悲しい現実
「……お嬢さん、あの店に入るのですか?」
剛力は言葉を選びながら、彼女に訊ねる。
するとハニーは満面の笑みで頷き、
「そうだよ。私、なんとなくわかるんだ。あの店に行くと素敵な出会いが待っているって。だから、入ってみたいの」
大切な彼女の顔を涙に濡らせるわけにはいかない。
けれども、その店はよりによって後輩であるアップルの家なのだ。
剛力は、以前のやりとりで、少なからず彼が自分に対し性別という壁をを超えた恋心を抱いている事に気づいていた。しかしながら、彼とはあれ以来学年が別と言う事もあり、話す機会に恵まれなかったため、その思いを確認するまでに至らなかったのである。
だがもしも本当にアップルが剛力に惚れていた場合、双方にとって最悪のシナリオが待ち受けているのは、日を見るより明らかだった。なぜなら剛力とハニーは、曲がりなりにもデート中なのだから。
彼はアップルの繊細で純真な心と彼女の気持ちを量りにかけ、思案した。剛力にとってひとりは同じ学園に通う後輩にして皆のアイドル、ひとりは大切な彼女であるため、どちらを悲しませる訳にはいかなかった。そこで彼はイチかバチかの賭けに出る事にした。
もしも失敗すれば、確実にアップルは枕を涙で濡らすだろう。
けれども今は、彼が恋愛感情を持っていない可能性に賭けるしかなかったのである。
剛力とハニーの存在に気付いたアップルは、胸を強く締め付けられるような苦しみを覚えた。
『あの女の子は、剛力の彼女なのかな……』
ふたりが仲良く会話をしながら、自分の元に近づいてくる。
その光景を、彼は錯覚だと信じようとした。
けれども、それは事実であり、目を逸らしたくても逸らす事のできない、辛すぎる現実であった。彼は、剛力の性格なら女子に好意を抱かれてもおかしくはないとある程度の覚悟はしていた。だが、面と向かってそれを突きつけられると、いかに聡明である彼でも深い哀しみを覚えずにはいられなかった。
けれど彼は溢れ出る涙を手の甲で拭い失恋を受け止め、恐らく客として入るであろう彼らに自分が今できる精一杯のおもてなしをしてあげようと決心した。
それは、並の人間にできる行為ではない。
普通の少年ならば、自分が好意を抱いている人は知らない人間と一緒に仲良く歩いていると、嫉妬の感情をたぎらせるものである。
しかし彼は、まじまじと辛い現実を間近で見せつけられても決して妬みを抱かず、それどころか愛する剛力にとって一番喜ぶ事は何かを考え、身を引いただけでなく、ふたりを歓迎してあげようというのである。
それは、自分の気持ちを犠牲にしてまで愛する人に幸せになってほしいという自己犠牲の精神そのものであった。