(Legend) 驚愕するノヴィン
見渡す限りの青い空に一筋の雲、狭い庭には早々下山準備の荷物が六個置いてある。
そこへタワルの三男が四男を伴って走りこんできた。
次男はさっき連絡を行ったばかりで帰ってはいなかったが、次男は長男とすれ違った三男に駆け寄り肩を貸して岩場を降りてきている。
「何処じゃ! 何処に居る!」
裸足で取り乱した様子のノヴィンの張り上げた声に次男は驚いたが
三男のか細い声に耳を傾けて三つの尾根の二番目辺りを指差した。
ノヴィンは必死で目を凝らして尾根を見たが 尾根に動く人影は無い。
あの若造はやたら馬のことを心配して頼んでいきおったとノヴィンは思い出し、
屏風岩にははっきりした道は無いが
尾根の二番目辺りからなら館の厩には一番速くいけるときびすを返した。
館前の庭から厩へ続く門柱代わりの大岩を横切り、逸る心を抑えドードは駆け出ていた。
エイムが落ち着いた長男から事情を聞いて庭に顔を出した時にはもうノヴィンは居ない。
疲れ果てたタワルの三男が横たわり、次男が水を頼んでいる姿があるだけである。
「珍しいなぁー。親方の大声は」何事かと出てきた男たちが顔を見合わせる。
「ほー 流石によく通る親方の声だのう。わしは一番奥の部屋に居たでよ」
「で、何で大声出してたんだぁー」
「さぁー 何でやろう?」
男達は顔を見合わせ何も変わったことが無いと屋敷の中に戻っていった。
親方は厩の前の道を駆け上がり、じっと目を凝らす。ここの岩場に動くものは無い。
厩の後ろは館より急斜面よりに作られているから手前の大岩で尾根の一部分しか見えない。
ノヴィンは岩に手をかけて手近な岩の頂上まで登ったが
その後ろの大岩でさっきより尾根の部分が見えない。
尾根を全部見渡せるのは館の前庭だけだったと思い出して
大岩を降りようと足場を探すが見当たらず苛立って叫んだ。
「誰かー 梯子をもってこい! 急げ、梯子じゃー」
ノヴィンが大声を上げると厩からひょいとレツが顔を出し、
「降りられんのか? ならば手伝ってしんぜよう」
と、一ヶ月以上前に旅立った服装よりも
なおぼろぼろで汚くなった若造が岩に手をかけて登ってくる。
度肝を抜かれた親方が驚きで言葉を失っていると、
するすると岩をよじ登ってきてノヴィンの横に立ち、
「では、抱えるで。目をつぶられよ」
言うが速く、ノヴィンの身体をレツの頭より上に持ち上げ大岩を蹴ってレツは飛び降りる。
ノヴィンの目には空に一筋の雲が見え、軽い衝撃が身体に走った後、
登った大岩を見上げて落下している。
「ここは狭い。もう少し先で下ろすぞ」
と、レツの声。
ノヴィンの返事も待たずにさっさと厩の入り口まで歩きノヴィンを下ろした。
息も出来ないくらいにノヴィンは驚いているが、まずは挨拶がしたかった。
「お早いお帰りでござす。あちらで旅の話など伺いたい・・ささっ・・」
と、どこぞの旅籠の主人のように背筋を伸ばして目をふせる。
「そうだの、私もきちんと礼を言わねばならぬ、伺おう」
レツの周囲は降りた振動で薄っすらと埃が白く立ち上る。
灰色の毛は白く、その上に黄色の砂ぼこりが乗っかり何か得体の知れない物になっている。
がっしりした大男のノヴィンはがくがくした膝が館の中まできちんと歩いてくれるのを祈った。
レツのひたひたと歩く足音を後ろに聞き、
もろ手を挙げ、大声で喜びを叫び周りたい衝動にかられてはいるが
いかんせん身体の四肢の力は喜びを通り越して虚脱の域にまで達している。
土間に通されると思っていたレツは、美しい広間に上がれと言うノヴィンに戸惑った。
レツに座るように勧める場所も一番奥の上座で凝った敷物の上である。
親方はどこか虚ろげでたよりないのでレツは丁寧に上座を断り
ノヴィンより一間、離れて下座に座ることにした。
ノヴィンはそんなレツに何も言わず、レツを正面に構えて座ったっきり見つめている。
ヤルブを預かってもらった礼も言わずに別れを告げるには忍びなく
少々覇気の無くなった親方に違和感を感じつつも先に口上を切り出すことにレツは決めて
口を開きかけた所、ぼんやりした顔の親方が焦点のあわない目でレツを見て口を開いた。
「黙っていてすまねぇ。俺は今いろいろな考えが頭にごちゃごちゃあって・・何から聞いていいか。まずはあんた様の無事を・・無事に、ここに帰りついてわしは喜んでいる。ンだが、ンだが。最初に聞くことはやっぱこれだべ。ンだ。会えたか? 時を司る者、運命を操る者に会えたかい?」
最後の会えたかいが恐ろしく優しい。
何も無かった、会えなかったという言い訳を言い安いように逃げ道を作っている。
レツは親方の気遣いに感謝した。
「そうだな、会ったかと言われれば、会えなかったと言うしかない。あそこがあやつらの宮殿かと問われても私にはわからぬ。ただ声は聞いた。しかし声を聞いたと言っても私の中で聞こえたのも、あやつらの声ではなく、私が自問自答した偽りの声やも知れぬ。あのように草一本、雨露の一粒も無いところに生き物が住んでいるとは思えぬ。あの声は私の狂気が生み出した幻かもしれぬ」
と、けらけら笑うレツをノヴィンの大きな目がぼんやりと見ている。
「これから、どうなさるので?」
夢でも見ているかのようなノヴィンは今にも消え入りそうである。
「来た道を引き返すしかないだろう。ヤルブにはまた苦労をかけるが、今度は来たときよりも上手くあの湖を渡れるといいな。すまぬが、先に来ていたお前たちに渡り方を少しでよいが教えていただきたい。どうじゃ、教えてくれぬか?」
火鼠の皮衣はちょっとひっぱればぼろぼろと崩れる。
物語の神馬のように骨になって湖を渡らせるつもりはさらさら無い。
「地獄の谷も、命がなくなるような湖も渡らさねぇぜ」
つぶやくようなノヴィンの言葉にレツは返答に困った。
目の前の大男はどこか違う遠い所の誰かと会話をしているようだ。