Ex.変動
現存する国の中でも最古の歴史を誇り、また大陸の覇者として一度も他国の背中を拝した事がない史上最大にして最強の国。
皇国。
先の戦乱ではその力を存分に奮い魔王を打倒したばかりか先代国王の尊い犠牲にもその威光を曇らせることなく、魔王打倒の功労者であり先代の仇をうった新国王の元で更なる繁栄を遂げた、かの国が
今は混乱と不安の坩堝と化していた。
全く……殺伐としていやだなあ。
どこの町に行っても同じだ、なんたって魔王が
しっ!
......
…………はぁぁぁ、勘弁してくれよ旦那ァ。憲兵さん達だって気が立ってるんだから。思いっきり睨まれたよ。しかも旦那じゃなくて俺が。なんで?旦那ふざけんな旦那。
いやいや、すまんかったって。こぼれてる、俺の麦酒、こぼれ……いや……なんでもないっす。どうぞ飲んでください。
酒場の亭主は豪快に酒を煽るとその勢いのままグラスを机に叩きつける。
王都の大通りに面しており常ならば冒険者や非番の騎士や衛士で賑わうこの酒場の客達も、今は不安に顔を陰らすものばかりである。
混乱の始まりは7年程前、国の巫女の予言した魔王の復活。
そしてその2年後、世界のどこかが割れたような衝撃と発せられた膨大な魔力、産声代わりに世界を震撼させた絶叫。
最早魔王の再臨は明白だった……のだが。
それ以来魔王が何か動きを見せる事はない、確かに魔物の動きは前にもまして活発であり魔界と呼ばれる手の入らない地では魔力の濃度が日に日に濃く深くなってはいるのだが今までのように魔王主導により人間界に進出してくることはない。
……実際のところは魔王はとっくに深淵の大森林でのんびり暮らしているというのだが、人間界にその情報がもたらせることはないし、されたらされたでこの森を攻めようという話になるのだが……。
結局のところ、人間界には魔王についての続報がいっさいなく、それがむしろ魔王の不気味な影がじわじわ己らを侵さんと何かたくらんでいるようで国中不安が膨らんでいた。
また魔王というものが幾度も転生することは皆が知るものであり事実、歴史を見ても魔王は幾度もこの世に顕現しては勇者に打倒されているがその周期は 短くでも80年、長い場合は120年ほどであり今回のように10年待たずして再び顕現することはなかったことも不安に拍車をかけていて。
そんなときによぎるのは彼らの時代の彼らの英雄、
かつて彼らを守り守られ、
そして
無駄に潰してしまった番犬の事。
やっぱり……あれがいけなかったんだろうか……
親父……それだけは言っちゃいけないぜ。
柄にもなく酒の一杯で気が迷った亭主にまた大分顔をやつれさせた男が横やりを入れる。
魔王と打倒しうるのは、勇者。
それは何千年もの歴史と数多の犠牲が証明している。
魔法を当然のように見に持つこの世界の生命体ではその魔の恩恵を受けた魔王に勝てる道理がない。
魔の王といえば、この世界での生命体の頂点を指すと行っても過言でもない。
そこに……これは一般には知られていないが外の理の者である勇者、魔王を打倒しうるほどの強大な力を持つものを“招き"危うい所を脱してきたのだ。
そうであっても毎回犠牲を払わなかったことなどなく、幾つかの国が滅ぼされそうになったことや……実際そうなったこともある。
魔王とはそこまでの存在であり、是を打倒しうる勇者はその脅威から人類を守る是また強大な矛でありまた、盾なのである。
無論その存在をないがしろにする程人々は道理をわきまえていなかった訳でないし、狼を狩る為に放った虎を逆上させみすみす襲われる程人々は頭が回らない訳ではなかった。
しかし、前回は……
ふと、店内すべての者が俄に響く高い鐘の音に気付き顔をあげる。
彼らの鼓膜に響く鐘の音は王城の頂上に備え付けられたもので有事の際や国を左右する重大な発表の際に使用されるものだ。
亭主は店内の客を追い出すと閉店の看板をかけそぞろ店前で待っていた彼らと共に中央広場に向かった。
彼らがそこに到着するとすでに広場には溢れんばかりに人が集まり一点、王城のバルコニーに視線を注いでいた。
皆、不安に胸が一杯であった。
口にしてしまったら歯止めが聞かなくなってしまいそうで、聖皇国と呼ばれる国の民であるというその誇りの一点をもって己らの感情を抑えていた彼らは聖女をその目に移し、一様に涙を流した。
それはあまりにも高潔で美しかった。
幾度となく国の窮地をすくい、民を労り、その生活の為に多くの市政をなし、多くの悲しみをその華奢な背に負った聖女は混乱と不安の空気に満ち満ちるこの場においても以前として毅然とした態度を保ち慈愛に満ちた目で国民を見ている。
まさに国母、そのあり方は国民とあり、その手は国をあるべき所へ導く。
鐘が作動させた映像魔術を使い、遠くのものはその画面越しに、近くの者は直にその眼に聖女を見据えるなか、彼女は一言。
たった一言分だけ口を開いた。
「勇者を、喚びましょう。」
にこりと微笑む聖女を見上げ、
まるで酔ったように目を眩ませとろりとした表情の国民は、
次の瞬間割れんばかりの歓声を上げた。
国民は酔う、君主と扇ぐ者をその目に移し
聖王は嘲う、暗い思惑をその目の奥に隠し
世界は正しく、踊り狂う。
古より国とはひとつの生き物であるという。
響く皇国民の歓声をどこか別世界の物事のように感じながら彼は物思わしげにその景色を覚めた目で見つめていた。
それは強大な意思の元一つの方向に進む巨象のようなもので、大人しく歩む時もあれば理性を無くして荒れ狂う災害ともなる。
君主は精々その歩みに若干の修正を入れることがその職分だと言われたものだが。
「ここまで国を己が意の下に置くとはすえおそろしい......我が主様も少し見習って頂きたい所だな。」
木立の中で木の葉の影に紛れるように佇んでいた執事服の青年は喧騒に隠れるように梢から降りると……そのまま地面に吸い込まれるように、小さな染みを残して消えた。




