第一話 はじめてのおしごと‐1
午前九時までには、まだ少し時間がある。余程急なトラブルでもない限り、遅刻ということはないだろう。もう春が目の前にやってきているというのに、俺の心も財布も極寒の冬からは逃げられそうにない。
前の仕事――といってもバイトだが――で貯めた金も底を尽き、必死で給料の良い会社を探して、ようやく見つけた新しい職場の派遣会社。今日はそこへの初出勤日だ。
ラフな格好で良いと言われたので、パーカーにカーゴパンツという普段着。一応念のため、物が多めに入るリュックは背負ってある。
会社の最寄駅から出て数分。ビジネス街から少し離れた、飲食店が立ち並ぶ交差点に到達した。時間に余裕もあるし、ペースは上げなくても平気だろう。出勤時間には少し遅めなせいか、人通りも比較的まばらで、あまり人ごみが好きではない俺にとっては嬉しい状況だったりする。
律儀に信号待ちをしている俺の横を、スーツで決めたおっさんがすいすい進んでいった。ルールを無視して事故を起こすのはそいつの勝手だが、ぜひ俺の見ていないところでやって欲しい。ここへ来る途中にも、事故の検証現場を目撃したばかりだ。朝から血だまりを見て、デリケートな俺の心は荒んでいる。
嫌なものを思い出したが、気持ちを切り替えていこう。青信号を渡り、まだ曖昧な会社への道筋を、なんとか記憶を頼りに歩き続けた。
やがて、会社のある三階建ての古いビルに到着。エレベーターで二階へ行くと、『ルッキル』とだけかかれた表札のかかったドアがある。一見すると何の会社かわからないが、間違いなく派遣会社……らしい。面接を受ける為に一度来ただけなので、俺もはっきりは言えない。考え出すと怪しんでしまいそうなので、そこは目を瞑ろう。
「ふぅ……」
ドアの取っ手に触れる直前に、思わず大きな深呼吸をした。学校だろうが職場だろうが、初日っていうのはどうしてこうも妙な緊張感があるんだろう。帰りたい。
「元気に、笑顔で……!」
小声で呟き、自分を鼓舞する。ここまでする必要はないのだろうが、やっぱり第一印象は大事にしたい。
「よし!」
無事に気合も入ったので、俺は元気良くドアを開けた。
「おはようございます!」
フロア中に、俺の声が響く。少し大袈裟だったかもしれない。が、そもそもそんなことを気にする必要はなかったようだ。
中にいたのは社長ただ一人。他には誰もいなかった。
「あら、ちゃんと来てくれたのね。おはよう」
デスクで書類を触っていた社長が、俺の方を振り返って挨拶を返してくれた。面接の時にも思ったけど、改めて見るとやっぱり美人だ。体型はすらっとしていて、ロングの髪を後ろでまとめたポニーテール。シンプルなメガネをかけていて、その奥にはパッチリ二重。仕事の出来る、綺麗なお姉さんという印象だ。おまけにパンツスーツが色っぽい。これで社長なんかしてるんだから、きっと凄いんだろう、色々と。
「あの、他の人は……?」
「んー、長期だったり時間違いだったりで今は君だけなの」
なるほど……。小規模な会社みたいだし、そういうこともあるのだろう。俺が一人頷いていると、ちょいちょいっと手招きされた。もしかして、さっき触ってた書類は俺の仕事に関するものだったんだろうか。
「早昌晃くん……だったよね。早速だけど、今日のお仕事の説明に入ってもいいかしら」
「もちろんです。よろしくお願いします!」
俺が近付くと、問答無用で本題に入った。それにしても、見れば見るほど綺麗な人だ。仕事上とはいえ、テンションが上がる。誘っていける根性はないにしろ、ぜひ仲良くしていただきたい。
「うんうん、良い返事だ。えっとね……、とりあえずこれを読んで。ある程度で大丈夫だから、内容を把握できたら教えてね」
満足気な顔の社長から、一枚の紙を手渡された。文字自体は詰まっているが、フォントサイズが大きめなので、数分で読みきれる量だと思う。ともかく、短い時間だろうが働く場所のことだ。頭には入れておこう。俺は大人しく、受け取った紙に目を通すことにした。
なになに? 依頼内容は……なんだこれ。えっと、時間は未定か、ふむふむ。依頼人は……なるほどな。
「あの、社長」
「ん、何か書類に不備でもあった?」
いつの間にやら、社長は書類整理を開始していた。手はしっかり動かしつつ、言葉だけで俺に答える。邪魔したくない気もするが、ここは突っ込んでおくべきだ。
「ここに書いてあることって、冗談……ですよね?」
「冗談も何も、ちゃんとした派遣の依頼よ。先方に失礼のないようにね」
「だってこれ、『魔王討伐』って――」
「早昌くん」
俺の言葉をぶった切り、社長が椅子から立ち上がった。顔が近い。おまけに、身長差がいい具合なせいか、上を向いて怒ってる感じが可愛い。とかなんとか思っている俺に対し、社長はかなり真面目な表情だ。
「あのね、内容がどんなものであれ、私が受けた以上それは仕事なの。文句を言う前に準備を整えなさい。返事は?」
「うっ……は、はい……」
想像以上の剣幕に、つい返事をしてしまった。とはいっても、これは一体どういうことなんだ。もしかして、金持ちのお坊ちゃまがゲームのレベル上げをして欲しいとか言い出したんじゃないだろうか。それなら、依頼人の名前が本名じゃないのも理解できる。
無理矢理に自分を納得させた俺だったが、ここでひとつ疑問が浮かんだ。
「そういえば、場所についての表記が全くなかったんですけど……。迎えが来るとか、ですか?」
そう。依頼内容や簡単な注意事項などは書かれていたのに、集合場所から勤務場所まで、その類の項目が一切なかったのだ。これで、金持ち説が一気に有力になってきた。
しかし、俺の鋭い予想は、あっさりと打ち砕かれることになった。




