(Legend)トキナ姫
峡谷の朝は日の出前から始まる。
城の厨房ではカマドに火を入れ豆を挽き井戸水をくみ上げる作業に追われている。
森の中は小鳥が騒ぎ出し、家畜が餌を求めて鳴き始める声が谷の四方から聞こえる。
城は御山から流れる川を堀に流し、河原の真ん中の巨大な岩の上に作られている。
トキナ姫の日課は高い南の塔まで駆け上がり、垂れ下がった布を払いのけて塔の窓から急流の川に飛び込み対岸まで泳いで周辺を走り門番に隠れて城に戻る。
門番も濡れ鼠のトキナ姫を見て見ぬフリをする。
門番が注意をしても聞くような姫ではないからである。
濡れた身体のまま姫は厨房へ走り乳母で占い師のボルデェの朝食を運ぶ。
「トキナ様。昨日からの雨で川は濁っていたでしょう。大丈夫でございましたか?」
厨房の料理人はトキナ姫を心配する。なんといっても王妃が残したたった一人の子供。
にこりと笑ったトキナ姫が厨房を離れると
城内を歩き回っていた左大臣のヨウリが料理人に神経質な声をかける。
「姫はよらなんだか?」
要らぬ世話だとおもうが父親の王がなかなか婚姻の日にちを決めぬので
娘のトキナ姫から積極的に話しを進めて欲しいヨウリである。
「先ほどボルディエ様のお食事を持って行かれました」と料理人。
左大臣が動き回る時は姫に無理な願い事押し付けるときだと料理人は長い城の生活で解っている。
「まったく、今日という日にいつもの振る舞い・・」
愚痴を言う左大臣を見送り、いつもより多い材料の仕込みに料理人は取り掛かる。
今日はトキナ姫の十七歳の誕生日。
王直々に料理の献立を言いつけられて忙しいのである。
器が二つだけ乗ったトレイと水差しを持って回廊を渡り北の塔の階段を駆け上がる。
隙間風が入らぬように石作りの部屋は分厚い布を張り巡らせている。
「ボルディエ、起きているか。今日は私が予言をしてやろう。そなたは昼までには王に呼び出しをされる支度をして待っているが良い」
トレイを片手に幾重にも張られた布を避けてテーブルの上に置くと
ボルディエはよそ行きのショールをかけて窓際に座っている。
「あれ、良い匂いですな。変わった匂いが混じっておる。何か私目の食事に入れましたな。ほほう、これは珍しいコッティの根を煎じましたね。それにファコム草・・どなたか中原に行かれましたかな。私の記憶ではここ数十年、この国に旅人は立ち寄っていませぬが」
白濁した目でテーブルを見る。濡れた髪の毛のトキナがうっすらと見える。
「オババは鼻が良い」
と窓際まで近寄りオババの様子を見て微笑む。いつでも呼び出されていいように支度が整っている。
「これは私の婚約者殿にお願いして届いたものだ」
椅子ごとオババを抱え上げテーブルにつかせる。
「ほう!では姿絵と共に届いたのですか」
トキナはオババとの会話が大好きである。
「そうだ、物語には男は女にねだられると喜んで苦労する書いてあった。その通りであったぞ」
オババの手元までスプーンを寄せる。
「それは、それは・・」
明るい笑顔のオババである。物語の中の出来事を実際に行なう姫が微笑ましい。
開け放った窓を閉めて隙間に埋める毛布を拾い上げる。
「対岸の橋が壊れている。水量が増えたのが原因だな。御山の堰の工事を早めねばなるまい」
埃が立たないよう隙間を埋めるとおかゆを口に運ぶボルディエに横に立った。
「おやおや見てきたのかえ。私も食事がすめば大臣に会おうと思っていたところではあるが」
と窓に向けた顔が一瞬とまるいつの間にか足音を立てずにトキナ姫がそばにいる。
「いつから解っておったのだ?」とトキナ姫。
「さぁてね。わしは気まぐれだで。ほう、懐かしい味だね」
はてさて姫はいつから気配を自在に操れるようになったのなとボルディエは思う。
しかし無駄な考えを打ち切る。
「そろそろ父王の元にいきなされ、ヨウリ殿がここに登ってくる。私はヨウリ殿と話しをしよう」
ヨウリのせかせかした心が近づいてきている。
「オババの言うとおりにするよ。ではまた後で会おう」
ボルディエの忠告は素直に聞く。
「ああ、ああ」と返事をしながらどうやってヨウリ左大臣の心を落ち着けさせようかと頭を巡らすボルディエ。
トキナ姫は塔の螺旋階段を無視して真ん中に開いた穴に飛び込み
ヨウリ大臣を交わして床に飛び降りると回廊の乾いた砂を蹴って大広間へと急いだ。
「父上」
又のそのようなところでとトキナは姫は苦笑する。
昨日届いたトキナ姫の婚約者トビアス王子の絵の前で
嫁ぐ日が近づいた姫を想い、ずっとこの広間でたたずんでいる。
娘の突然の登場に嬉しさが顔に出る。
「彼の身体の調子は、成長すると共に良くなっているようだな」
堂々とした体躯が王には眩しい。
「そのようですね」トビアス王子などには少しの興味も覚えないトキナ姫。
年を追うごとに居丈高になる立ち姿の男は血色の良い唇と見事な細工の剣を二本下げている。
恐らくトキナ姫が想像するに婿入りの際にはもっとしょぼくれた青白い男が現われると思っている。
父親は絵姿通りの男が来てくれると喜んでいるのに水をさす言葉がトキナ姫に浮かぶ。
その言葉をかき消して、
「父上、誕生会よりも先に話し合わなければならぬことが出来ました。ボルディエが予言をしています。も堰がいっぱいで決壊の恐れがあると」
思い出したように大事なことを何気に切り出す。
「何?また彼女を御山に連れて行くのか?そんな辛い行動をとらせたくはないぞ」
過去に浸っていた緩い想いは退き王の顔が曇る。
「オババは御山では死なぬ。父上は心配のしすぎだ」
腕組をしてこ絵を何処に置くかを考える。母親の隣にはトキナは置きたくない。
かといってこれから町の長老たちがこの城に登ってくる。
いちいちこの王子を中心に会話を交わすのも時間がもったいない。
「父上この姿絵を私の部屋に持って行ってもよかろうか」
裏返しにおけばよいのである。
「そうだの。そのために向こうは送ってきたのだから。それが良かろうの」
一瞬父親として躊躇したがまだ本物お婿が来たわけではない沸き立った心を静める。
「では、しからばごめん」
等身大の立派な額縁つきの絵をトキナ姫は持ち上げると王の前から王子を隠した。
「ついでにラッパのリスに東の塔に昇るように言っておく。後でヨウリが来るが少し話しを聞いてくれ」
と言い残して去ってしまった。