって、俺はやっぱりお前がいないと何も出来ない、ただのでぐの棒だ……」
そう甘くつぶやいたからといって彼の優柔不断さだけを責めるのは酷だ。
革命的人物とは、かくも革命的なのだ。彼はすなわち攪拌機だ。どんな奥底に堆積した澱でも、彼の手にかかれば天地逆転。掻き回され舞い上がり、彼の望むままに作り変えられてしまうのだ。
アイリは惚れ惚れとした様子のバジルの顔を見ながらべ、と舌を出す。
「この人たらしが。顔と口先で国民は騙せても、オレはそうはいかないぞ。いくら美麗な塗装を施してもドラグーンの性能が変わらないのと一緒。本質は別のところにあるってのにな」
その言葉を聞いてヴィルは「へぇ……」と顎を触った。
「ドラグーン、か……僕もよく遊んだものです。学校が終わったあとに公園の遊具の上を走らせたりね。今思えば無邪気だったな僕も。あんな王政の象徴に熱を上げていたなんて、あのころは自分たちが哀れな奴隷に成り下がっていることに気付けなかったんだ」
アイリはむっとした表情を浮かべる。
「どういう意味だよ。それ……」
「そのままの意味ですよ。『子供に夢を与える』名目でただうわっつらの理想だけ押し付け、現実の問題から目を背けさせる」
大きく両手を広げる。あぁこれは弁舌態勢に入ったな、とアイリは身構える。
「パッケージにも販促用のストーリーにも、同じような文句が踊っていました。たとえば『絶対にあきらめるな。最後まで走りきれ』とかね。別に努力を否定するつもりはありません。僕たちがここまで成り上がれたのも運やアイデアだけのおかげじゃありませんから。でも、この文句のおかげでどれほどの人間が人生をフイにしたか。封建制度という絶対の障壁が存在していることを棚に上げて無責任な努力→成長→結果の方程式を教え込む。ドラグーンは、王政への不満から目を背けされるための機構だったのです」
「おいおい……」
アイリはお手上げして首を横に振る。
「お前ドタマ大丈夫か? いくらドラグーンの製造を王室が請け負っていたからって、そこまで穿った見方するなんて正気じゃねぇ……」
「気狂い揃いの王族の娘にそんなこと言われる筋合いありません」
ヴィルは平然としている。
「封建制度の長たる王族がすることはすべて巧妙に仕組まれているんです。一握りの《持てるもの》の利益のために、国民の脳みそを残らず染め上げるために機能している……自分の利益のためにならなんでもやる世界一狡猾な集団、それがあの城の中に住まう面々なのです」
「どうしてだよ……どうしてそんなに憎むんだ。どうしてそんなに謗るんだ。俺にはさっぱりわかんねぇ……」
「それだけのことを王政はするからです。どうだい、僕の意見は明快でしょう?」
「あぁ、王族ガヤルコト全部悪イ、ナゼナラ王族ダカラ! バカに単純。ガキの考え方だな。もっと肩の力を抜けよ……」
「僕だって分別は付いていますよ。悪いものはただ王政という慣習、ドラグーンも利用されなければとても素晴らしい娯楽となったことでしょう。だからほら」
ヴィルはかばんの中をあさって、なにやら流線型のケースのようなものを取り出した。
「まだ試作で、もちろん流通もしてないのですが……」
取り出したのは、フォルムがより単純なものになっているが、まさしくドラグーンだった。
「僕も作ってみたのですよ。兵站輸送車開発の副産物に過ぎませんけどね……」
アイリは目を丸くしながらそのフォルムを眺めていた。
「お前……もしかしてツンデレか? ドラグーンは悪とか言って置きながら自分はおんなじ様なものを作ってるなんて……」
「これをドラグーンなんかと一緒にされては困ります。共和国独自に開発され、機構もタルトゥのものとはまったく異にしている。この機構をつかってあの《空飛ぶ船》も開発されました。わが国の遺跡からも出土したのですよ」
「……まさか、」
アイリが答える前に、ヴィルは被せるように言う。
「そう《竜眼石》です。まだ研究は途上ですが、今ではあんな大きな機体も飛ばすことができるようになりました」
アイリはあの黒いエイを思い浮かべた。動物なのか機械なのかわからないあのフォルム。今思い出しただけでも気味が悪い。
「でも、いったいどうやって……? あんなデカブツ、また地上の車でさえ実現できていないのに……?」
「それは企業秘密……と言いたいところですが、なにせ王女様にはご迷惑をおかけしましたので、特別にお話いたしましょうか」
勝者の余裕だろうか。それとも、共和国の技術力の高さを誇示したい一心か。
「あれは滑空しているのではありません。四つ、回転する花弁のようなものが見えましたでしょう? あれは空気を攪拌してアップフォースを自由に作り出せるスグレものです……おや、納得行かない顔ですね?」
「当たり前だ」
アイリは疑問を投げかける。
「通常、《竜眼石》は、せいぜいギアボックスひとつ動かすぐらいの出力しか持っていないはずだ。オマケに、それぞれの石を合成して出力を上げることもできない。そうなると、それぞれの石でギアを回した後、そのパワーをさらに大きなギアで合成することが考えられけど……そうなると、操作のために石ひとつに付きひとり、一緒に船に乗ることになる。遠隔で操作するには限界があるからな。そうなると、いくらプロペラを使っているからって、石の数だけの人数を浮き上がらせるだけの力は出ない。堂々巡りだ」
ヴィルは微笑む。
「その通り、やはり最終的には、『ひとつの竜眼石の出力を上げるにはどうすればいいか』この命題に帰ってきます。そして、僕たちにはそれが可能になった、それだけのこと……」
そう言ってヴィルは、ケースのふたを開け、ぽいとマシンを投げてくる。アイリは片手で受け取ると、しげしげと観察した。
「何だこれ。ボディーの形は違えど、どこからどう見たってドラグーンのシャーシ・ギアボックスのシステムを使いまわしただけじゃないか」
「さて、どうでしょうかね? 論より証拠。どうです元・お姫様。ここでひとつお手合わせ願えますか?」
アイリは一瞬きょとんとした表情を見せた後、「ふぅん……」と好戦的な表情に変わる。
「OK。ちょうどいい。もう走りたくてうずうずしてたんだ。自分のマシンじゃないのはもどかしいが、その新型とやらにも興味がないこたない。勝負だ、ヴィル。コレに勝ったらオレをタルトゥに返せよ。わかったな!」
ヴィルは至上の笑みを浮かべた。
「はてさて……それは、保障しかねますがね?」
病院のある都心から、車で十五分とアクセス良好の場所に、そのコースはあった。ガラス張りで、曲線の多い近未来的な建物。その中に聳え立つのは……
「うわ~っ! すげぇ! モニュメントだよこれ!」
アイリが興奮するのも無理はない。区画いっぱいに三次元的なコースがみっちりと詰まっているのだ。さまざまな角度のカーブ、傾斜が揃っている。路面のタイプもバリエーション豊かだ。浅瀬・干潟などの湿ったものから、砂漠・砂利道などの乾いたものまで何でもござれ。
「ここが共和国の輸送技術の最先端です。さきの戦闘で使われた戦車・物資輸送車もここでテストが行われました」
ヴィルは胸を張る。アイリはまるでジェットコースターのように大きなループを仰ぎ見ながら、好奇心が抑えきれないようにあちこち歩き回っている。
「こんなコース制覇できたらどこにでも行けるな! こりゃぁうちのポンコツ砲車が敵わないわけだ……」
瞳を輝かせながら感心しきりだ。
一方、バジルはおずおずと言った様子で、入り口近くの壁際に陣取っている。やはり、ドラグーンに悪い思い出があるから近づきたくないのだろう。エミーはというと、ゴールの前の時計に座ってふんふ~んと足を揺らしている。
アイリはダッシュしながら一通りコースを眺めて回ると、スタート地点で急ストップ。あれだけ走ったのに、息も乱れていない様子だ。とても病み上がりには思えない。
「あぁ、もう我慢できない! 早く、早く走らせろ! 待ち遠しくてじんましんが出ちゃいそうだ!」
「はいはい……」
ヴィルは苦笑しながらカムを装着し、自分のマシンのスイッチに手を掛けた。アイリも急いでスイッチを探す。タイヤが回転する、氷を削るような音が場を満たしていく。
「あぁ……そうだよ。この音! これが欲しかったんだよ……レースって感じ!」
アイリは自然と、その手に持つドラグーンへと語りかけていた。
「ごめんな、突然だからお前も驚いてるだろう? 慣れないオーナーと一度だけってのは気が進まないかもしれないが、ま、楽しくやろうぜ。オレだってこんなナリしたドラグーンと通うのは初めてだ。ま、互いにお手並み拝見ってことで、よろしく頼むぜ」
ライトがちかちか点滅している。応答のサインではない。ただ規則的に明滅を繰り返すだけ。
「おまえ……?」
アイリは違和感に襲われていた。あまり上手く説明できないが……ひどく冷たい。レースというのはオーナーとマシンが互いに心を煽り立てることによって初めてうまくシンクロできる。しかし、アイリが何度語りかけても、このマシンからは何の感情も伝わってこない。温度が低いとかではない。温度が、ないのだ。まるで意識を失ってしまっているかのように……
「ドラグーン・グリッドオン!」
掛け声とともにマシンがスタートラインに置かれる。
もやもやが消えないまま、アイリもオーナー用のショートカットコースに降り立った。
「何か調子出ないなぁ……まぁいいや、慣れてないのはもともと! 走ることだけが薬だッ! Here we go!」
シグナルが点灯、鮮烈な緑が光った瞬間、マシンがロードに躍り出た。
「ぐあっ!?」
アイリは叫んだ。ドン、と前頭部を殴打されるような感覚。
「は……速いッ? オレのマシン、どこいった!?」
これはカムを付けた人間にしかわからないだろう。自らの想像力がマシンの性能に追いついていないため、まるで《マシンに跳ね飛ばされる》《身体ごとマシンに持っていかれる》ような感覚に陥ることがあるのだ。あまりにマシンに没入している状態なら、ブラックアウト、または幽体離脱のような状態を引き起こしてしまう。今のアイリはまさにその手前だった。ひどい耳鳴り。視界がぼやけ、ほとんど何も見えない。
(このままじゃ何も出来ないまま、壁にぶつかってコースアウトだ……! くそっ!)
アイリは瞳を閉じた。このような状況に陥っては感覚の復帰が難しいことはよく知っている。まだ生きている感覚を頼りにコントロールするほうがよっぽどいい。そして、彼女にはその自信があった。
「うらっ!」
経験、という言葉では軽すぎるだろう。まったくの直感、それが機能してしまう、まぎれもない才能。トップスピードは無論ヴィルより大幅に遅いものの、マシンは一度も壁にもぶつかることなく、最初の難関であるW字カーブをクリアした。
「へぇ……達者なのは口先だけじゃないんだね」
これには先行するヴィルも舌を巻く。
しかし一方で、彼女の違和感は続いていた。背筋はずっと凍りついたまま。ぞわぞわと、脊椎を駆け上るような嫌悪感。
「おい……どこだ? お前は、どこにいる?」
何度も、問いかける。目がだんだん見えるようになってきても、マシンの姿がうっすら確認できるようになっても、まったく現実感がない。まるで、走っているのはマシンではなく、実体のない幽霊であるかのような……
ヴィルとの差は離れるばかりだった。しかしそんなことより、この居心地の悪さのほうが彼女にとっては恐ろしい。マシンの性能ははっきり言ってタルトゥのものとは比べ物にならない。直線でのトップスピードも、カーブでのグリップも。しかし何より反応速度が桁違いだ。これに比べるとタルトゥ製のマシンはみな暴れ馬のよう。人によってはカーブを安全に曲がることだけでも訓練が必要で、玄人になるには走りこみで《飼い慣らす》ことが必要だ。また、それぞれのマシンや竜眼石に細かな性格があり、その把握も求められる。そんな《不確定》で《不安定》なタルトゥのドラグーンに比べると、このマシンはとても《安全》で《確実》であるように思える。
(だけど……)
性能……? それだけではない。彼女は鋭敏に感じ取っていた。これほどまでに思い通りに操作できるにもかかわらず、マシンとの一体感はむしろ皆無になっていた。《マシンとオーナーがかみ合っていない》というレヴェルの話ではない。むしろ、《没入すべきマシンそのものの存在感》が明らかに欠如しているのだ。
(もしかして、あいつ……!)
彼女の疑念は時を経るごとに確信へと変わっていった。彼女の胸の奥からざわざわしたものが湧き上がってきて、息が止まりそうになる。彼女は走るのを止めた。同時に、マシンも数メートルのろのろと慣性で進んだ後ぴたりと動かなくなる。しばらくして、場内にブザーが鳴り響いた。
『ゴール!』
ヴィルは無言でマシンを手に収める。ただ淡々と後ろのボタンに手を掛けスイッチを切った。エミーがニヤついた顔とぱちぱちとやる気の無い拍手で迎える。
「さすがヴィルちん。圧勝だ。話にならないね」
「ふざけるな」
アイリの言葉に、エミーは少したじろいだ。彼女は口を真一文字に結んで、あふれ出る感情に耐えている。
「ふざけるな、ふざけるな……」
何度も繰り返しながら、肩を上下させる。
彼女の両目から、一筋二筋、きらめくものが零れ落ちる。
「やっぱり気付かれちゃった、か」
そう言って薄気味悪い微笑を見せるヴィルの細目を、アイリは射抜くように睨む。
「どうして、こんなことするんだ……このマシンには《心》がない。一番大切なものを抜き取って……ただの抜け殻だけを走らせて、楽しいか?」
「楽しかないさ。これは実験ですから。すべて、軍事利用のためのテストに過ぎない。戦場において、無闇な情など必要ありませんから。何も感じないほうが幸せだってこともあるんです。だから、すべてのドラグーンの精神を一律に初期化することに迷いはありませんでした」
バジルは物問いたげな表情でヴィルを見つめている。一体何の話をしているんだ、と。
そんな彼の当惑をよそにアイリはさらに激昂する。
「黙れ! こんなの、口を塞がれた状態でただ走らされるだけ。こんなマシン……ただの奴隷じゃないか!」
「逆ですね。いままでずっと国民という奴隷を飼ってきた貴方にはわからないんだ。支配される苦しみ、心の痛みを……そこに想いが至らないから、ドラグーンが《友達》だなんてほざくことができる」
「ヴィルフリード……お前なぁ……ッ…………!」
アイリはとてつもなく哀しい気持ちになった。何を言っても、彼は自分のことをタルトゥの王女としてしか見てくれない。自分を包む脱ぐことのできない殻。《王族》《支配者》《封建主義》。それに自分の言葉がぶつかっては、足元にぼろぼろと落ちていく。
アイリは……彼女自身は、王族でも貴族でもない、ただのアイリ・アールストレイムとして生きてきたつもりだった。たとえ周りがどんなに手厚くもてなそうと。アイリは、自分が王族であることで自分を規定されたくなかったのだ。だから彼女はしばしば街に出て庶民と交流し、煩わしい肩書きから逃れようとした……無論、父はいい顔をしなかったけど。
それなのに。結局他人にとって自分は《アイリ》という存在ではない、まったくないのだ。ただの、王族。ただの、王女。ただの、金持ち。ただの、支配者なのだ。それが、どうしようもなくやるせなかった。
「……やっばい、悔しいや」
すべてが、口惜しくてしょうがない。レースに負けたこと。自分の気持ちがどうしても伝わらないこと……。悔しいのは、あきらめきれないから。ヴィルに勝ちたいという気持ちが、ヴィルにありのままの自分を見て欲しいという気持ちが、燻ると言うには熱すぎるほど、心の奥でたぎっているから。
だから、自ずと答えは導かれた。
「わかった。どうしても目を逸らし続けるのなら、見せ付けるだけさ。誰もが生まれたままの姿に、真っ裸にならざるを得ない、コースの上でな……」
「……何だって?」
アイリはびっと人差し指をヴィルの鼻先に突きつける。
「ヴィル……勝負だ。もう一度オレと勝負しろ」
ヴィルは眉をぴくつかせる。バジルは「え……」と言ったきり黙りこんでしまう。エミーはというと、眉をひそめ、普段とは打って変わった強面を彼女に向けている。彼女が何を意図しているのか、純粋に理解できない様子だ。
「レースですか……なかなか楽しい提案ですが、一体何を賭けると言うのです? まさか優勝トロフィーとか言うんじゃありませんよね」
「もちろんだ。勝負たるもの、商品が豪華じゃないと面白くない。賭けるのは、そう……」
アイリは宣戦布告する。
「国だ。国を賭けてレースをしよう。もしお前が勝てば、タルトゥのすべてをやる。でももし俺が勝ったら……占領した地域をすべて返してもらおう」
彼は目を丸くしながら、ゆっくりと顎をさする。
「なるほど。つまりは戦争……ということですね」
「その通り」
バジルは呑み込んだ息も吐けない様子で黙っている。エミーは「な……っ」と、出かけた声をむにゃむにゃ噛み砕いたが、見開かれた瞳が必死に訴えかけている。お前頭イカれたんじゃないのか、と。一方のヴィルはそれほど動揺した様子もない。かといってバカにした様子も微塵も感じられない。
「なかなか奇想天外で面白い。ですが、我々に何のメリットが? いままさにタルトゥ王室が滅ぼうとしているときにわざわざ勝負を振り出しに戻すような真似……」
「嫌ならいいんだ、大統領さん。嫌ならいいんだぜ?」
アイリはにやりと笑う。
「だけど、本当にいいのか? 見栄張ってるけど、実際は思ったよりもうまくいってないんじゃないか? 新兵器だ、共和国の技術の粋だと大口叩いておきながら、もう何日だ。あんな小さい国一つ併呑できない。いくら優勢だとはいえ、内心ではビビってるんじゃないのか?」
「んー……」
ヴィルはぽりぽりとこめかみの辺りを掻く。
「例の《空飛ぶ船》、あれが相当《燃料》、もとい竜眼石を食う代物でしてね。しかもすぐにガタが来るもんだから……」
「そんなことだろと思った。オレはわかってたぜ。だからあれだけの竜眼石を集めてるんだろう? 全く、みてくれだけはインパクトがあるが、文字通り《地に足が付いてない》機械だ。《フワフワ》してるんだよな、お前らは。マシンも、信念も、みんな全部……」
「新しいことを始めようとすれば、最初はみな不安定ですよ。神話を思い出してください、この世界ですら、最初はどろどろした沼のようなものだったじゃないですか。ま、それはともかく、こんな体たらくだから今回は直接首都に乗り込んで、短期決着を狙ってたんですが……結局、王を逃がしたことが大きかったんですよ。地方にはまだまだ王を狂信する譜代領主が点在していますし、はっきり言って王立軍よりもよほど頑強だ。焦燥感はないこともない」
「お、おいヴィル……」
バジルが制止しようとする、その手をヴィルがさらに制した。
「それに、何が一番厄介かって、世論は一般市民への攻撃を望まないんです。《罪なき》市民を巻き添えにしていないか。王政の《犠牲者》たる国民は、新たな政権が二の舞を踊らないか監視している。だけど、上に立ってみるとわかるんですが、これが結構難しいんですよ。針の穴を通すような仕事ですよ。まったく。声高々に訴える奴らに、お前がやれといってみたくもなる。だから……」
苦笑するヴィルフリード。
「そっちのほうが、だいぶん楽なことは否めませんね」
「よし、決まりだな!」
アイリは右の拳をヴィルの前へ突き出す。彼は薄笑いを浮かべたままそれに応じた。ぐい、と突き合わされる拳。
「ただし」
ヴィルは牽制する。
「そちらから提案したのですから、こちらにも何かアドバンテージが必要ですね。でないと不公平だ。こういうのはどうです? コースはこちらで敷設する。そしてレース本番までその内容はそちら側には伝えられない……ダメですか?」
ヴィルの提案に、バジルは思わずおいおい、と声を上げた。
「な、何言ってやがる! そんな要求通るとでも思っているのか!?」
バジルは思った。そんなもの、いくらでも共和国の有利なようにセッティングできる。それぐらい、こいつだってわかるはず……すると、案の定アイリが大声を出した。
「馬鹿野郎!」
「ほら……言わんこっちゃない!」
「ダメなわけないだろう! なんてったってオレが相手だ、それぐらいのハンデは必要に決まってるだろ! じゃないと面白くならないじゃないか!」
バジルは横向きにズッコける。
(こ、こいつ……馬鹿か?)
「さっきボロ負けしたばかりなのに何言ってんの……」
エミーがカリカリした声で呟くが、アイリには聞こえていないようだ。……無視しただけかもしれないが。
「その代わり場所はこっちが決めさせてもらうぞ。王宮だ。アウグスタリアの王城。毎年全国大会が行われるオーナーたちにとっての聖地。日付は今年の全国大会の予定日だった八月二十日、これでどうだ? なかなかいい演出だろ?」
「なるほど。同意します。それぐらいは認めてやらないと」
「互いの信念をかけた戦いだ。お前もオレも、守りたいものは同じ。国だ、国民だ。ただ、考え方が違うだけ。どっちが正しいのか、コースの上で証明してやる」
「ふふ、楽しみにしてますよ。ひとつの王政の断末魔がいったいどのような声色をしているか……早く聞きたいものです。待ちきれませんね」
「おいおい……」
バジルがありえない、という風に声を出す。エミーがギリギリと歯で歯を噛む音が大きくなる。そのどちらも二人には聞こえないようだ。瞬きもせず視線をぶつけ合う二人。
この瞬間に。前代未聞、国一つを景品にしたレースの開催が決定した。
アイリは兵に付き添われ、建物の出口へと向かっていた、その途中。
廊下の先に、バジルは待ち構えていた。
息は切れ切れだ。おそらく、全力で走ってここへと向かっていたのだろう。シミの目立つ荒れた肌が上気している。
「待て……っ」
アイリの傍らの兵が口を開きかけたが、バジルが眼光鋭く彼を睨んだので閉口する。バジルはそのまま首を振って「出て行け」の合図。二人いた衛兵は小さく敬礼すると、そそくさとその場を離れた。アイリは少し不審そうな表情。
「……何だ?」
「どうして……っ」
バジルは言いよどみながらも問いかける。
「どうしてお前は、あんなマシンごときにこだわるんだ? ただの機械じゃないか? どうしてそんなに……想うことが出来る?」
バジルは我慢が出来なかった。知りたくてたまらなくなった。彼女の走る姿。コース上の一瞬一瞬に心を賭ける姿。そして、マシンを慈しみ、まるでひとつの人間であるかのように接する姿。
バカらしいと思いながらもなぜか目が離せない。そんな自分に、バジルは腹が立って仕方なかった。この胸の中の靄を取り払いたかった。彼の足は、自然にアイリの元へと向かっていた。
アイリはすこし意外そうな顔をしたが、彼をバカにする様子はみじんも無かった。
「オレだって、マシンに心があるかどうかなんて、確信を持っているわけじゃない。でも……」
すっと胸に手を当てて、バジルに瞳をあわせる。
「オレが問いかけたとき、マシンは必ず返してくれる。これだけは譲れない事実だ。オレがお前の目を見るとき俺が写っているように、お前がオレの目を見たときお前が写っているように……マシンと共にいるとき、オレはそいつのこと、まるで他人とは思えないんだ。他のオーナーと競っているときもそう。例え敵であっても、マシン自体の特性だけじゃなくて、オーナーの心もその走りに見えるときがある。それはたぶん、マシンの心が、オーナーの気持ちを受け取って返してくれてるんじゃないかなって、そう思うんだ」
バジルは、凛としたアイリの瞳に写る己の姿を見つめた。口をだらりと開け、ひどく滑稽な顔をしている。
「この直感が正解なのか、それともオレ自身の心が見せる錯覚なのかはわからない。だけど、この《反映》だけは、誰にも失わせたくないんだ。今日のあのマシンは、問いかけても全く何も帰ってこない、空っぽのマシン……そんなマシンばかり世に溢れれば、国の子供たちは……大切なものを失ってしまう、そんな気がするから。お前から見たら、バカみたいに思う話かもしれないけどな」
「――」
バジルは首を振った。振って後で、自分が何を否定したのか疑問に思う。疑問に思った後で、自分の本当の気持ちに気付く。気付いた後で、さらに身体が奥から、かぁああっと熱くなった。
だけど、バジルはもう逃げたくなかった。
「そんなことは、ない。お前の思ってること、感じてること、俺は今……何故かわからないけど、信じたくなってる。そういう自分が……己の醜さを省みずに、柄になくロマンチストになり果てた自分が……俺の一番大嫌いな自分が……目の前に居座ってる! だから……!」
バジルは反射的に、アイリの肩を両手でわしづかみにする。
「お前はここにいるんだ、アイリ……!」
声を張り上げ、嘆願するように、バジルは思いをぶつけた。
彼は理解した。彼女が見ている世界は、他の誰のものとも異なっている。そして、彼女の瞳に写るバジル自身も、他の誰のものとも違うということを。彼がおぼれていた悪魔のような自分――醜い自分、自堕落な自分、吐き気がするような自分――それは、もともとは他者の目に映るものだった。両親の瞳、いじめっ子の瞳、大衆の瞳……いつのまにか、そんな他者の瞳に写る自分が、自分そのものだと考えるようになった。
だけど、彼女は違った。
ドラグーンのボディーではなく、その中にある竜眼石を感じるように、彼女の視線はバジルの外側ではなくもっと深く、心の奥底までもぐりこんできた。彼女が差し伸べた手に心臓がわしづかみにされた気がして、ひどく居心地が悪かった。だから、彼女に対してひどくわめき散らかさなければ気が済まなかったのだ。
だけど、同じくらい、バジルは心地よかったのだ。彼女が反射してくる自分の姿は、すべて知ったと思い込んでいた自分自身の像とは全く違っていた。だけど……そんな自分のほうが、バジルは本当の自分だと感じられた。しっくりきた。好きになれると感じた。
自分に対して目を逸らさずに、その奥にあるものまで真摯に見ようとしてくれた女の子は、彼女が初めてだと感じた。だから……
「俺と……一緒にいてくれ。このままナルヴァで、俺たちと一緒に国を作ろう……!」
バジルはそういいながら、何度も目を逸らしかける。彼女が目の前にいるのが、今はまぶしすぎる。けれど、目を逸らしたら終わりだと思った。今逃げたら、もう口が動かないと思った。だからバジルは、気力を振り絞って羞恥に耐える。一方のアイリは押し黙ったまま、逃げようともしない。じっとしてバジルから焦点を外さない。それが、バジルの心の救いだ。
「和睦しよう。俺が話を付けてくる。ナルヴァとタルトゥは一緒になろう。王族に危害は加えない。国民も護る。王政の骨格を維持する。国体は残したまま、タルトゥは保護国となる。それが、ナルヴァにとってもタルトゥにとっても一番いいことじゃないのか?」
言い終わった後、バジルはやっと彼女から顔を逸らした。息が荒れる。ずっと空気を吸わずに、立て板に水でしゃべっていたらしい。しかし、息を整える暇もなく、
「悪いけど、そいつには乗れない」
アイリは答えを出していた。
「宣戦布告もなしに攻め込まれ、オマケにお前たちの偏った考えを散々押し付けられて……その上でそんなことを言われても、オレは首を振るわけには行かない。オレには国民を護る義務がある。そんな迂闊なことはできないさ……それに、仮にそれが本当でも、オレたちには何のメリットも無い」
「な、無いって……」
「無いさ。オレたちから勝負を仕掛けた以上な」
アイリはバジルの胸に拳を突き出す。
「対決を決めた以上、オレは負けることなんてみじんも考えない。勝つと決まった勝負が目の前にあるのに、それを不戦敗にする馬鹿はどこにいる?」
「バ……」
バジルは頭を振り乱した。
「バカはお前だ! 俺たちがどれだけ有利かわかってるのか? 桁違いのマシン、有利なコースセッティング。どう考えたって不利、あからさまに不利……っ!」
「バジル」
アイリは首を振った。
「どんなに不利でも、勝たなきゃならないときはある」
バジルは言葉を失った。
自分は今まで、どれだけ勝負を避けてきたのだろう。やる前にあきらめて、不戦敗を選んできたのだろう。ひたすら強い者の下につき、寄生するようにして、階段を昇っていった日々……そんな生活の惨めさは、もうこりごりなのに……
《ならば》。バジルは目を見開いた。ならば、今日こそ。
「話は終わりか? じゃぁ、また」
アイリが彼の横をすり抜けて去ろうとする、その手を、
「待て……!」
バジルは後ろから掴み直した。強引に腕を捻り、彼女が「……ッ」とうなるのもかまわず、壁際に押しやる。
「行くな……ここに残れ……! 俺のそばにいろ……!」
涙目になり、さらにみっともない顔になっていることに彼は気付かない。
「嫌だって言うなら、帰るって言うなら……」
両手首を握りしめ、覆いかぶさるような格好。
「俺は……ここで……お前を……」
バジルは最後まで言い切ることが出来ない。下まぶたから、まるで大滝のように涙が流れ出す。アイリを握るその手は、痙攣するようにがくがく震えている。
その様子を見て、アイリは恐怖するのでもなく、嫌悪するのでもない。
「嘘吐け。お前はそんなことできる奴じゃない」
だた、やわらかく苦笑した。
「う……嘘じゃない、俺は、俺は……こんなことぐらい……」
「こんなこと、じゃない。いくらオレががさつだからって、一応は女の子だ。そいつに乱暴しようとしてるんだ。『こんなこと』は無いだろ」
「出来る……俺は出来る! 俺は悪い奴だからな、自分の欲望さえコントロールできない、汚らわしくて、醜くて、卑しい……低劣・卑劣にして最低のゲスゲローヤローだからな……! こんなこと、わけもない……」
「そうか、お前は汚らわしくて醜くて卑しくて低劣で陋劣で最低の下衆下郎野郎だったのか。それは困ったな……」
アイリは斜めを向いて、うーんと考える仕草をする。
「よし、信じよう。ということは、オレは今からお前に抱かれるんだな」
「だ……っ」
「なら、抱かれる前に、ひとつお前に聞いておきたい事がある」
「な、なんだよ……」
アイリは間髪いれず言う。
「お前は、オレのことが好きなのか?」
「…………!」
バジルは口をぱくぱくさせた。なぜだろう。これだけのことをしているのに。今から抱きしめようとさえしているのに。こんな基本的な質問に答えるだけのことが、ひどく難しい。
「お、俺は……」
何度もヒーヒー音の出る息を繰り返しながら、バジルは思考をまとめようとする。しかし、いつまでも子供が書いた絵みたいに、ぐるぐる線が回っているだけでとりとめがない。
「あぁ……っ」
苦悶のうなり声を上げる。彼女を横目でもう一度みやる。心なしか、少し恥ずかしそうに、顔を赤らめているように見える。それが、彼の思考構築能力をさらに破壊する。バジルはもはや腹を決めた。こんがらがった想いのカタマリごと、彼女にぶつけようとする。
「……す、好きだ……ッ! お前の全部ぜんぶ! 今まで生きてきたなかで、一番大好……きうがぁあああああっ!?」
バジルはもんどりうって床に倒れ込んだ。
注意が散漫になった隙を狙い、アイリの膝蹴りが彼の股間をダイレクトに捉えていた。
「ありがとさん♪」
彼女は握られていた手首をぶんぶんと振り回しながら、満面の笑顔だ。
「お気持ちは嬉しいけど、抱かれてやるわけには行かないな。お前にはやっぱりムリだったみたいだし」
「そ……んなこと……俺は本当に……うぅ……」
痛恨の極みのなかでも必死に声を出すバジルを見下ろしながら、アイリは言い放つ。
「ムリだよ。だってお前、全然だったじゃないか。このフニャチン」
「ふ、フニャ……」
股間を押さえたままうなだれるバジル。
「心だけはいっちょまえにガチガチだったんだけどな。ま、お前はやっぱり、優しい奴だったってことだ。汚らわしくて醜い、なんちゃらの下郎野郎じゃなくてさ。こんなシチュエーションじゃこーふんできないお人よしだったってことだ」
そう言ってにやりとするアイリの顔を、バジルはもちろん直視できない。
「お……お人よしは、お前だろ……」
痛みがこみ上げる。下半身からだけではなく、もっとど真ん中、胸の奥が沁みるように痛い。ここまで来ても、彼女はバジルのことを信じようとしてくれている。為政者にあるまじき迂闊さ。だが、そんな危うさを、彼女自身は理解した上で引き受けているように、バジルには思えた。おそらく、それが彼女のスタイルなのだ。すべての悪から、欲望から、彼女は逃げるのでもなく、がむしゃらに打ち負かすのでもなく、真正面から受け止めようとする。そんな彼女の生き方は、昨日までのバジルなら偽善的だと吐いて棄てるようなものだっただろう。しかし、今は。目の前に立つ彼女の姿が、ただひたすらまぶしい。そんな彼女は、
「ごめんな」
あろうことか、バジルに謝るのだ。
「強く蹴りすぎちった。あんなこと言われたの初めてだったから、ちょっとキョドっちゃったよ。ビックリさせんな」
「いや、俺は……」
それだけのことをしたんだ、という前に、アイリは続ける。
「城の奴ら以外で、オレのこと女扱いしてくれる奴が出てくるなんてな。慣れないことされて、正直オレもやり方がわからない。だから、ちょっとしばらくは保留にしておいてくれないか」
「え?」
「返事」
バジルは意味がわからなかった。何を言っているのだろう、この人は。
「どうして……」
「大体お前は、自分を追い込みすぎなんだよ。自分を悪く悪く考えて、追い込んで追い込んで。結局、誰にも好かれない自分は、獲物を無理やり手に入れるしか方法が無い、なんて。もっと正直に告白してくれたら、減点はなかったのに。現行マイナス四十点、惜しいことしたな」
「……っ」
アイリは廊下の向こうに去りかける。それを見てバジルは唇を噛んだ。痛みをこらえながら起き上がり、彼女を呼び止める。
「その減点は……どうやったら取り返せる? 俺は……何をすればいい? 何を……お前に与えればいい?」
ゆっくりと、しっかりと立ち上がり、アイリを見る。眩むようなまぶしさに、目を細めながら。
「国も財宝も土地もいらない……オレがこの手で取り戻す。贈り物で買われる女なんか、失望するだろう? オレはドラグーンにしか興味のない、つまんねぇ女だから。残念だったな」
バジルはギリッと歯を鳴らす。
「……俺はァ!」
そして、喉を搾りながら声を宣言する。
「俺は、次のレースに出場する! そして、お前に……勝つ!」
ドラグーンを破壊されたあの日から、彼はマシンを持ったことすらない。しかしバジルは宣言せずにはいられなかった。
「死ぬほど気合入れて、死ぬほど練習して、実力でお前を打ち負かしてみせる! マシンを通して人の心は通じるってンだろ? なら、俺の気持ちはコース上で見せてやる! 覚悟しろ!」
アイリはしばらく棒立ちになっていたが、こらえきれずにふ、と一音、笑みをこぼした。ゆっくりと振り返る。
「いいだろう」
その表情に、バジルはうろたえる。
夕日が差し込み陰のできた、その貌はまさに鬼。
勝負の、鬼。
「そうこなくっちゃ……そうこなくっちゃな! 面白くなってきた! もしお前の言うとおり、お前が俺に勝つようなことがあれば……」
Vサインをバジルに突き出す。
「プラス百四十点。あわせて満点だ」
そう言って歯を見せる彼女は。期待と、緊張と、焦燥と、乾きがごちゃまぜになった、
最高の笑顔だった。
バジルは両肩を抱くようにして寒気に耐える。怖気というより、今まさに世界が変わる瞬間に立ち会ったかのような、最高の鳥肌……!
「く……ははは……はははははははは!」
バジルの哄笑がこだまする廊下を、アイリは歩き去った。