08話 23歳 盲目の剣士(男)
元同級生に手を引かれながら慣れない道を歩く。
家から通っている道場までならば多少は歩き慣れているが、今日は電車に乗って繁華街まで出てきている。
家に引きこもっていた頃から考えれば、かなりの成長だと同級生は喜んでいた。
通っている剣術の道場の先生から、家に転がっていたという白杖を貰ってしまったので、その白杖を使って歩く訓練も兼ねているのであるが、杖の感覚を頼りに知らぬ道を歩くのは恐怖感が強く歩みが遅くなる。
朝早くに家を出たというのに今はもう顔に刺さる陽の角度が傾いているのが分かった。
当初の目的は既に達しているので家に帰るだけなのだが、如何せん人が多くてなかなか駅まで進むことが出来ない。
了承を得ているとは言え同級生に長い時間をつき合わせてしまって申し訳ない気持ちになってしまう。
何度目かの同級生の袖を引く動作と「待って」という声に足を止めると、目の前に人が立ち止まる気配がした。
たまたま立ち止まったのではなく、明確な意思を持って立っているのだと分かった。
息遣い、顔がこちらを向いている。背の高い、恐らく男。顔のあたりを見られている、と確かに感じる。
誰か、知り合いがこちらに気付いたのか、と思った。高校を中退同然で卒業してから5年、顔立ちも大分変わっているはずだが面影で誰だか分かったのかもしれない。
「おっ久しぶりじゃね?」
「あんた……」
どうやら同級生とも顔見知りのようだ。となると高校時代のクラスメイトだろうか。
電車に乗って遠出をしたとはいえ、大人の行動範囲で考えれば近場には違いない。ばったりと出会うことは十二分にあり得る。
「えっと……」
「可愛いじゃん、その子誰よ」
「は?」
沈黙が続くので口を開いた同級生が、それを遮るように男の声が返ってきた。
同級生と繋いでいる手を断つように熱を持った手が勢いよく己の手を取る。
同級生とは違う、硬くてゴツゴツした大人の男の手だ。
「止めなさいよ!」
幼馴染の手が間から入り男の手を解く。そのまま身体を滑り込ませて、同級生が己の前に立ち塞がっているのだと分かった。
「ンだよ、別にいいだろ。おい、こいつ放っておいて俺と遊ばね」
「ちょっと、止めなさいっていってるでしょう!」
「ウルセェ」
バチン、と肉を叩く音がした。
「いっ……」
「黙れよ」
同級生に手を上げたらしい。
「目みえねぇんだろ、楽しいこと教えてやるよ」
周囲から下卑た笑い声が聞こえた。気配を探れば、周囲からもこちらを見る視線を感じる。
どうやら囲まれてしまっているらしい。
「コイツラ連れてくぞ、車まわして来い」
同級生が声を押し殺して泣いているのが聞こえた。
スッと血が下がり、ぐちゃぐちゃに混乱してた頭が冷えるのを自覚する。
「嫌がってるよ」
気づけば白杖を握り絞め、思い切り逆袈裟に振り抜いていた。
杖の先端が肉に当たる感触と同時にぐぅ、と男の呻く声が聞こえる。
「テメェッ!」
怒気を孕んだ声は、しかし何の威嚇にもならない。
振り上げたままの杖を上段に構え、男と相対する。
正面から強い視線を感じるのは、恐らく男の物だろう。
周囲から向けられる視線は男の仲間のもの、自分の直ぐ横からは同級生の視線を感じる。
不思議なもので自分が見えていなくても、自分が見られているというのは何となく分かるらしい。
これを「気配」と呼ぶのかは分からないが、過去に漫画で読んだものと近いように感じる。
周囲からの視線は敵意を持ったものが3つ、正面から特に強いものが1つ。
いつ飛びかかってくるかまでは分からない、同級生の身は何が何でも守らなければいけないが、だからと言って正面にいる男を見過ごすこともできそうにない。
師匠からは平常心を保つようにと耳にタコが出来る程に言われていたが、ここで感情を抑えきれるほど人間はできていない。
鍛錬が未熟な証拠だ。
一歩、足を踏み出して男に詰め寄る。
肩を前に出して身体を反転、同級生の身体を押し抱えて持ち上げると、身体を一気に引き離して男から距離を取った。
「え、あっ。抱っこ……」
「ごめん、ここで見てて」
同級生の身体を離して、再度男に向き直る。
手に持った白杖を頭上へと持ち上げ、水平よりもやや傾いた位置へ固定する。
感じた視線が正しいものであるならば、この杖の角度であれば杖が視線に対して一直線となり自分の拳に隠れて見えなくなるはずだ。
「な」
何を言おうとしたのかは分からないが、男の開口に合わせて肩口へと目がけて杖を叩きつける。
スパシッと綺麗に抜けた音が聞こえた直後、杖を握る掌にビリビリと肉を叩いた感触が響いた。
会心の一撃だった。
稽古であれば「それまで」と終わりの声が聞こえたはずだ。
あるいはMAのような殺し合いであれば、男は事切れている一撃であった。
だがしかし、これは稽古でもなければ真剣を用いた勝負でも無かった。
杖で叩いた程度で相手は死なず、そこで終了にもならない。
「げざってんじゃめええっ!」
その勢いに思わず怯む。
最早、何を言っているのか分からないが、その凄まじい怒号と共に男の視線が分からなくなる。
同時に鳩尾に衝撃を感じたかと思うと、背中から思い切り地面に叩きつけられた。
ぐわん、と頭が揺れる。
恐らく体当たりを腹に受けてそのまま身体ごと弾き飛ばされたのだろうと理解は出来た。
かろうじて手に持った杖は離さなかったようであるが、しかし指に力が入らない。
集中力も失っているのか周囲から感じていた視線も最早感じない、ただ正面からのおぞましい程の怒気が押し寄せてくるのは分かった。
上体を起こし膝を曲げながら立ち上がろうと膝を突いたところで、体が固まる。
目の前の男に恐怖しているのか、そんなつもりはないというのに筋肉が硬直し言うことを聞かない。
体は熱を発し、物を見ることの無い眼球の裏側を血流が巡る。
奥歯がガチガチと鳴りそうになるのを必死で噛み締める。
これまでか。
怒りに任せて行動した結果を後悔はしないが、今から同級生が逃げられるだけの時間を稼げるだろうか。
同級生に向けて、今からでもせめて逃げるように声をかけようとした瞬間だった。
今まで傾きながらも差し込んでいた陽の光が、ふっと消え失せたのだと分かった。
日没の時間だ。
いま、この瞬間に太陽が沈むのだと理解した。
まるで己自身の熱が失せたかのように、妙にはっきりと。
《朝が訪れる瞬間を見たことはあるか》
師匠の言葉が脳内に蘇る。
《人は朝の訪れを認識できない》
そうなのだ。
日の入りも日没も一瞬のことだ。
決して人に知覚できる速度ではない。
急速に言葉の意味が体に染み渡る。
ならば「それ」はそういうものなのだ。
最初から存在しない、始まりと終わりのみが存在する。
夜明け前と日の出の間には、何もない。
ガチガチに硬直した体が、部分的に油をさしたように動き始める。
片膝をついた体制から杖を腰だめに構えた。
左手で杖を緩く握り、己が鞘とする。
未だ仕掛けようとする気配に、目の前の男が身構えるのが分かった。
右手をそろりと動かし杖を抜き始める。
腰を引き、足幅を広げる。
しかし、まだ抜き切らない。
体を開き、右腕は既に振り払った後であるかのように動いている。
だが、まだ杖は振られていない。
体は動き切り、斬撃が飛ばなければおかしい段階にまで到達した。
事ここに至り、ふっと腰から杖が消える。
「……っ」
息すら飲めぬ刹那。そうであることが自然の摂理であるように、杖の先端は男の口内へと吸い込まれる。
僅かに開いた上下の顎の隙間を通り抜け、喉の奥へと先端を突き付ける。
斬撃の存在しない、ただ抜き放った結果のみが存在する致命の剣。
《つまり鶏鳴はそういう剣じゃ》
斬撃の前段階を可能な限り遅らせ、抜刀の勢いを可能以上に蓄えれば、その一撃は全ての力を集約した不可視の光線となる。
それは剣を抜く前には、もう既に斬り終わっているという秘剣。
《鶏鳴によって朝を知る》
「ふぁ」
男の開いた口の隙間から間抜けな声が聞こえた。
このまま終わらせるのは簡単だ。杖を喉の奥へと押しこめば良い。
それだけで絶命させることは出来ずとも、暫くの行動を奪う事は出来るだろう。
止めを刺すべきか。
「そこまで」
葛藤しそうになるよりも前に、背後から馴染みのある声が聞こえた。
「師匠……?」
果たしていつからいたのか。漫画のように気配を消していたのか。まるで気付かなかった。
師匠の声はしても視線はぼんやりとしていて、場所がつかみづらい。
同級生の視線を探すと、師匠の声のする近くからそれを感じる。
「警察を呼んだ、直にくる」
その言葉に男の口から杖を抜いて地面へと降ろした。
「て、てめぇぅぎゃぼぉ」
解放された男が激高したような声を出しかけたが、すぐに地面に叩きつけられる音と悲鳴に変わった。
「動物でも痛い目を見れば分かるが、お前は畜生以下か?」
背後にあったはずの師匠の気配が、刹那のうちに正面へと移動している。
声からするに、今の一瞬で投げ飛ばしたらしい。
周囲にいた取り巻き達も、動けないのか微動だにしないまま固まっているのが分かった。
◆
29歳 警察官(男)
署長の古い知り合いの孫だという女性を紹介されたのは1年ほど前だ。
柔剣道は警察官の必須であるとして稽古の日が定められているが、その教師役としてやってきたのが先生だった。
凛とした雰囲気をもつ女性でそれなりに経験のありそうな姿ではあったが、特別体が大きいわけでもなく男と組み合ったりすれば簡単に潰れてしまいそうに見える。
他の同僚たちも署長に紹介された以上は面目を保つために教わるだろうが、どこか軽んじているような雰囲気があった。
何よりも自分たちより若く、美人だった。
「いきなりやってきた部外者に教わるのも気分が悪いだろうから、今日は試合でもしようか」
先生は涼し気に言うと、道場の真ん中に移動して「誰かきなさい」と言った。
柔よく剛を制すとは柔道の本質であるが、そもそもの体格差や筋肉の量を覆すのは理想論でしかない。
そんなものを実現できるのであれば、オリンピックは階級分けをしていない。
そう思っていた。
「不甲斐ないな」
無残にも全員揃って10回ずつ投げられ、翌日は仕事にならない程に痛めつけられた。
完膚なきまでに負けた。
勝ちの目など微塵も存在しなかった。
いつどうやって自分が投げられたのか分からないまま畳の上に転がされ、そんなはずがないと再度挑む程に段々と痛くなるように手加減され、先生が息も乱さぬうちに全員が起き上がれなくなった。
後に残ったのは遺恨でも敗北感でもない。
ただ憧憬がそこにあった。
達人とは、「何かに達した人」であるという意味だと悟った。
翌週には剣道の稽古で再び相見え「こちらの方が得意だ」という先生にぶちのめされた。
その先生から警察署に電話があり、街中に暴漢がいるから来てほしいとの内容だった。
先生に鍛えられた署員たちのやる気は目覚ましく、俺が俺がとなって警らで近くにいたものは全て向かう羽目になった。
一番近くにいた自分が指定された場所へ急いで向かうと、人ごみの中でぽっかりと穴が空いたような空間があり、その中心で先生が年若い男を踏みつけているのを見つけた。
「先生、こいつらですか」
声をかけると先生が男の上から降りる。
「ああ、手間をかけさせて悪い」
「いえ、先生にはお世話になっていますから、これくらい」
ビシッと敬礼をして男を捕まえると、先生が「では頼む」と言い残して近くにいた女性達の元へと向かった。
遠目であるが美人で歳が近そうだ。先生の友人なのかもしれない。
そのうちの一人を見た瞬間もしやと我が目を疑ったが、まさかそんなはずはないと思いなおす。
倒れた男を立たせて手錠をはめると、気絶から目を覚ました男が暴れ始めた。
「くそっ、離せ! あの野郎ぶん殴ってやらなきゃ気が済まねえ!!」
若く力はあるようだが使い方がまるでなっていない。
力の入らない方へ極めてしまえば、簡単に抑え込めた。
「そいつの仲間もいるから、ついでに頼む」
先生の声が聞こえると、遠巻きに見ていた衆人の中から何人からが急に膝をついた。
何が起きているのか分からないようで、左右を見渡しながら何とか立ち上がろうとして頭から地面に倒れたりしている。
立ったまま足が痺れると、あんな風に動けなくなる。
何故知っているのかと言えば、先生により自分もそうなったことがあるからだ。
「緊張から足の筋肉が収縮し血流の巡りが悪くなると足が痺れる」そうだが、何をどうすれば手も触れずにそんなことができるのかは何度聞いても理解できなかった。
結局、倒れた連中も後から駆け付けた同僚たちが確保し、全員を連行して留置所に入れてやった。
自分が最初に捕まえた主犯らしき男は、留置所の中でも「許さねえ許さねえ」と呟いていたが、許さなかったからと言って何が出来るはずもない。
「お前を踏みつけていた人は、マシンガン持ってても勝てないからやめておけ」
「ちげぇ、あのメクラ野郎だ」
メクラとは盲人を指す言葉だが、そういえば先生の友人の中に白い杖を突いている女性がいた。
どこかで見た人にそっくりの姿で、まさかそんなことはあるまいと思おうとしていたが、気のせいではないのかもしれない。
「手ひどくやられたか」
「あの野郎、目が見えないなんて嘘つきやがって卑怯な奴だ、絶対に許さねえ」
「目が見えないのは嘘だと思うか」
「そうでもなきゃ俺がやられるはずがねえ、杖だって空振りもしなかった、あの野郎……」
瞳に仄暗い炎を灯した男は飽きずに呪詛の言葉を垂らし続ける。
「復讐ならやめておけ」
「知るかよ」
「多分、杖を持ったあの人は……容赦がない」
あの人が自身の知っている人と同一人物であるなら。
かつて待ち伏せをして朝霧の中で決闘を挑んだ彼女が相手だというならば。
例え目隠しをされても戦いたくない相手だ。
先生と戦い勝てないと悟ったとき、この人のようになりたいと思った。
叩かれ、投げられ、つぶされても、憧れの方が強かった。
だがMAの中で出会ったあの人は、ただ無情に切り捨てて自分が無価値であるのだと突きつけた。
先生とは対極にいる、まるで夜のように冷たい人だった。
未だ不服そうな男だが、仮に復讐を企んでいても先生が近くにいるならば大事は無いだろう。
勿論、事を起こす前に捕まえられるよう監視はつけるが、いっそあの人に斬られた方が大人しくなるのかもしれないと思いながら留置所を後にした。