父の願い
アップルの目の前に佇んでいるふたりの男女。
ひとりは、彼が恋慕っている剛力徹。
そしてもうひとりは、その彼女のハニー=弥生=アーナツメルツ。
剛力は平静を装いながら、なるべくいつもの口調を心がけ、彼に言った。
「以前お前の母親のアップルパイを食べたいと言った事があったな。あの時の約束通り、幼馴染の友達と一緒に来てやったぜ」
「友達? 私はかの――むぐっ」
彼はハニーの口を押え、彼女を睨みつける。
普段は間違ってもこんな事をしないと知っている彼女は、すぐに事情を察し、この場は彼に合わせるべく、剛力の掌を口から放し、にこやかな微笑みで手を差し伸べる。
「こんにちは。あなたが剛力くんの仲良しの後輩のアップルくんね。私はハニー=弥生=アーナツメルツ。よろしくね」
「こちらこそよろしくね。アーナツメルツさん」
「気軽に弥生って呼んでいいよ」
「本当に、いいの?」
「いいよ、気にしないで。もし私にできる事があったら、なんでも言ってね」
「ありがとう、弥生」
「どういたしまして」
ここでようやくアップルは彼女の手を握り返した。
そしてふたりを窓側の景色がよく見える席に案内すると、店の外に出て客寄せを再開した。ハニーと剛力は互いに色々訊ねたかったものの、取りあえずここは甘いケーキで空腹を満たす事にした。
アップルは、店の前で複雑な心境で客寄せをしていた。
なぜならば、彼はハニーが剛力の彼女である事に確信を持ったからだ。
ひとつ目は、ハニーが自己紹介をするときに、剛力に止められた事。
ふたつ目は、彼女が彼とアイコンタクトをしていた事だ。
彼は以前、剛力の所属する三年三組を訪れた際、同じようなやりとりを見た。
そしてそれは、彼が何か言いたくない事を相手に悟られないようにする仕草なのは、勘のいい彼には気づかれていたのだ。
勿論、剛力は彼に悪気があってこのような真似をしたのではない。
あくまでアップルの好意に気づいた上で彼に自分達が恋人だとばれないように振る舞う事で、彼の繊細な心を悲しみに暮れさせたくはなかっただけなのである。
「剛力、ありがとう……」
カの鳴くような小さな声で、呟き、涙を流した。
それは哀しみではなく、そこまでしてまで、彼の恋愛に希望の光を残そうとした剛力の優しさに対する感謝の涙であった。
「君、どうして泣いているの?」
声がしたので顔を上げると、そこにはこげ茶の探偵帽子にインバネスコートを羽織り、白手袋をした探偵風の子どもがいた。淡い金髪を腰まで伸ばしているところから察するに、女の子だろうと彼は思った。
「僕、泣いていたんだね……」
「うん。とても悲しそうに泣いていたよ。もし間違っていたら謝るけど、もしかして君、失恋したの?」
アップルは無言でコクリと頷く。
子どもは何を思ったのか、優しく彼を抱きしめ、穏やかな口調で言った。
「そっか……それはとても辛かったね。失恋は誰だって悲しいよね。それは、僕も失恋した事があるから分かるよ。それも――男の子にね」
「えっ?」
彼はその言葉にフッと顔を上げ、探偵服の子供の顔を見た。
子供の顔は、思わずため息が出そうになるほど美しい顔をしていた。
「自己紹介が遅れてごめんね。僕はヨハネス=シュークリーム。
もし、僕でよかったら、話を聞いてあげるよ」
そのセリフは先ほどハニーにも言われた。けれど、ハニーは彼の悲しみの根源であるため内心困惑気味であったが、目の前の子どもは初対面で、学園でも見かけた事がない人物である。したがって、気軽に悩みを打ち明ける事ができると判断した彼は、その申し出に甘える事にした。けれど、ここで解決しなければならない問題がひとつある。それは、客寄せだ。アップルの店は休日が客の出入りが激しいため、どうしても店を手伝わなければならない。
それ故に、遠出をする事ができないのだ。
彼に相談を聞いて欲しいけれどできない悲しみに、また彼の瞳に涙が浮かんできた。と、その時、父親が店から出てきて、彼に言った。
「アップル、今日はこれぐらいにして、遊んできてもいいよ。友達が来たんだろう?」
「お父さん、本当にお店、手伝わなくてもいいの?」
「お店は大丈夫だから、お前は何も気にする事なく遊んで来なさい。お父さんからのお願いだよ」
「ありがとう、お父さん」
「いい子だ、アップル」
彼は息子から店の服を預かり、店に入っていった。
父親の助け舟のおかげで、気兼ねなくヨハネスに相談できるようになった彼は、心の中で父親に「ありがとう」と告げるのだった。